白銀楼物語 スピンオフ (更新中)

色と光をもたらす者 色と光をもたらす者

 ←復讐するは我にあり 1 →色と光をもたらす者 露見
「よおっ、菊野。調子どうだー?」
 珠生はそう言って部屋に入りかけ、動きを止めた。後輩の居室に先客がいたからだ。
 彼は鼻先がくっつくほど近くで見ていた将棋盤から目を上げて闖入者を見た。
「環さん?」
 西洋人形じみたクッキリハッキリした目を更に見開いてそう言ったのは、最近入ってきたばかりの菊野の部屋付きの問題児、立花だった。その向かい側に正座していた部屋の主が、今回珠生がここを訪れた目的――菊野だった。
 かつて世話をしていた、かわいいが、腹の底がイマイチ読めない賢い後輩である。
「環さん」
「悪ィ、ジャマしたな。続けて続けて」
 珠生は無意識に菊野の首や手首のあたりをチェックしながら向かい合うふたりの間に腰を下ろした。
「終わるまで待たせてもらうわ。その後、コレ食おーぜ」
 そう言って貰いもののリンゴを袋から取り出して掲げてみせると、菊野が嬉しそうな申し訳なさそうな表情で、いつもすみません、と言ってきた。
「いつも……? 環さん、よく信さんの部屋来るの?」
 もっと喜ぶかと思っていたのに意外にも微妙な表情の立花に、珠生は違和感を覚えた。
「まー、元先輩だからな? 今はもーエラソーなこと言えないけど、やっぱカワイイ後輩に変わりはないし」
「秋二、飛車下げないと次王手だぞ」
「ぐぅ~~~!……こう?」
「そこだと金が取られる」
「ぐわぁぁ~~~!わかんねぇっ! ショーギって何でこーまどろっこしーんだよ!?」
 頭を抱える立花に、菊野が唇の端を引き上げた。
「降参するか?」
「む~~~! 待って!」
 立花はそう言うが、どう見てもあと最大四手で負ける盤面だった。ハンデをつけて飛車と角行の二枚落ちで対戦してやっているらしい菊野もそのことは承知のハズなのに、それを言わずにじっと待っていた。
 珠生はその目を見たとき、菊野が立花に対して並みならぬ想いを抱いていることを悟った。元々寛容で誰にでも親切な性格ではあるが、これほど愛しいモノを見るような目で誰かを見るのを、見たことがなかったからだ。
 そのことに対し、胸の痛みを感じないわけではなかったが、珠生は恋のキューピット役を買って出ることにした。慎重で石橋を叩いて渡らないような性格で、その上自己主張せず、自分の人生とか、幸福とかを追い求めることをしないこの後輩は、放っておいたら棺桶に入るまで行動を起こさないに違いなかったからだ。
 珠生はウンウン唸る秋二をほおづえをついて楽しそうに眺める菊野に言った。
「お前も良くこの問題児をあの短期間で更生させたよな? どんな手管使ったんだ?」
「秋二は問題児じゃないですよ。普通です。他の子の行儀が良すぎるんです」
「言うねえ。皆お前のこと獣使いみたいだって褒めてたぜ。もうサーカス扱いされてんな、お前ら」
 菊野はクスリと笑ったが、立花は憤慨したようにギロッと珠生を睨んだ。
「おれはトラじゃねえ」
「じゃあライオンか?」
「違うっ!!」
「火の輪くぐり、見せてくれないのか? ホラッ、ココッ、跳んでっ!」
「ッ……!」
 珠生が空中を指差して茶化すと、立花は顔を真っ赤にして黙り込んだ。握りしめた拳がプルプル震えているが、手は出してこなかった。
「さすが。調教師がいいんだな。大人しいモンだ」
「何だよっ……! イジワルッ」
「ハハ、冗談だって。からかっただけだよ」
 珠生が言うと、立花は一瞬ホッとした顔をしたあとにプイと横を向いた。菊野はそんな後輩と珠生を交互に見て、困ったような顔をした。
「環さん、秋二は何でも本気にしちゃうんであまりいじめないでやってくださいよ」
「ゴメンゴメン。でも反応良いからつい……何かからかっちゃいたくなるタイプなんだよなー、立花って。そう思わない?」
「まあ……思わないこともないですけど……」
 歯切れ悪く、それでも肯定した相手に、更に畳みかけるように言った。
「だよな?! いじり甲斐あるってゆーか……カワイイ顔してっし」
 そのことばに察しのよい菊野が固まった。
「実は結構タイプなんだよなー、立花。見習い時代はいたいけでとても手ェ出せなかったけど、水揚げも済んだし、もういいよな?」
「そんなこと、ひとことも環さんの口からお聞きしたこと、ありませんでしたが?」
「だって言わなかったもん」
 自分をまっすぐ見つめてくる菊野に、薄く笑って珠生は続けた。
「なあ立花、今度笠原さまの座敷におれも呼んでくれよ。絶対盛り上がるからさ」
 さあ反論してこい。反論して、おれなど不要だと言ってこい、菊野。立花への想いを曝け出せ。
 そう念じたが、珠生の思惑は外れた。菊野は複雑そうな表情をしながらも強くは反対しなかったのだ。
 戸惑う立花に、菊野は静かに言った。
「先輩だからといって気兼ねすることはない。イヤならイヤと言っていい。反対でも同じだ。自分で決めていいんだよ」
「………いーよ。まあおっちゃんに聞いてみないとだけど」
 話が思わぬ方向に転がっていったことにアタフタしながら、珠生は必死で断る口実を探した。が、短時間では見つからなかった。
「秋二……いいのか?」
「別に……ひとり増えようとふたり増えようとたいした違いはないだろ」
「ああそっか、お前らヤってんだもんな」
「……ッ」
「……ッ」
 ふたりが同時に息を呑む。ずいぶん気が合うようだな、と思いながら心にもないことを言い続ける。
「なあ、どっちが上なの? やっぱ菊野か?」
「環さんっ……! いったい今日はどうしたんですか」
 困り果てたようすの菊野に若干心が高揚するのを感じながら、珠生は品の無い話を続けた。
「立花、カワイイ顔してるもんなあ。歪ませたくなる顔」
「ウソこくな。アンタが顔を歪ませたいのはおれじゃないだろ?」
「何のことを言っている? おイタが過ぎるとお仕置きだぞ」
「する気もないくせに」
 なるほど、と珠生は思った。自分は菊野の気持ちを知っていて、立花はこちらの気持ちを見抜いているワケだ。
「さあ、どーかな……」
「まあいいよ。おっちゃんにお願いはしてみる。口実でもないとイチャつけないんだろうからなっ!」
「ふたりとも、いったい何の話を――」
「黙ってろ」
「信さんは黙ってて」
 同時に相手を制すと菊野は押し黙った。その虚を突かれたような表情が新鮮で、もっと見たくなった珠生は腰を上げ、立花のそばまで行くと肩に腕を回した。
「なぁ、菊野って抱くとき姫扱いしてくんだろ? まるで壊れ物でも扱うように、丁寧に丁寧に愛撫して、かしずいて、蝶よ花よと褒めそやしてきて……けどそれだけじゃ欲求不満にもなるよな? ちょっと乱暴にされたいときだって、あるよな?」
「まァ……あるかもね」
 立花が否定しなかったことにショックを受けているようすの後輩を横目に、珠生は更に続ける。
「おれが解消してやるぜ。な? だから笠原さまにちゃんと言えよ」
「わかったよ。ただアンタ忙しいんだろ? 来れんのかよ?」
「お前のためなら都合くらいつける」
「あっそ」
「じゃ、予行演習でもすっか」
 珠生はそう言ってするっと立花の着物の袷のすき間に手を滑り込ませた。
「ちょっ! イキナリ何すんだよ!?」
「予習予習。綿密な計画と周到な準備が重要だって習っただろ?」
「ンッ……やめ、ろよ……」
 そう言いながらも立花は本気で抵抗しなかった。何を思って大人しくしているのかは知らないが、これは好都合だ。
 珠生は相手の帯を緩め、袷を更に開いてその胸元を露わにした。そして既にぷっくり勃ち上がっていた乳首をするりと指先でかすめた。
「アッ……」
「なるほど、よく開発されてんな。菊野は可愛がってくれたか?」
 そう言ったとき、ようやく菊野が立ち上がった。やっとか、と思いつつ視線を向けると、呆れたような顔で立花を珠生から引き離した。そして、自分の背に庇うようにして立つと、腕組みをして珠生を見下ろした。
「何、企んでるんですか?」
「何にも。ちょっとムラムラしただけ」
「他人の部屋で真っ昼間から、非常識ですよ」
「人間ってのは珍しく万年発情期の生き物なんだよ」
「いい加減にしないとつまみ出しますよ?」
 口調は冷静そのものだったが、目は氷点下の冷たい怒りを湛えていた。六年付き合ってきて相手が本気で怒るのを見るのは三回目だな、と思いながら、珠生は腰を上げ、相手の肩を宥めるように叩いた。
「冗談だって。本気にすんなよ。さ、もうその子に将棋はムリみたいだし、リンゴ食おーぜ。ナイフと皿貸して。あと、剥いた皮入れる器も」
 菊野は量るように珠生のことを見つめていたが、やがて瞳から怒りの色を消し、戸棚から言われたモノを取り出して手渡してきた。そして両肩を抱きしめるようにして座り込んでいる立花を案じるように見てから将棋盤を片付けた。
 珠生は、珍しく読めない笑み以外の表情を見ることができたことにかなり満足しながら、珠生の手にさえ余りそうな大ぶりのリンゴを剥いた。
 水分が多いタイプだったらしく、剥いていくそばから果汁が手指を伝ってゆく。珠生は若干の昂りを覚えながら、剥いているリンゴごしに横の菊野を見た。そして、この顔に、喉元に、鎖骨の上に、そして身体に、この汁を塗りつけて舐めたらさぞかし甘いだろうな、と妄想しながら剥き終えると、切り分けたカケラのひとつに楊枝を挿して、向かい側でうつむく立花の口元に持っていった。
「はい、アーン」
「環さんっ! 困ってるじゃないですかっ!」
「そーかなー? まんざらでもないよーなカオしてるよーに見えるけど?」
「………」
「イヤなら拒めよ。できんだろ? 気強いって評判だもんなあ、大して世話にもなってない先輩の言うこと拒否れないほどチキンじゃないよなあ?」
「環さんっ、いい加減にしないと……」
「お前もさー」
 珠生は意識して冷たい目で菊野を見た。
「いーかげん騎士(ナイト)気取りやめたら? いつまでもついててやれるワケじゃないってことくらいわかってんだろーが。立花はこの先、おれの比じゃない相手と渡り合ってかなきゃないんだぞ? ジンみたいにいつもいつもランプに入って待機してられるワケじゃねーんだからさ。いーかげんわかれよ、ココでは自分で這い上がれるヤツ以外、生き残れないって。その機会を、自分が潰してるって」
 我ながらイヤになるほど意地の悪い言い方だった。それでも、言わずにはいられなかった。六年に渡って自分の想いを無視し続けた相手が、運命のひとりを見つけたさまを見せつけられては。それに最近、菊野に触れる機会が少なかったことも、相手への渇望と憎悪を増幅させていた。
「ホラ立花、口開けて」
「……立花じゃなくて、秋二」
 立花はそう訂正してから差し出されたリンゴをほおばった。その姿に、菊野が一瞬驚いたような表情をし、そのあと、悲しげな、何もかも諦めたような顔になって目を伏せた。
 その表情に嗜虐心を刺激され、珠生は立ち上がって立花の隣まで歩いていった。そして腰を下ろし、二つ目を食べさせた。立花はブスッとした顔で珠生と菊野を交互にねめつけながらもぐもぐ口を動かしていた。
 この時点で珠生は既に当初の目的――菊野の恋を成就させてやること――を完全に忘れていた。心にあるのはただ、目の前の手の届かない男を傷付けたい、という思いだけ。珠生はこのとき、嫉妬という緑の目の魔物に取り憑かれて、正しい判断を下せなくなっていた。
「さっきだって、ホントはイヤじゃなかったから拒否らなかったんだろ?」
 立花の耳元に口を近付けてそう囁くと、その肩をゆっくりとなぞった。
「菊野の教科書通りのセックスにはもう飽きただろ? おれがもっとイイコト教えてやるから、今度からおれ呼べよ――ま、立花の頼みだったら仕事じゃなくても喜んで馳せ参じるけど?」
「そんなこと言っちゃっていいのかよ……てかアンタうまいの?」
 立花が振り返り、オリーブ色の大きな目を向けてくる。
「評判はそんなに悪くないぜ。っていってもおれがタチる相手って少数なんだけどな。菊野に聞けよ」
「信さんに?」
「ああ。知ってるから」
 いつの間にか本を開いていた菊野が目もあげずにそっけなく答えた。
「やさしいです」
「ちーがーうって。やさしーかどーかじゃなくてウマイかってきーてんの。なあ、おれ、どーよ?正直」
 それは珠生が正直なところ、ずっと聞きたかった問いだった。経験だけはあるからひとりよがりのセックスをするなどという惨事にはなっていないはずだったが、人一倍ひとに気を遣うこの後輩が本当のところどう感じてどう思っているのかは一度も聞いたことがなかったから若干不安だったのだ。
しかし相手は珠生の問いにマトモに答えようとしなかった。彼は本に目を向けたまま、回答を拒否した。
「昼間からそんな話したくありません。環さんホント今日、どうしたんですか?
ヘンですよ」
 今日じゃなくて、もうずっとおれはお前にヘンなんだよ、と心の中で珠生は毒づいた。
 客の要望で絡むときはいつも珠生を立てて抱かれてくれる、この聡明で思慮深く、博愛主義で底なしのおひとよしで優しい後輩を、抱きたくて抱きたくてたまらない。その唇に触れたくて、身体を撫でたくて、その薫り高い果実を食べたくて、気が狂いそうだった――いや、もうとっくに狂っている、と珠生は思った――自分はもうとっくに狂わされている、菊野に。
「廓で性的な話をすんのがヘンなのかよ? そういうお前の方がよっぽどヘンだぜ。立花、聞かせてやろうか、何も知りませんってカオしてる菊野がどれだけ――」
「ヤらしいか?」
 意外にも立花が後を引きついで言った。
「知ってるよ」
「へえー。お前菊野抱いたことあんだ?」
「まーね。アンタほどじゃないけど」
「ハマるだろ?男抱くのって。おれ、最初は絶対ありえねーって思ってたんだけどさ、モノは試しだな。コイツ、締まりイイし」
 ああ、終わった。
これまで注意して注意して、ガマンしてガマンして築き上げてきた良好な関係性が崩壊した音を、珠生は聞いた。
「ちょっと……その言い方はねぇんじゃねぇの?」
 顔をしかめた立花に構わず、珠生は続けた。
「演技してくんのがムカつくけど、まァ気分は出るよな」
「アンタ、ケンカ売ってる? 仮にも恋人に向かってその言い方は何だよ?」
 気色ばんで腰を上げた立花のことばに、珠生は虚を突かれた。
「……恋人?」
 思わず菊野を見ると、同じように呆気にとられてポカンとしている相手と目が合った。そんな二人の様子にも気づかず、立花は続けた。
「そうだよっ、周知の事実じゃんっ! べ、別に男同士だからどうとか、そういうふうには思わないけどっ、順番守れよっ! 今日はおれが先に来たんだからっ!」
 相手の盛大な勘違いに珠生は思わず噴き出した。向かいに目をやると菊野も口元を手で押さえている。
「な、なんだよっ! 何がおかしいんだよっ、二人して笑ってっ!」
「いや、お前が面白い感じに誤解してるからつい」
「フフッ、秋二、私たちは何でもないぞ」
「えっ?!」
 息を呑んで目を白黒させる少年と青年の端境期くらいにいる目の前の恋敵に、こんなに反応がいいんじゃ可愛いわけだな、と妙に納得しつつ、珠生は再び笑った。
「ずっと誤解してたわけ?」
「だ、だってっ……スゲー仲良いし、それにアルバム撮ったときだってやたら……」
「チューはしてねーよ。な?菊野」
 菊野は頷いた。
「で、でもっ……部屋の行き来もよくするし……」
「友達同士でもするだろう? それに菊野は禿の頃おれに付いてたからな、付き合いが長いんだよ。それだけだ」
 ドロドロして、どす黒い感情はそこでようやく主張をやめた。珠生はホッとしながら、秋二を安心させるようなことばを並べたが、相手はなかなか納得しなかった。
「そんなこと言って……本当は、つ、付き合ってんだろ? だって、いつも一緒だし、写真撮ったときもホントに楽しそうで、すごくお似合いで……」
「まあなー? 仮にも大見世の売れっ子同士だし。画になるのは当たり前だろ? でもお前が思ってるような関係じゃない」
 ここで再び緑の目の魔物が目を覚ましたため、珠生は互いに片想いをしているふたりの橋渡しのための決定的な一言を口にできなかった。
「ほ、ほんと?信さん」
「ああ、本当だ」
 菊野が頷くと、立花はホッとしたように息を吐いた。そのあからさまな反応に菊野がどう反応したかを確認してみたが、相手は特に何も感じていないようすで表情を変えなかった。珠生はそのことにホッとした。そして言った。
「立花、悪いんだが少し外してくれないか? ふたりで話したいことがあるんだ」
 そのことばに先に反応したのは菊野だった。人払いなどまずしたことのない珠生が立花を下がらせようとしていることに何かを察したらしい。彼は真顔に戻って立花に出てゆくよう促した。あまりひとを疑うことがないらしい彼は素直に頷き、話が終わったら遊びに来てね、と言い残して部屋から出て行った。
「お茶、淹れますね」
 菊野は立花が出ていくのを見届けると、そう言って珠生の前を通り過ぎ、彼に背を向けて急須に茶葉を入れ始めた。絹のように手触りの良い長髪をポニーテールにし、暖かそうな紺の長着を身に纏った愛する男の背中の部分に皺が寄る。珠生はたまらず立ち上がって、相手が振り向く間も与えずその身体を後ろから抱きこんだ。
「急に動かないでくださいね」
 よく性的かそうでないかにかかわらず身体的接触をしているせいか、後輩ははじめ、大して驚いたようすを見せなかった。しかし珠生がそのうなじに唇を這わせ始めると、異変を察知して振り向いた。
「……環さん?」
 その戸惑ったような瞳を見ながら、珠生は呟くように言った。
「好きだ。ずっと、好きだった」
 驚愕に目を見開いて絶句している菊野に苦笑しつつ、彼は続けて言った。
「気付いてなかったみたいだな、そのようすだと。そんなんでよくも毎月毎月お職獲れるな。どうなってんの?」
 尚もことばを発せずにいる菊野の首筋を指で慰撫するように撫でてから、珠生は覚悟を決めて相手と視線を合わせた。
「ココ、出てくことになったんだ。親父が迎えに来てな。来週発つ。だから最後に一回だけ……頼む」
 情けない――我ながらあまりにも情けないお願いだと思った。普段欲望に振り回されている客を嘲笑っている自分がこのざまだ――結局自分なんてその程度なんだな、と若干失望しながらも、珠生は前言撤回しなかった。どうしても腕の中の男と最も深いところで繋がりたい、快楽を共有したい、という欲望に勝てなかったのだ。
 しばし硬直し、酸欠の金魚みたいに口をパクパク開閉させていた菊野はそこでやっと自分を取り戻したらしかった。彼はわずかに身じろぎをすると、絞り出すような声で問うてきた。
「冗談、じゃないですよね……?」
「ンなタチの悪いドッキリするわけねえだろ? まあー、人生で一番長い片想いだったよ」
「差し支えなければ、いつごろからかお聞きしても――」
「最初っから」
 そう言って笑ってみせると、相手は再度石化した。
「お前はおれの世界に色をもたらしてくれたたったひとりの人間だ。白銀楼に落とされて辛くて苦しくてどうしようもなかったとき、灰色のおれの世界を色づけてくれたのは、真っ暗なおれの世界を照らしてくれたのは、菊野、お前だった。誇張じゃなく、本当に輝いてたよ、お前は。世界中の色という色を引っ提げてやってきたと思った」
「そんな大げさな……」
 珠生は気後れしたように呟く相手の身体を自分の方に向けて、今や自分より高い位置にあるその頬をそっと撫でた。
「大げさじゃない……平和主義で、情に厚くて、純粋で誠実で綺麗だった……菊野は内側も外側も、何もかも綺麗だった……惚れちゃってもしょうがないだろ?」
「っ……」
 無表情というわけではないが、普段あまり表情を変えない菊野が赤面した。しかしここで勘違いしてはいけない、と自分を戒め、珠生は続けて言った。
「お前の気持ちは知ってる……立花だろ?」
「………はい」
「いやー、もうちょっと早めにアタックしてりゃあよかったかなァ。おれとしたことが初動をミスったぜ」
「環さん……お迎えというのは……?」
「ああ、父親がどっかの筋からおれのこと聞いたらしくてね。まァそもそもココにぶち込まれるきっかけを作ってくれたご本人ではあるんだけどさ」
 そこで珠生は口を噤み、相手の様子を窺った。廓に落とされたほとんどの者には親に救われるなんて僥倖は訪れない。年季明け前に身請け以外の手段で自由の身になれるなんて幸運も巡ってはこない。だから建前上身請けという形で出ていくことに決めていた。
 菊野はしかし、顔を輝かせて珠生を祝福し、身体を抱きしめ返してきた。
「よかったっ……! 本当に、おめでとうございますっ」
「菊野……ごめん、ごめんなっ! 先に抜けて……!」
 珠生が相手への憐れみと罪悪感からそう謝ると、相手はブンブンと首を振った。
「謝ることなんか、ひとつもないですっ! 本当に、本当によかったですっ……!」
「お前は本当に………まあいい。あとな、お前の年季、元通りになったからな」
「え?」
 意味が理解できていないようすの相手から身体を離し、その肩をつかんで珠生は説明した。
「親父が遣り手と交渉して上乗せ分チャラにさせてくれたんだよ。結構いろんな方面に顔利くひとでさ。さすがに全部ってわけにはいかなかったみたいで、そこのところは申し訳ないけど、でもとにかく、あと三年踏ん張れば外界(そと)、出られるからな?」
 菊野はそこでついに泣き出した。
「環さんっ……今まで本当に、ありがとうございましたっ……! いつもそばにいてくれて、味方でいてくれて、話を聞いてくれて、ありがとうございましたっ………環さんがいたからここまで来れましたっ……!」
「んな、泣くなって……キレーな顔が台無しだ。……菊野ってホントに顔と中身が一致しないってか……全然カッコつけねーよなあ、二枚目なのに。そーゆートコが好きだったんだけど」
 珠生が差し出したハンカチで目元を拭い、ティッシュで鼻をかんでから、菊野は嗚咽混じりに言った。
「ずっと環さんの想いに気づかず、うっ、すみませんでした……」
「最後に、思い出くらいはくれる?」
 拒絶されたら退くつもりだった。しかし菊野は首を横に振らなかった。
「心が伴わなくても、良いのですかっ……?」
「くれっつってもらえるモンじゃないだろ? いいよ」
「では、シャワー……」
「いい。おれネコやるから」
 珠生はそう言うと、戸惑って立ち尽くしている菊野を放って、出入口のところに行って施錠をし、それから押し入れの戸を開け、布団を取り出した。そしてまだ外の明かりで燦々と照らされている室内にそれを敷き、相手をその中に引きずり込んだ。
「ダメな先輩で、ごめんな?」
 珠生はまだ目を潤ませている菊野にそう言うと、髪から花簪を引き抜いた。相手は首を振って目元を着物の袖で拭うと珠生の身体を抱きしめた。彼は相手の身体の感触を堪能してから菊野を押し倒し、その上に跨った。
「ごめんな。なんもしなくていいから。……キス、してもいいか?」
 相手はまだぐずぐず泣いていたが、それでも手を伸ばしてくれた。珠生は身をかがめると、ゆっくり相手に口づけた。その唇は、いつにも増して甘く、やわらかかった。いつものように開かれた唇の間に舌を差し入れ、咥内を貪るようにねぶると、青年は鼻から吐息を漏らした。見ると、相手はその完璧な造形の目で珠生を見ていた。
「今生の別れじゃないんだから、そんな見なくても」
 彼がそう言って笑っても菊野はこちらを見るのをやめなかった。
「ウチの番号、教えとくから、小竹とトラブったりしたらいつでもかけてこいな?」
 そのことばに、菊野の目にまたじわりと涙が浮かぶ。背中に回った手の力が強くなるのを感じ、珠生はまた苦笑した。
「ホント泣き虫だなあ、お前は」
「そりゃっ、泣きますよっ……環さん、いなくなっちゃうんだからっ……!」
「……残って欲しいか?」
 そのことばを耳にした途端、それまで取り乱していた菊野は冷静さを取り戻した。
「いいえ……一分一秒でも早くここを出てください」
「……ごめんな」
 珠生は呟くようにそう言って愛撫を再開した。恐らく触れるのが最後になるであろうその身体に、彼はゆっくり触れていった。
「菊野、好きだ……心の底から好きだった」
 珠生は愛の言葉を囁くと、ゆっくり相手の身体の上に腰を下ろしていった。自分の胎内が満たされる充足感に、彼は深々と息を吐き出した。それを別の意味にとったらしい男が慌てて珠生の身体を支えようと手を伸ばす。
「いい子にしてろ」
 珠生は相手の手を払い、動き始めた。漏れ出る相手のかすかなうめき声と吐息に最高に興奮しながら、彼は抜き差しを繰り返した。どんなにほかの男たちに抉られてもほとんど快楽を感じることのなかったそこが奇妙に収縮し、珠生の腰を痺れさせた。
「あっ………くっ……」
 感じたことのない感覚を味わいながら動き続けていると、いつの間にか菊野の手が珠生の分身に添えられているのに気付いた。そこを優しく、しかし適度に強く刺激されて彼はうめき声を上げた。
「そんなことっ……しなくていいっ……」
「まあまあ、せっかくですから……」
「なん、だよっ、その軽い物言いはっ……! おれは一世一代のっ、告白したんだぞっ……せっかくとか、イミ、わかんねぇっ……!」
 気持ち良くて脳内がスパークする。こんなに気持ちのいいセックスは久しぶりだった。わずかに額に汗を浮かべて下から珠生を見上げている菊野はいつの間にかいつもの食えない笑みを浮かべていた。
「双方が気持ち良くならないと意味がないと、くっ……言っているのです。一方しか満足できないセックスなんてセックスじゃ、ないですよ……マスターベーションでしょ、それ……っ、」
「それはっ、恋人同士の間での話、だろっ……おれらは、そうじゃないんだからっ……んっ……関係ねー……おれが、お前に付け込んでっ……無理やり、させてるだけ――ンッ」
「もう黙って」
 そこで菊野に頭を引き寄せられ、口を口で塞がれたので、珠生はそれ以上話し続けられなかった。仕事でもないのにいつものように舌を絡めてくれる相手に心底申し訳なく思いながらも、珠生は自分を止められなかった。彼は初めて恋した男の口の中を貪り、同時に彼の果実も貪った。
 これ以上ないくらいの幸福感と充足感と快感に恍惚としながら、珠生はついに極めた。
「あっ……!」
 声と同時に白濁が出る。菊野はそれを認めると手の動きを止めた。彼は決して、数いる客のように敏感になりすぎて触られると辛いペニスを刺激し続けようとしなかった。
 珠生は身を震わせて余韻に浸ると、相手の上から身体をどけた。そして足の間に身を埋めると言った。
「ごめん、イけなかったな。フェラするわ。というかさせて」
 相手の方も申し訳なさそうな表情で頷いて、身を起こした。珠生はペニスを口に含むと、ゆっくり舐め始めた。すると相手の手が伸びてきて、優しく彼の髪を梳き出した。本当にいつ何時でも相手への配慮を忘れぬ男だな、と感心したが、同時にその優しさが残酷だとも思った。
 なるべくこの至福の時間を長引かせるために強い刺激を与えぬようゆっくり控えめにしゃぶっていると、菊野は昔話を始めた。彼は禿だった頃、同い年で共に珠生付きだった椿が彼にしょっちゅうお説教を食らっていたことや、一時期、ふたりで一緒にまるで貝殻のように寡黙な章介の舌の動きをもう少し滑らかにしようとして失敗した話や、厨房から夜食をくすねて一緒に夜中に布団の中で食べたときのことなどを懐かしそうに語った。珠生は最愛の男と過ごした廓での日々に思いを馳せながら、相手を絶頂へと導いた。そして身を起こして、頬をわずかに上気させて息をついている男に言った。
「お前はおれが自分から受け入れた最初の男だ。菊野、好きだったよ」
 そしてその色づいた唇に触れるだけのキスをして立ち上がった。
「環さん……どうかお元気で」
 絞り出すような相手の声音に目頭が熱くなる。珠生は今にも泣きそうな顔で自分を見上げる菊野の頭を慰めるようにポンポンと叩き、友禅を身に着けた。そして涙をぐっとこらえて言った。
「おれ、もう行くわ」
 そして、相手の返事を聞かずに、菊野の部屋を後にした。

                                  *

 見上げると青空が広がっていた。淡く美しい水色――春山の沢の水のように清冽な青だった。
 環は大きく伸びをしてから、飛行機の搭乗口に向かった。彼の目の前には未来が拓け、機会が溢れていた。それはほとんど目視できそうなほど立体感を伴って存在している。
 自分はこの手でそのチャンスと未来を掴みとる。そしていつか必ず過去から解放されて、〝人間″になってやる――そう心に誓って、環は東京を飛び立った。
関連記事



記事一覧  3kaku_s_L.png About
記事一覧  3kaku_s_L.png お知らせ
記事一覧  3kaku_s_L.png 作品のご案内 
記事一覧  3kaku_s_L.png ジェンダー
記事一覧  3kaku_s_L.png 映画のレビュー
記事一覧  3kaku_s_L.png その他
記事一覧  3kaku_s_L.png Links
記事一覧  3kaku_s_L.png 倉庫
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit
【復讐するは我にあり 1】へ  【色と光をもたらす者 露見】へ