映画のレビュー

同性間の究極の愛を描いた『江ノ島プリズム』――修太と朔が友人以上であるという説

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時期を完全に逃してますが最近ネトフリで見てすごーく感動したのでレビューを書こうと思います。
完全にネタバレです。注意。

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                      映画『江の島プリズム』批評   
               ~同性間の究極の愛~

 

                          イントロダクション

  『江ノ島プリズム』は2013年に公開された、吉田康弘監督、小林弘利原案の映画である。恋心と友情の間で揺れ動く幼馴染み3人がタイムトラベルを経験するという構図から、『時をかける少女』の系譜とされ、タイムトラベルもの青春映画として好評を博した。公式サイトで「青春時代の無邪気さと挫折と淡い恋心を、水彩画のように瑞々しく描いた」作品であると述べられているように、この物語は一見、異性愛者の幼馴染み三人の恋と友情を扱っているように見える。ネット上のレビューをざっと概観してみても、タイムパラドックスに関しては疑義を呈していても、この三人のセクシュアリティを疑問に思っているようなものは見受けられなかった。そこで私はここで、『江ノ島プリズム』の主要テーマが、「同性間の究極の愛」である、とする説を主張したい。同性間――つまり、修太から朔への愛と朔から修太への愛、である。私は以下に述べる根拠から、ふたりが限りなく恋人同士に近い関係であり、制作側がその二人の同性愛的関係をこの映画の主要テーマとして据えたと解釈する。その根拠は3つある。1.修太の朔に対する異常なまでの自己犠牲精神 2.ミチルの失恋による急な留学 3.作中に散りばめられている修太と朔の同性愛的関係を示唆するシーンやセリフ である。以下でそれぞれの根拠について詳しく述べていきたい。

                            本論

 まず第一に、修太の朔への異常な自己犠牲精神について述べる。例えば、修太は「朔のいない未来になんか何の未練もない」「朔の命以上に大事なものなんてない」と発言して過去を変え、朔の命を救うために突き進む。こういう思いを、ただの男友達――幼馴染みで親友とはいえ、あくまで友達――に対して抱くだろうか? そして、全てを失うことを覚悟で、全ての人に忘れ去られて、タイムプリズナーとして永遠に時空のはざまに囚われることを覚悟で、「過去を改変」し、親友の命を救えるだろうか?――つまり私がここで言いたいのは、親友の代わりに死ねるか、ということである。人々から忘れ去られるということは、自分の存在が消されるということ、すなわち、物理的な死よりも圧倒的に孤独な死を意味する。例えば、ある出来事により追い詰められ、社会から孤立することによって自らの存在を消した、オースターの『幻影の書』の登場人物、ヘクターとジンマーは死者同然である。このように人々、すなわち社会に認知されない状態というのは、究極的な人間の死であり、物理的に肉体が滅びてなお人々の記憶に残るよりも残酷でありうる。そういう、自らの存在を全否定されることに、人は耐えうるだろうか? 私は、とても耐ええない、と思う――愛する人のためでなければ。


 第二に、ミチルの留学がこの作品にとってどんな意味を持っているかを述べる。彼女の留学理由は、「修太に恋をしていたが、修太と朔の決定的な場面(性的な)を目撃し失恋したから」だと解釈する。理由は以下――私はミチルがなぜ修太と朔に別れを告げずにいきなり留学しようとしたのかが、初めから疑問でならなかった。三人のようすを見る限り、関係性は良好以上で、留学をふたりに告げる妨げとなるものが何一つないからだ。(ミチルが修太への想いを秘めていて留学前に告げようか悩んでいたとしても、留学そのものについて二人の前で一切言及しない理由がない)この、結果的に修太を死へと導いた行為――出発の直前に朔に修太をお願い、といった内容の手紙を渡す――さえなければ何も問題は起こらなかったはずなのである。そしてこのミチルの不可解な言動こそが物語の大きなキーなのである。ミチルはなぜいい友人に恵まれながら留学を選んだのか? そしてそのことを告げずに去ろうとしたのか?――この問いについて考えることは非常に重要である。まずミチルが留学を決めた理由として考えられるのは、単に語学を学びたかったから、というシンプルな向学心であるという説。これは、ありえなくはない、もし、彼女が留学のことを事前にふたりに明らかにしていたならば。しかし現実には、ミチルはあれほど厚い友情を築いている相手にひとことの相談もなく留学を決めた。よって、ことはそう単純ではなさそうである。では、海外に単身赴任する親(おそらくは父)に付いてゆくという線はどうか? 辻褄が合わない。なんら後ろ暗いことはないのだから、真実を修太と朔に伝えるはずだからである。ならば親の離婚か?――これも作中で一切言及がないのが不自然である。なぜなら、小・中・高と同じ学校に通った三人はおそらく近所に住む幼馴染みで、親同士の繋がりもあるはずだからだ。ミチルが隠していたとしても、早晩修太と朔の耳には入っているはずである。そして友情に厚いふたりは必ずそのことを心配してミチルを元気づけようとするはずである。それならば、ミチルがふたりに黙って留学しようとした真の理由とは何か?――それは、彼女が失恋したからである、と私は考えている。修太に恋していたミチルはおそらく、修太と朔が友情以上の絆で結ばれているとわかる決定的瞬間を見てしまったのだ。それが会話だったのか、キスだったのか、その他の何かだったのかはわからないが、ふたりが友情以上の絆で結ばれているということを決定的にするシーンを、彼女は見てしまったに違いない。そうすれば、全てのつじつまが合う。留学をふたりに知らせずに決めた理由も、花火の後で「秘密」を告白できなかった理由も(たぶん二人の関係を自分が知っていることを告白しようかどうか迷った末何も言えなかったのだろう)、要所要所で「朔、修太、ありがとう……」と心の中で呟いていた理由も(朔、修太、長い間私を仲間に入れてくれてありがとう、みたいな意味? ハリポタでロンとハーマイオニーが両想いになった後のハリー的立ち位置で疎外感に苛まれた上、失恋してボロボロになり、踏んだり蹴ったりの状態?)、手紙に修太のトリセツを書いた理由も(自分は身を引き、恋敵の朔に修太を託した)、「もし修太に好きな人ができたら真っ先に教えてください」と書いた理由も(そう書くことによってあくまで二人の関係には感づいていないフリをした)すべて説明がつく。だからミチルの留学は、失恋によるものである、というのが合理的な解釈であるとわかる。


 次に、修太と朔が恋愛関係にあることを示唆するシーンについて論じる。作中で二人の間に友情以上のものをほのめかすシーンはほとんどない。しかし全くないわけでもない。例えば、1時間16分あたりの、このNetflixのサムネにもなっていた、海辺をふたりで疾走するシーンに注目してほしい。ここがこの物語の核心である。まずここで第一に、疾走する二人の背景が虹色である。(夕暮れ時のグラデーションがかった空。「虹」がしばしば同性愛者を含む性的マイノリティの象徴として使われてきたことは周知のとおり)加えて、決定的な会話がなされる。以下セリフ抜粋↓

修「朔、約束しろよ。ミチルのこと、幸せにしろよ」
朔「何だよそれ、あのなあ……!
修「いいから 約束したぞ!」 
                       (太字・下線部は強調部分)

 ここで朔とミチルが実は両想いであると勘違いしている修太は朔にミチルを託す。しかし、朔はこう答える――「何だよそれ、あのなあ……!」……この、「あのなあ……!」のあとに続くセリフは何だろうか? 少なくとも、修太のセリフを肯定するようなものではないことは確かだ。「あのなあ」と言っているのだから。

1.あのなあ、勘違いしてるみたいだけど、おれ別にミチルのことそういうふうに思ってないから(ミチルのことが好きではない+修太と友情以上の関係を築いている、もしくはただの親友)(ミチルのことが好きだけど身を引こうとしている+修太はただの親友)
              or
2.あのなあ、そんなふうに譲られても気分悪いだけだから。(ミチルのことは好き+正々堂々勝負しようと言っている+修太がただの親友)

 個人的には1のケースで限りなく恋人同士に近い関係性である可能性が高いと思っている。それは、映画全体を概観した時、修太から朔への溢れんばかりの愛の描写がこれでもかとばかりに散りばめられているからである。常に病弱な朔を助けてきた修太とそれを拒まない朔(冒頭シーンも口では色々言いながらも本気で拒絶はしていない)、窓をまたいで教室に入るときに自然に手と手をとりあった修太と朔、朔とミチルを心の中で、あるいは声に出して呼ぶときにほとんど朔の方から呼ぶ修太(2人に別れを告げるシーンでも、「さよなら朔、さよならミチル、さよなら、おれ」と言っている)、修太の制服の袖が自分と同じようにほつれているのを発見して、「おれみたいになりたいから制服をわざと破いたとか?」と嬉しそうに言う朔、最後のシーン(電車での別れのシーン・海辺で再会したシーン)で明らかにされない修太の視線の行方(恐らく朔を見て笑ったと思われる。相手がミチルであればそもそもぼかす必要がないのでは?)などなど、挙げればキリがない。そう、この作品はタイトルが虹を作ることのできる「プリズム」である通り、まさに同性愛の物語なのである。

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【レインボーフラッグはLGBTQ+の象徴。太陽の白い光が水滴やプリズムなどにぶつかったときに、その屈折率の違いで何色にも分かれて見えるのと同じように、性的指向及び性の多様性(レズビアン[女性の同性愛者]・ゲイ[男性同性愛者]・バイセクシュアル[男女問わずに性愛の対象に入る男性及び女性]・トランスジェンダー[別名性同一性障害。生まれたときの身体的な性が心の性と違う方]・クエスチョニング[自らの性的指向・性自認を探求中のひと]など)をも含んだ人間の多様性を尊重しようという社会運動を象徴するものとしてアメリカの活動家ギルバート・ベイカーさんが1980年頃に考案。以来各地でのプライド・ムーブメントで使われている】


                               結論

 以上見てきたように、修太の朔への異常ともいえるほどの献身ぶり、ミチルの急な留学、そして数々の修太と朔が恋愛関係にあることを示唆するシーンとセリフ(どの程度踏み込んだ関係かは不明)から、『江ノ島プリズム』が若き青年ふたりの美しい、究極的な愛を描いた物語であることは明らかである。しかも、「男は好きじゃないけどお前は好き!」とかいう、謎のノンケ(異性愛者)攻めが常態化しているホモフォビックなBL業界とは一線を画す、「リアルな」同性愛物語である。それは、極限まで抑圧された同性間の性愛表現から読み取ることができる。作中で、「厚い友情で結ばれた二人の身体的接触」以上の表現はなきに等しい。ふたりは意味深に視線を交わすこともないし、図書室の書架の間で抱き合うこともないし、口づけを交わすこともない。一方が他方をおんぶしたり、手を取って引っぱり上げたり、自転車の後部に乗った朔が前にいる修太の肩に手を置いたりと、身体的な接触はあるが、性的な匂いのするものはひとつとしてない。また、ふたりが愛のことばを囁き合うシーンもない。ただの友人にしては親しいが決して一線を越えていない若い青年同士、というふうに描かれている。そしてこれこそが、修太と朔が「公」に見せなければならない姿なのである。誰にも見つからぬ場所で愛を確かめ合わねばならぬ存在――それこそが今の社会における同性愛者なのである、と作者が喝破しているように思えてならない。
 極限まで性愛表現を削りながらも究極の同性間の愛を描く、ということを製作者はやってのけた。私はそのゆえに、『江の島プリズム』が社会的に非常に価値ある作品であると思うのである。






                             <その他のシーンの解釈>

1.花火の後の「三人全員に秘密がある」というセリフ

花火の後の告白の場面について述べる。ここで、修太は、ミチルに留学の話をさせるため、線香花火の勝負で負けたひとが自分の秘密を明かそう、と提案する。ここで重要なのは、朔に続く修太のセリフである。以下抜粋部分→

修太「内緒にしてること、喋るってのはどうだ?」
朔 「秘密なんてねえだろ、俺たちの間に」
修太「あるんだよ。おれにも朔にも……ミチルにも
朔 「何だか知らねえけど、負けなきゃいいんだな?」
                                (太字・下線部分は強調部分)

 太字と下線で強調した部分が非常に気になった。ミチルの秘密が海外留学と、朔への想い(この時点ではそう勘違いしている)、修太の秘密が「タイムトラベラーであること」だとして、修太が思っていた朔の秘密とは何か?――単に「ミチルへの恋愛感情」だともとれるが、全体を概観したとき、より整合性のある解釈は「修太と友人以上の関係であるにもかかわらずミチルが好きなこと」であると思う。

2.「修太・朔友人以上説」と矛盾しそうな場面:最後の江ノ電の駅での別れの場面でのやりとり

 物語の終盤でミチルから朔への手紙を目にした修太は、ミチルが自分に想いを寄せていることを知る。そしてその直後に、「でも、これでよかったんだ……ミチル、いつかどこかで会ったら笑いかけてくれよ」と悔悟の念を振り払うかのように言う――ここだけが、修太と朔が特別な関係を築いていたとするこの説と最も矛盾しそうな点である。実際に管理人も一回目に映画を見たときには、ここで修太からミチルへの想いを確信した。そして友(朔)のために愛する人をあきらめるなんて何と崇高で美しい人間なのだろう、と思った。(高校生とは思えない・・・)
 そしてしばらく色々考えていた。多様な解釈を許すために「開いた」物語にするためにあえてそう言わせたのかもしれない、とか、単に私の解釈が間違っていたのかもしれない、とか……。しかしどうしてもミチルが留学を告げずに去ろうとした理由が気になって(事件の発端)ぐるぐる考えていたらひらめいた――修太のことばの真の意味を。
 仮に修太が朔とミチルが両片想いだと勘違いしていたとする(朔が修太と特別な関係にあっても矛盾しない)――そしてここで自分の勘違いに気付き、ミチルの想い人が自分であることを発見したとする――すると「でもこれでよかったんだ。ミチル、いつかどこかで会ったら笑いかけてくれよ」というセリフは不自然ではなくなる。つまり、「(どうやらミチルはおれのことを好きだったようだけど)でもこれでよかったんだ。(友人としてミチルに幸せになってほしいという思いから)いつかどこかで会ったら笑いかけてくれよ(=朔と幸せになれよ)」と言ったと解釈できるようになるのだ。また、彼は、そして彼は、朔に電車に乗ってミチルに付き添ってやるよう背中を押す――二人が幸せになることを願って。こうして見てみるとすべての矛盾が解消される。と同時に、とても高校生とは思えない修太くんの献身ぶりに超越性を感じる……(悟っている?)。

                                                             以上



 長々と「修太・朔友人以上説」を展開してみました・・・・・・こういう読み方もできるかな、と。腐女子だからそういう方向にもっていきたいのではなく、かなり明らかに修太と朔の関係が仄めかされていると感じたのでいろいろなシーンを振り返って考えてみました。修太と朔に友情以上のものがあったのは間違いないと思います。ただそれがどの程度のものであったかはわかりません。修太の「ミチルのこと幸せにしろよ」というセリフへの朔の反応が大きくなかったところをみると、どちらかが告白して、肉体関係があってはっきり「付き合っている」という状態ではなかったように思います。(それだったら朔が「いきなり何言っちゃってんの?」的な反応をするはず。浮気を疑われて怒り出す可能性が高い)互いが特別で、友人の枠からははみ出しているけれど、一歩踏み込めない――そんな感じかな。だから厳密に言えば「恋人同士に限りなく近い親友同士」ですね。その揺らぎ、若者独特の迷いや世間への恐れがまたいいです。この作品で制作者は青春やそれに付随する揺らぎ、恐れ、迷い、不完全さを描くことに成功していると思います。
とっても良い映画でした!
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