その他

解けぬ氷を描く画家 2

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 流が次に菊野と会ったのは、その約十日後だった。流はその日、敦也に会いに行った帰りにふと思いついて玉東の本屋――外界からは考えられないほど品数が乏しい、薄暗い感じの店――に寄った。そこに、曲がりなりにも絵画のギャラリーらしきものがあると聞いて、興味を惹かれたからだ。
見知った顔を発見したのは、手狭な館内をブラブラと歩いているときだった。波打つ亜麻色の髪を後ろで高めに一つに括って、一枚の絵の前で立ち尽くしている相手に気付かぬ方が無理というものだった。彼は少ない客の衆目を集めているのにも構わずに、名もない画家の描いた雪降る街並みの油絵に見入っていたからだ。地味な和装姿だったが、その、ここら一帯において性産業に従事する男性の象徴である長髪と、磨き抜かれた、一種人工的な美しさが、人々の注目を集めずにはおかなかった。
 何となく声をかけるのがはばかられ、近くで他の絵を眺めて機を窺っていると、やがて流に気付いたらしい相手が近寄ってきた。
「近江さま? 覚えてらっしゃいますか、一週間ほど前に瑠璃の部屋でお会いした、菊野ですが」
 菊野は薄紅色の地味な、しかし女物であることは明らかな着物姿だった。しかし化粧はしていない。それなのに前回会ったときと印象はほとんど変わらないのは、きっと華やかな容貌だからに違いなかった。それに思ったより上背があって、目線の高さが同じだった。
「もちろん。ここにはよく来るの?」
「ええ。近江さまも?」
 答えようとしたそのとき、流は菊野に向けられた、中年の男の粘つくような視線に気づき、眉を寄せた。
「……場所、変えないか?」
「そうですね。お食事、されました?」
 相手は流の真意に気付く様子もなく頷いた。
「うん。菊野さんは?」
「もう食べました。では茶屋にでも?」
 相手の問いに、流は少し沈黙したのちに頷いた。

 菊野は本屋から通りを一本隔てたところにある茶屋に流を案内してくれた。平日の、夕食の時間帯なのにもかかわらず、店内は混んでいた。タイミングよく空いた奥の席に陣取って、二人は茶と軽食を注文した。
流は先ほど目撃した気持ち悪い視線に不快感を覚えながら、飲み物を一口飲んで口火を切った。
「あの、この間は来てくれてありがとう。忙しかったでしょ?」
「いいえ……こちらこそ、いつも瑠璃によくして頂いてありがとうございます。よほど旦那さまには心許しているのでしょうね、あの子が特別な人を作るのはあなたが初めてなのですよ」
 そう言ってこちらの反応を窺う相手に、敦也が、鋭い、と言った意味がわかった、と思った。菊野は敦也の心が流に向いていないことを、何か別の目的のために自分の〝特別″にしたことに感づいているようだった。
「うん……でもきっとそんなに深い意味はないと思う……」
 もし目の前の青年が相手なら勝ち目はないな、と思いつつ、流は少し沈んだ声で言った。すると、菊野は目の鋭さはそのままで、慰めるように言った。
「そんなことはありませんよ。気持ちがなければマブにはしないですから」
「そう、かな……まぁ顔が好みだとは言ってくれたけど……」
 そのことばに、相手の表情がわずかに変わった。
「瑠璃がそんなことを……?」
「うん。最初に会ったときにね……じゃなかったらとうに門前払いをされてるよ、僕みたいな貧乏教師は」
「そうですか、それはようございました」
 気のせいか、目の前の美形の雰囲気が和らいだような気がした。決して女性的ではないが、綺麗、という形容詞も不思議としっくりくる若い男は、何かに納得したような顔をしてそこで瑠璃の話題を打ち切った。そして彼目当てで寄って来る遊客たちを華麗に退けながら――彼は相手に具体的に予約の日取りを聞くという高等技術を使って、自分をあげる余裕のない野次馬たちを見事に撃退していた――さまざまな画家たちや絵画の技法についてひとしきり流と語らい合った。

 流が敦也の正式なマブになったのはそれから一週間ほど経った頃のことだった。それと同時に彼を玉東の外に連れ出すこともできるようになったため――初めは遣り手に渋られたが敦也の口添えで説得に成功した――、その十日後に早速流は敦也と菊野を伴って玉東区外に出ることにした。トップクラスの傾城をふたりともなって外出するには莫大な金がかかり、とても流に負担できる額ではなかったのだが、敦也が彼の反対を押し切って自腹を切ったために、実現したのだった。
 遣り手は初めいい顔をしなかったが、外出日がふたりの休日であることを知ると監視役を大勢つける条件で許可を出した。
 流は屈強な若衆が四人もついてくることに違和感を覚えながら、敦也と菊野をはじめ、家の近所の美術館へと案内した。普段あまりに貧弱なギャラリーにしか行けない彼らを慮ってのことだった。ふたりは思った以上に喜んでくれたが、いかんせん浮世離れした雰囲気と長髪のために周囲の注意を惹いてしまっていた。それでも彼らは平気な顔で絵画を鑑賞していたが、ついに流の方が彼らに纏わりつく視線とヒソヒソ言う声に耐え切れなくなり、ふたりを外に連れ出すハメになった。
 流はふたりを行きつけのカフェ――薄暗く、ボックス席が多いカフェ――へと案内すると、店の前で言った。
「ちょっと早いけどお昼ここで食べてかない? それとも他にどっか行きたいとこある?」
 そのことばに、敦也が伺いを立てるように信を見た。信はそんな敦也に、逆に、君は、と聞いた。
「どこでもいいです……」
 すると信は頷き、私も構いません、と言った。流は少々ホッとしながら、花街にしては控えめだが、普通の世界では十分派手な衣装で着飾った傾城たちをカフェの中へと誘った。
 間接照明のみで相変わらず近づかないと人の顔が判別できないモダンな雰囲気のカフェは幸い空いていた。勝手知ったる流は店員が来るのを待たずに敦也と菊野を左奥のボックス席に連れて行った――若衆たちは少し離れた席に座り、さりげなくこちらを監視していた――。そして向かい側に並んで座った彼らに黒い革表紙のメニューを手渡しながら、場所を移動したことの言い訳をしてみた。
「あの、あそこ、何か君らをヘンな目で見てるヤツいたからさ……決して一緒にいるところをひとに見られたくないとかそういうんじゃ―――」
 元より性を売る者が他の職業の人々に劣るなどとは一度も思ったことのない流のそのことばは偽らざる本心だった。するとメニューを眺めていた菊野は目をあげた。敦也の方は、その菊野を見ていた。
菊野はそれを気にするふうでもなく、何もかも見通すような深い瞳でこちらを見て静かに言った。
「それは知っています。あなたの目は最初から私を人間として見ていました。気を遣ってくださったこともわかっています………でも、私はどんな目で見られてもいいのです。何かされるわけでも、それで私自身の何かが変わるわけでもないので」
 静かに己の信念を語る理知的な雰囲気の漂う青年を、愛しいひとはじっと見つめていた。
「―――今日、この、色子を象徴するような髪を隠さずに来たのは、我々が隠され、厭われる存在ではないと思っているからです。そして、あるときは利用され、またあるときには都合よく忘れ去られる存在ではなくなりたいからです。我々がこの社会に存在していて、その暗部で汚れ仕事を引き受けていることを、踏み台になっていることを、人々に忘れて欲しくないからです。もし汚点だと思うのなら是正するために動けばいい……私も廓から出た暁には、そういった活動に本格的に携わりたいと思っています。………だからコレは」
 菊野はそう言って着物と長髪を指し示した。
「何もせずに我々の存在を抹消しようとする人々への、一種の政治的主張なのです」
 その瞬間の菊野は凛としていて信じられないくらい美しかった。性的な何かというよりも聖的な何かを感じさせるような、圧倒的な美しさの光に目を射抜かれ、流は暫時ことばを失った。そして、何の脈略もなく、これほどの人物が長生きするはずがない、と直感した。
「本当に……その通りだね……」
「すみません、少々熱くなりすぎました……失礼を申しました……」
 少し恥じ入った様子で謝罪してくる相手に、流は首を振った。
「謝らないで……本当に、その通りだと思うから……さっき君たちを見てた人たちとか、本当に気持ち悪かったから……でもきっと、僕も同じ――」
「そんなことはありません」
 美術館にいた気持ち悪い男たちは自分の鏡だったのだ、と悟って落ち込む流に、菊野はまた慰めのことばを口にした。
「あなたは違います……違うと、私は思います」
 そして横の敦也を見、視線で促した。すると彼はここでようやく菊野から視線を引きはがし、流の方を向いた。
「うちも、そう思う」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……でもきっと、傷つけてしまっているんだろうね……ごめんね、瑠璃」
 流の謝罪が不可解だったのか、敦也は不思議そうな表情をしただけで何も言わなかった。すると場を取り繕うように菊野が再び口を開いた。
「何食べる? ほら、瑠璃が好きなドリアがあるよ。ありがたいねぇ、こうして外で普段なかなか食べられないものをごちそうしてくださるんだから」
「ありがと……」
 敦也は一旦目を上げて流に礼を言うと、すぐに興味を失ったかのように視線をメニューに戻した。そのそっけなさに菊野は苦笑し、申し訳なさそうな表情でこちらを見てきたが、結局それについては何も言わなかった。
「飲み物は何にする?」
「お茶……。し……菊野さんは何食べるんですか?」
「そうだな……この野菜カレーにしようかな。旦那さまはどうされますか?」
 そう言って菊野が優美な手つきで手渡してきたメニュー表を、流はざっと見た。そして目にとまったサンドイッチセットに決めて手を挙げ、ウェイターを呼んだ。
「ちょっとお手洗い行ってきます……」
 ぼそぼそと断りを入れて敦也が席を立った直後に、店員が注文を取りに来た。
「よぉ、流」
やってきたのは顔見知りの井坂だった。流よりも少し上の画家志望の男で、休みに一緒に美術館を回ったり互いの作品を批評し合ったりする仲だった。しかし相手は、流の向かいに坐す菊野に目を止めた瞬間、あからさまに顔をしかめた。まるで汚物でも見るようなその目つきに戸惑いつつ、口を開く。
「いやー、寒くなってきたね」
 すると菊野を凝視していた相手はハッとしたように流に目を戻した。
「……だな。晩秋って感じだ……」
 流は相手の反応に疑問を感じつつ、いつものように注文しようとしたが、口を開きかけた瞬間に相手が言った。
「そのひとと、知り合い?」
「うん」
「ふーん、お前男もイケたんだ」
「え?」
「いや、ちょっと意外だったからさ……そのひと、そっち系だろ? 知ってるぜ、有名だもん」
 好奇心むき出しの表情でモノでも見るように菊野を観察する友人に、こんな人間だったのか、と幻滅しながら、流は返した。
「どうでもいいでしょ……注文取ってくれる? 僕はサンドイッチのセットで飲み物はアイスティー、ミルクで。あとドリアのセットをひとつ。飲み物はお茶で。あとカレーセットで、飲み物は……?」
 菊野に問うと、彼は答えた。
「温かい紅茶をストレートでお願いします」
 しかし井坂は注文を書きとめようとするそぶりすらせずに流と菊野を、胸の悪くなるような薄笑いを浮かべて交互に見ながら言った。
「するとウワサは本当だったのか。へぇ、こういうのがタイプなんだ」
「ちょっと」
 流はカチンときて相手を睨んだ。〝こういうの″という言い方が気に入らなかった。〝こういうひと″ならまだしも、まるで菊野をモノ扱いしているようで腹が立ったのだ。
「何だよ、水くさいじゃないか、今度おれも呼んでくれよ」
 井坂は菊野の素性を知っている口ぶりだった。おそらく、顔写真か何かを見たことがあるのだろう。
「花街っていったら芸術文化流行の発信地と昔から相場が決まってるからな。それに一度男を経験しておくのも悪くない。シェイクスピアもゲイだったっていうし、創作の幅が広がるかも」
「ちょっと雅、いい加減にしないと―――」
 そのとき、菊野が流を遮って口を開いた。見るとスケジュール帳を取り出し、ボールペンのペン先を出していた。
「再来週の水曜か金曜ならお取りできますよ」
 涼しい顔で営業を始めた菊野に唖然としていると、やはり井坂も呆気に取られて絶句していた。
「花代の相場はご存じですか? 一応こちらが料金表――」
 そう言って紙きれを渡そうとした菊野から距離を取るようにして後ずさった井坂は、動揺を取り繕う余裕もないらしくあわあわしながら、いいです、少々お待ち下さいませ、と叫ぶように言って奥に逃げ帰ってしまった。その後ろ姿が厨房へと続く扉の向こうに消えるのを見届けてから、流は改めて目の前の男に目を戻した。彼はちょうど手帳とペンをカバンにしまったところだった。そして、申し訳なさそうに言った。
「すみません……これが一番良い対処法なもので……」
「………」
「やはりこんな格好で来るべきではなかったかもしれません……迷惑をかけてしまって申し訳ありません。馴染みのお店なのでしょう、ここは」
 あくまで流の心配をする相手に、なんという善人なのだろう、と彼は驚きと共に思った。
「……いや、僕の方こそゴメン! 知り合いがとんだ失礼を………」
 菊野は首を振って、もうこの話題は終わりとばかりにふたりの共通項である芸術の話をし始めた。彼が話していたのは確かモネが影響を受けた画家たちについてだったような気がするが、定かではない。なぜなら、菊野や、同じような立場に置かれた人々が日々直面させられているものを目の当たりにし、彼らの生きる世界がいかに痛苦と恥辱にまみれたものであるかを思い知らされ、衝撃を受けたからだ。日常茶飯事とばかりにほとんど顔色を変えることすらなく自分に絡んでくる相手をあしらった菊野を見て、彼はやはり別世界の人間なのだと痛感せざるを得なかった。

 流はなにごともなかったかのように振る舞う菊野と、彼を見舞った災難を知らぬ敦也と共に昼食を済ませ、その足で自宅に向かった。古びてはいるが、造りが良いのか断熱・防音に優れている上まあまあ広いアパートの二階の角部屋が流の住み処だった。外階段を上がり、ふたりを先に通して自分も中に入ると、玄関の扉を閉めた。監視役の男たちはドアの前で待機すると言ってついてこなかった。
室内は冬の気配を感じさせる冷気でヒンヤリしていた。流はふたりに、ダイニング兼リビングにあるソファに腰掛けるよう言い、茶と茶菓子を出した。絵を見せる瞬間をできるだけ引き延ばすためだ。
 彼らは礼を言ってそれを受け取り、口をつけた。
「そういえば菊野さんって僕とそんなに年離れてないよね? もうそんなにかしこまって話さなくてもいーよ」
 ふたりの向かいに腰掛けてそう言うと、菊野の瞳孔がわずかに開いた、ような気がした。
「よろしいので……?」
「うん。むしろお願い。こんな歳近い人に改まって喋られてるとすごくヘンな気分になるから」
「わかりました……わかった、そうさせてもらう。……今日はありがとう、外界(そと)に出してくれて」
「いやいや、実際は――」
 外出費用を流がほとんど負担していないことを伝えようとしたそのとき、敦也が口を開いた。
「カステラ、おかわり」
「えっ……? あぁ、わかったよ。菊野さんはいる?」
 流の問いかけに相手は首を振った。そこで彼は敦也が突き出してきた小皿を受け取ってキッチンに行った。そして、敦也は自腹を切ったことを知られたくないんだな、と思いつつカステラをもうふた切れ切り分けて皿に盛り、リビングに戻った。
「いい部屋だな」
 周りを観察していた菊野のことばに、流は苦笑した。
「高価(たか)いのは全然ないんだけどね。でも無名でも才能あるひとっていっぱいいるんだよね。ホラ、コレとか――」
 そう言って流は最もお気に入りの絵を指し示した。
「この天上からの光と虹の色合いが最高でしょ? 不世出の天才っていうのかなあ、そうひとって案外多いんだよね」
 そこで絵を見に寄って来ていた敦也が言った。
「菊野さんもだよ……バイオリンすげーうまいの」
「そうなのかい?」
 振り返ってふたりを見ると、菊野が苦笑して否定した。
「いや……」
「本当だって。おれ最近昇進してパソコン使えるようになったからググッてみたんだよ、菊野さんの名前。したらコンクールで賞とりまくってたんだよ、ビックリだろ? しかも国内だけじゃなく外国でまでさ……」
 そして敦也は今度は菊野の方に目を向けて抗議するように言った。
「何で今まで話してくれなかったんですか?」
「きっかけがなかったから」
「いくらでもあったじゃないですか? ピアノ弾けることが発覚したときとか……」
「ごめんごめん」
 敦也に追及されて困ったように笑う菊野に、きっと何か話したくない事情があるに違いない、と見当をつけた流は、意図的に敦也に水を向けた。
「敦也は運動神経よさそうだよね。球技とかうまそう」
「いやー、人並み。何やってもだいたい平均値なんだよなぁ」
 敦也のことばに、少しホッとした表情になった菊野が返した。
「でも女の子にモテただろ?」
「いやー、そうでもない。菊野さんは?」
「ないな。ずっと男子校だったし」
「近くの学校のコが出待ちとかしてたんじゃないの?」
「ないない。女子に、あんまりそういう対象に見られないみたいなんだ。友達はいたけど……」
「いやー、絶対相手はそう見てたよ。旦那もそう思うだろ?」
 敦也に話を振られ、流は頷いた。
「男前だもんねえ、菊野さん。意識しない方がおかしいよ」
 そう言って美しい青年のようすを窺ってみると、案の定、相手は一も二もなく同意した。
「モデルか俳優だよな。スカウトされたことなかったんですか?」
「いやー、どうでもいいよ、私の話は。近江さんこそ男前じゃないか。声かけられたことあったでしょう?」
 そう、完璧な造形の菊野に問われ、流は若干たじろぎつつ曖昧に頷いた。
「まあねぇ。で、この通り頭空っぽだから、親に事務所入れとか言われたけど……でもどうしても絵をやめられなくてさ……で、このビンボー生活に至ってるわけだ」
「素敵なお部屋じゃないですか」
「見た目はそうなんだけど実は相当年季入ってるんだよ、ココ。リフォームはしたみたいなんだけど、大地震には耐ええないと、個人的には思ってる。だから二階に入ったんだよ」
「そんな古いの?」
 敦也の問いに、流は頷いた。
「お恥ずかしい話だけれどね。だから本当は君たちのとこなんて行ける身分じゃないんだけど、君に出会っちゃったらね、そりゃあ行くしかないですよ、芸術家の端くれとしては」
 そう言って敦也の美しい瞳をじっと見つめると、相手は居心地悪そうにもぞもぞと身体を動かした。そのままその身体を引き寄せて口づけたいのをこらえ、流は別の絵のところに歩いて行った。
「これもお気に入りなんだ。この華やかな桜吹雪の絵があるだけでいつも春を感じられるからね」
「美しくてそして……温かい絵だな。見る者すべての心を温めてくれるような、親しみのもてる、それでいてクリエイティブな作品……どなたの作品なんだ?」
 菊野に問われ、世に名が出ていない日本人画家の名前を告げると、彼は感じ入ったように息をついた。そして冗談混じりに言った。
「ま、季節感はゼロだけどな」
「ははっ、違いないね。他の絵も見ていいよ。ホラ、あの空の絵も同じ画家さんのだよ」
 流がリビングの入り口側を指し示すと、菊野は目を輝かせてそちらに移動した。その純真さと無垢さに一種驚きを感じながら、流は音もなく菊野についていった敦也に目を移し、そして確信した――彼の心にいるのが、白銀楼の看板傾城であることを。胸がじくじく痛んだが、利用されたことに対して腹は立たなかった。最初からそんな気はしていたからだ。初めて会ったその日から、愛しい人の目が向いているのが自分ではないことを、流は薄々わかっていた。彼が一度として、河原で菊野と談笑していたときに見せていたような屈託のない笑みを自分の前で浮かべたことがないことにも、行為の最中でさえどこか心ここにあらず、といった様子なのにも気づいていた。しかし彼は事実から目を逸らしてきた。自分に都合の悪いことから目を背けて、理想の世界の中で生きようとした。しかし案の定、そんなことは許されなかった。
 流はこのとき、自分が間違ったやり方で最愛の人に近づいてしまったことを悟った。気づいた時には遅かった。
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