白銀楼物語 スピンオフ (更新中)

色と光をもたらす者 露見

 ←色と光をもたらす者 色と光をもたらす者 →偽悪のススメ 後編
 女は大きな赤い傘を開いて、ドアをばたんと閉めた。明かりが消えた。手伝いましょうか? と女は言った。私はあたふたと立ち上がり、その瞬間、別の明かりが点いた。女が私の顔に懐中電灯を向けていた――

                                   ポール・オースター 『幻影の書』より 



珠生は横に並び立った男をまじまじと見た。切れ長の涼しげな目元にすっきり通った鼻梁、控えめな薄めの唇にほどよくとがった顎先――どちらかというと男性的な顔立ちのこの後輩は、廓では少数の者しか着ることのない男物の和服姿だった。ごてごてといろいろ着飾っている珠生に合わせてなのか、上質な正絹の長着と羽織を身に纏っている。光沢を帯びた薄い灰青色のそれは決して派手ではなかったが、明らかに値が張る一品だった。
お召の値を推し測るように全身に目を走らせていると、視線に気づいたのか、相手――菊野がこちらを向いた。そして、カメラマンが準備中なのを見てとると珠生の方に身体を向けて、両袖を持ち上げてみせた。
「どうですか? 負けてないといいんですけど」
「それ、いくらくらいすると思う?」
「どうでしょうねえ。まあ男物は女物に比べて総じて安いので今日の環さんの衣装代の五分の一ってとこですかね、高く見積もっても」
「どうかなー、もうちょっとするんじゃねえ? 仮にも大見世よ?」
「じゃあ三分の一? 重さは間違いなく半分ですね」
「いいよなー、羨ましー。化粧もしなくていいから最高じゃん。何かそーやってるとますますサムライみたいだな。美麗の剣士ってカンジ。――ワタシのこと、守ってくださる?」
 ふざけて上目遣いで聞いた珠生に、菊野が破顔した。
「全然キャラじゃないですね。環さんに騎士(ナイト)は不要だと思います」
「ンだよ?こんな可愛いコが頼んでんのに。そこは、命をかけてお守りします、って答えなきゃだろ?」
「いやー、いつも守って頂いてるので、そんなこと恐れ多くて言えないです」
「バカにしてる?」
「まさか」
「してるよな?」
「いいえ」
「いや絶対してる。笑ってるもん!……後で覚えてろよー。夜、一番気持ち良く寝てる時間帯に起こしにいってやる!」
「ハハッ、前にもそんなことありましたねえ」
 怒るそぶりもなくサラッと言う後輩に、珠生はうっ、とことばに詰まった。自分の方が年上のはずなのに、この後輩と接しているとついそれを忘れてしまう。間違いなく相手の方が大人だった。その信は、涼しい顔で、私を起こしに来るってことは、その一番気持ち良く眠れる時間帯に環さんも起きてなきゃいけないってことですよ、とか嘯いている。
 珠生はため息をつき、肩をすくめた。
「ホント、お前に口で勝てたためしがない……可愛くねえ」
「光栄です。でも頼りにしてるのはホントですよ。いつも……感謝してます。話を聞いてくださったり、励ましてくださったり、庇ってくださったり……環さんと出会えて本当にラッキーだったと思ってます」
 冗談めかした笑みをひっこめ、真剣な表情でそう言ってくる相手に、不意に胸を突かれ、珠生は息を呑んだ。それがただ相手を喜ばすためだけに発された、上っ面だけのことばでないことを、瞬時に悟ったからだ。
 菊野はこういう、真摯な感謝のことばを惜しまずにくれる。それが彼の長所のひとつであると、珠生は前々から思っていた。
「じゃ、おれも期待を裏切らないようにもっとちゃんとしなきゃな」
 そのとき、カメラマンの声がした。
「お待たせしましたー! では最初、並んで立ったそのポーズからお願いしますー」
 撮影が開始される。珠生は自分より五センチちょい背の高い菊野の隣で、高慢そうで、かつ艶やかな表情を作ってカメラの方を向いた。フラッシュが焚かれる。
 珠生は、随分ギャラリーが多いな、と思ったが、それは別段不思議なことではなかった。ただでさえ後輩に大人気の菊野が、普段あまり身に着けることのない男物の衣装に身を包んでいるのだ。見物人が多いのも道理だった。
 今日撮るのは、ブロマイド用の写真のみだった。番台に置いて遊客に見せるアルバム用の個人撮影は既に全員終えている。ブロマイドを使って客たちが何をするかを考えたらあまり気乗りしないのも事実だが、売上金の一部が懐に入る仕組みになっているので拒否する色子はほとんどいないのが現状だった。
 撮影内容は顧客へのアンケートの結果によって決定されるが、前回に引き続いて最も要望が多かったのは珠生と菊野の二ショットだった――個人のブロマイドの要望で最も多かったのは菊野、僅差で珠生が次点だった――。
 これは、珠生と菊野の絡みを見たいと思っている客が少なくないことを示している。互いに忙しいため、そう頻繁にはないが、一緒に座敷に上がったことも、本部屋に上がったこともある仲だった。そういうとき、珠生はいつもよりも念入りに身体を磨き、髪を整え、化粧を――菊野と同じくあまり濃い化粧を好まないので、白粉を塗りたくったりはしないが――するのだった。それは、彼が菊野に、六年近く想いを寄せ続けてきたからだ。珠生は彼の世話係であり、禿の頃から相手を知っていた。ほとんど非の打ちどころのない完璧な美形の菊野は珠生と同様〝引っ込み禿″として育てられたが、その頃から彼は珠生の心を奪い、捕らえて離さないのだった。
 そんな相手と、仕事とはいえ触れ合ったり、睦言を交わしたりできることを、幸福と言わずして何と言う?
 珠生は邪な目で相手を見てしまっていることに一抹の罪悪感を覚えながらも、その幸福を享受していた。この清浄で、懐が深く、美しい生き物を一時的にであれ、身体だけであれ、独占できるんだったら、他の細かいことはどうでもよかったのである。
 こういう撮影だってそうだ、と珠生は、幸せに伴うフワフワした浮遊感に包まれながら自分を抱く菊野の身体の感触を楽しんだ。
好きな相手に無条件で抱擁してもらえ、その上写真に撮ってもらえるこんなに良い仕事が他にあるだろうか? いいや、きっとない。仕事の九割はゴミ溜めみたいにクソだが、残り一割の、こういう僥倖があるからまだやっていける、と珠生は思っているのだった。
満足感に浸りながら、珠生はカメラに向かって微笑を浮かべ、恋した男との一瞬を永遠にした。

やがて撮影が進み、最終段階に入るとイスが用意される。いつも通りの流れだった。
そこに腰掛けた相手の上にドサッと座ると、菊野がすこし悲しげに言った。
「慶にコレ、イヤがられたんですよ」
「慶……奈月のことか。そりゃご愁傷さま」
 菊野は昔から色子たちを本名で呼ぶクセがあった。客の前だけでなく日常生活においても源氏名で互いを呼び合う習慣のある廓内では少し異質で、わかりにくいから――何せ同僚の本名なんてほとんどの者が忘れているのだ――直すように言っても、それだけはきかなかった記憶がある。
 菊野は品と知性があり、その上期待されていたので、入楼当初からよく他の傾城にイビられていて、いろいろと理不尽なことをさせられていた。足の引っ張り合いなんて時間の浪費だと思っていた珠生は呆れ返って、見つけたときにはすかさず傾城を注意するようにしていたが、それでも目の届かないところで随分といろいろやられていたようだった。後から聞いた話によると、トイレ掃除をはじめ、担当ではない場所の後片付けから、敢えて食事時に買い出しに行かせられるといった悪質なものまで多岐に渡ってなされたイビリに、彼は文句も言わずに耐えていたらしい。
 何を言いつけられてもそんなふうに唯々諾々と従っていた菊野が唯一譲らなかったのが、ひとの呼び方だった。だから彼は、珠生に手紙を出すときはいつも、源氏名の〝珠生″ではなく本名の〝環″と書くし、呼ぶときもそのつもりで呼んでいるのだろうと、珠生は思っていた。
いったい何にこだわっているのだろう、と思いながら相手の胸に顔を寄せると、菊野がフラッシュの合間を縫って先ほどの話の続きを話し始めた。
「まだ割り切れないのもよくわかるんですけれど、少しショックで……そんなに私と接触するのがイヤだったのかと思うと……」
「気にしなさそうなのに、意外と潔癖なんだな。カワイイ後輩に拒否られて落ち込んでんだ?」
「でも……確かに普通に考えたら気持ち悪いですよね、同僚同士でこういうことするのって……環さんは普通にやってくれるけど……」
「まあ、外での〝フツー″とココでの〝フツー″はちょっと違うからな。ま、いずれ慣れてくんじゃないの?こーゆーコトにも」
 珠生はそう言って相手の後頭部に手をひっかけ、ギリギリ唇が触れ合わない位置まで自分の方に引き寄せた。ほとんどどの角度から見てもキスしているように見える距離だ。 
 この写真が一番売れそうだな、と思いながら体勢を維持していると、相手が口を開いた。吐息が唇をくすぐる。
「そうなってしまえばラクなんでしょうけど、なって欲しくない気もします」
「ホント保護者だな。染まんなきゃ生きてけねーだろーが。いつまでも守ってやれるわけじゃないだろ? そろそろ手、離す時期なんじゃねえの? あいつをあの子の二の舞にしたくねーだろ」
 そう言った途端、菊野の顔色が変わったのがわかった。彼は少し沈黙したのち、絞り出すような声で言った。
「……そう……ですね……ホント、そうです……環さんの言う通りです……」
「愛のムチっての?必要なときもあんだよ……おれが良いお手本だろ? ビシバシやったお陰で部屋付きだった子たちの中に脱落者ナシだ――ひとりを除いてな。出世してるヤツも多いしな――例えばお前とか」
 暢気にキャーキャー言ってこちらを見ている色子たちの興奮した声を聞き流しながら、珠生は静かに言った。
「それはもう、環さんのご指導のお陰で――」
「だろ? ま、指導っていうより鍛えたってカンジだけどな。しょっぱなに性格わりィ先輩に当たっときゃその後何かあっても結構乗り越えられるだろ?」
「プッ、性格悪いって……」
 菊野が噴き出してその身体がわずかに揺れたので、一瞬ふたりの唇が触れ合った。珠生は一瞬ドキッとしたが、それよりも話の内容に集中したかったので、なるべくそちらに注意を向けないようにした。
「だからさ、突き放してあげるのも愛情ってコトだよ。いつか相手もわかってくれるから」
「……そうですね」
 菊野が感じ入ったようにほう、と息をついて頷いたとき、撮影終了を告げる声がかかった。
 珠生は菊野から手を離すと、身体を引いて至近距離にあった顔を離した。そして立ち上がると伸びをしてからくるっと振り向いて付け足した。
「あー、終わった終わった。……ま、何かあったら抱え込まずに話しに来い。昼でもいいし、休みの日でも……あ、そうそう、シフト変わって非番が水金になったから」
「あ、そうなんですか? 私は変わらず月木なんで、被らなくなっちゃいましたね」
 珠生は頷いた。以前は珠生の休みが水曜と木曜で休日が一日重なっていたためよく一緒に出かけられていたのだ。
「じゃあ昼だな。……あんまムリすんなよ、お前は薄利多売なんだから」
「ハイ。環さんもお身体にお気をつけて。今日はありがとうございました」
 慇懃に会釈をする相手に手を振り、珠生は壁際で待っていた取りまきたちの方に歩いていった。途端に彼らは目を輝かせて口々に菊野との二ショットを褒めそやし出した。
「とってもステキでした! まるで本物のカップルのようで……」
「最後のポーズのとき、キス、してたんですか? それとも寸止めですか?」
「菊野さんも珠生さんの部屋付きだったんですよね!? 仲良かったんですか?」
 ピーチクパーチクさえずり出した小鳥たちに、珠生は少々ウンザリしながら言った。
「あのな、おれは何も好き好んで菊野と抱き合ってたわけじゃないんだぞ。仕事なんだぞ、わかるか? お前たちもいずれそういうことをしなきゃなくなるんだ。好きでもない相手とだな――」
「菊野さんとだったらやりたぁい」
「やりたいって何かヒワイ……」
「ち、違うって! そーゆーイミじゃなくてっ!」
「菊野さんにだったらキスされてもいいー」
「お前らなあ……メルヘン思考にもほどがあるぞ……」
 こんなんでこの先だいじょうぶかな、と今期の見習いたちのゆくすえを案じながら彼らが誰と写真を撮りたいかを議論しているさまを眺めていると、背後から声がかかった。
「大変そうだねえ」
 振り返ると同期の小町が扇子片手に笑っていた。珠生は肩をすくめ、小町の部屋付きの禿や新造たちが自分の後輩たちと合流するのを見届けると、入り口側のすみの方にふたりで移動した。
 エメラルドグリーンの地に蓮の花をあしらった仕掛けを身に纏った友人は面白がっているようすを隠そうともしなかった。
「元気そうな子たちで」
「元気というか暢気というか……今期は珍しくそういうコが多くてな……授業は受けてるハズなんだが、イマイチ水揚げの意味もわかっていないカンジだ。――無事送り出せるか今から心配だ」
「お、天下の珠生さまが珍しく弱気だねえ」
「弱気にもなるよ。おれと菊野の撮影見た感想が、キスしたか、だぞ!? 問題はソコじゃないっつーの……」
 すると意外にも小町は唇の端を上げた。
「それ、僕も気になるけど? したの?」
「まァちょっとな。けどそんなことはどーでもいー―……」
「マジッ?したのっ!? 何でそんな平然としてんだよ!?」
「逆に何でそんなに動揺すんだよ? 仕事だろ?……それにもーそれ以上のコトもいろいろ……コホン、まあ、コレはいいや」
 珠生は咳払いをしてゴマかそうとしたが、目聡い友人は見逃してくれなかった。
「はーん、なるほどね。〝キス程度″じゃ驚かないってイミか。ならナットク」
「ヘンな納得の仕方すんなよ……」
「で?」
 ニヤニヤしながら聞いてきた相手に珠生はイライラしながら聞き返した。
「でって何?」
「だから、感想。どーだった?」
「どうもこうも……もういいだろ、この話は。お前撮影終わったのかよ?」
「ざーんねん、全部終わってます。さ、答えてもらおうか? 下馬評通りだった?」
 どうあっても引く気のなさそうな相手に、珠生は渋々答えた。
「絶対に誰にも言わないと約束するなら教える」
「約束する約束する」
「バラしたらお前の恥ずかしい過去を言いふらしてやるからな」
「わ、わかったって。で? どうだったの?」
 珠生は深呼吸をして気持ちを整えてから言った。
「期待させといて悪いけど、おれ、菊野に抱かれたことねーから」
「はっ!?」
 扇子を使って気取るのも忘れて素で驚いた相手に若干満足感を感じながら珠生は続けた。
「だからわかんねー。まあ、うまいはうまいと思うけど?」
「マジで? 何で?」
「いや何でって、おれ男に抱かれるシュミねーから」
「趣味とかの問題じゃないだろ……はあ、なるほど……気ィ遣ってもらってるワケか」
 憐れむような目でこちらを見る友人に、珠生はムッとして言い返した。
「何だよその言い草。おれが面倒臭い先輩みたいじゃん」
「実際そうじゃん。はー、菊野かわいそ~」
「ハ? お前仮にもおれの友だちだよな? イロイロ恥ずかしい過去お互いに知ってて一蓮托生の間柄だよな? ンなこと言っていいわけ? 何であっちの肩持つんだよ?」
 すると、小町は大げさにため息をついてから、大人が子供に言い聞かせるような口調で説明した。
「あのね、ココにいる奴らの中で男に抱かれるシュミあるヤツなんて少数なワケ。わかる? ほとんどヘテロなワケだよ。菊野だってたぶんそうだろ?――けどそんなセクシュアリティなんて無視して仕事させられてるワケ。じゃあココで問題。ヘテロの男にとって男に突っ込むのと突っ込まれるのではどちらがより精神的・肉体的負担が少ないでしょう?」
「あー、ヤる方か?おれゲイだからわかんねー。でも受け入れる方が身体的にはキツイよな?」
「当たりだけど外れ。お前肝心なトコ全然わかってないね。あのさ、ホモとかオカマが蔑称として使われるのは、それが男たる資格を失った男だからなワケ。わかる?男はあくまで性的な場面で主体であって、女に欲情する存在じゃなくちゃないのに、男に欲情されて、あまつさえ女みたいに突っ込まれて喜んでるヤツは、男失格なワケ。そーゆー社会的なスティグマがあるから、大抵の男は〝女扱い″されることを嫌がるわけだよ。それを容認したら差別されるから。だからどう考えてもヤラれる方がキツイんだよ」
「わかったようなわからないような……お前いつもこんなコムズカシイこと考えて暮らしてんの? 脳疲れね?」
 小町は扇子を閉じ、壁にもたれて腕を組んだ。
「まアとにかく、君は毎度毎度カワイイ後輩に精神的及び肉体的苦痛を味わわせているワケ。これが結論。以上」
「フーン、悪いことしたな……でもおれバリタチだから客以外に抱かれるのは絶対無理だわ」
 そう言った珠生に、小町は処置なしとばかりに首を振った。
「でもそんなイヤそうにしてないけどなあ……おれ、菊野は男もイケると思ってるんだけど、勘違い?」
「さあ、どうだろうね。今一つ読めないんだよなあ、あの子。人当たり良いけど、実はすごい腹黒なんじゃないかって未だに疑ってるんだけど、その辺どーよ?」
 友人の疑問に、珠生は即座に首を振った。
「それはない。確かにヘラヘラしてて本心読めないところあるけど、悪いヤツじゃない。むしろお人好しってーか……だから心配は心配なんだよな」
 珠生はいまだ他の色子と撮影を続けている菊野の方へ目を向けて呟いた。
「アイツ、客選ばないし、貢がせないじゃん? だから稼ぐには人数取るしかないワケだよ。けど、稼いだら稼いだ分年季を縮めてもらえるとか、手元に入る金が多くなるかといったらそんなこともないワケじゃん」
「ま、性産業なんて搾取の最たるものだからな」
「だから合理的に考えたらお職目指すのなんてバカらしいワケ。ほどほど働いて、ほどほど稼いで年季明けを待つのが一番――おれも菊野もそれはわかってるワケだよ。で、おれはその上でシュミでやってんの。貢がせんの結構好きだし」
「だよなー」
「けど菊野は……そーゆータイプじゃないだろ? いろいろきっちりしてるし、自分なりのポリシーあるし、仕事熱心だけど、タイトルとか名誉にこだわるタイプじゃない。色子に圧倒的に不利な廓の仕組みについてもよくわかっているハズだ。なのにあそこまであくせく働くイミが全然わからないんだよ。
最初の頃は、サボリまくってたんだよ。茶挽くなんて日常茶飯事でさ。でもそんなこと気にも留めてないようすだった―――信じられっか?アイツ、張り見世ン中で本読んでたんだぜ?」
「そういえばそんなこと言ってたねえ」
「それが、二年経つ頃から急にやる気出し始めてさ……あれは、椿が体調崩した頃だったな―――」
 珠生は、かつて菊野と最も親しかった友人の椿を思い出した。明るく、天真爛漫で、社交的で、信とはまた違うタイプの正統派の美形だった後輩―――珠生が入楼してから今に至るまでのおよそ十年の間になされた、数々の試みの中で、唯一足抜けに成功した色子―――。
 珠生が面倒を見た色子の中でただひとり、身請けによってでも、年季明けによってでもなく、この牢獄から出ていくことに成功したのが彼だった。
「椿の身体に負担かかんねーようにって、客引き受けて………あんなに嫌がって吐いてたのにな………」
「確かに。あの頃から変わった気がするね」
 小町が菊野を見ながら同意した。彼は不機嫌オーラを発散しまくっている紫蘭――菊野をライバル視してやたら突っかかっている売れっ妓だ――と共にポーズをとっていた。
「歯ァ食いしばってがんばってた……毎日のように泣いておれのトコに来たよ。あれされた、これされた、あれさせられた、これさせられた、あんなこと言われた、こんなこと言わされたって言ってな……どれだけ一緒に寝てやったか覚えてねえ。……友達の前では強がってたみたいだけどな」
「へえ………」
「そこまでして庇ってやった椿が抜けたとき、どんな思いしたんだろーなあ」
「何か言ってた?」
「いや、それについては何も」
 珠生は首を振った。
「ちょうど体調崩してたしな」
「ああ、昔の傷の………」
 珠生は笑った。
「客に惚れられて刃傷沙汰なんて、らしくねードジ踏みやがって。………まあでもきっと、恨んだり妬んだりはしなかっただろうな。心がキレーなヤツだから。傷つきはしたかもしれないけど、むしろホッとしたんじゃないか? いつも椿の身体、心配してたし」
「かもね」
「……だから、わかんねーんだよなあ。もうがんばんなきゃない理由は無くなったワケじゃん?椿に客回したくなくて働いてたんだから。なのに何でまだ働きアリみたいにあくせく仕事してんのかフシギ」
「………」
「サドの客を受け入れてまで働く意味がわからない。なあ、そう思わないか?」
「………」
「小町?」
 突然黙り込んだ友人を不審に思って目を向けると、相手と目が合った。その瞳は、ゆらゆらと不安定に揺れていた。
「お前もしかして……何か知ってるのか?」
 そう聞くと、小町はうつむき、深々と息を吐き出した。そして、覚悟を決めたように強い眼差しで珠生を見た。
「……コレ、本当は言うつもりなかったんだけど……誰にも言わないって約束できるか?」
「ああ。約束する」
 すると十年来の少し変わった友人は辺りを見回して声の届く範囲にひとがいないことを確かめると、珠生にすこし顔を近付け、声を落として言った。
「菊野さあ……年季があと七年あるんだって」
「………は?」
 一瞬相手のことばの意味が理解できず、珠生はポカンと口を開けて固まった。菊野の年季明けは確か三年後だったはずだ。計算上もそうだし、本人もそう言っていた。
 混乱していると、小町が沈んだ面持ちで続けた。
「椿の足抜け騒ぎがあっただろ? あのとき手引きしてたのが菊野だったんだってさ。そんで、椿の年季を上乗せされたらしい。サドの客ばっか回されてんのもたぶんそのせい」
「そんな……まさか……その話は確かなのか?」
「ああ。小竹と本人が話してるの偶然聞いちゃってさ。誰にも言うつもりなかったけど、珠生は菊野の指導担当だったし、随分気にかけてるみたいだから、言っといた方がいーかなって思ってさ」
「何てことを………ッ!!」
 珠生は拳を握りしめて菊野をねめつけた。なぜ言ってくれなかったのだ、なぜひと言も相談してくれなかったのだ、と叫び出しそうになるのをこらえて唇を噛みしめる。今、珠生を支配している感情は怒り、それだけだった。
 そもそもなぜ足抜けの手助けなどしたのか? なぜ行動を起こす前に相談してくれなかったのか? なぜ、頼ってくれなかったのか――?
 考えれば考えるほど腹が立ってきて、珠生は舌打ちをした。小町が何か言っているのが聞こえるが、内容は一切耳に入ってこなかった。
 今、珠生の視界には自分を裏切ったも同然の後輩の姿しか映っていなかった。
 
 彼は相手の撮影が終わるや否やツカツカと近付いていき、有無言わさずにその腕を引っつかんでスタジオの外に連れ出し、後ろからぞろぞろついてきた禿たちに先に帰るよう指示すると白銀楼とは反対方向に向かって歩き出した。
 どうしても関係者のいないところで話したかったので玉東の東側にあるいわくつきの小山まで連行し、生い茂った木立の中で相手を解放した。そして一本の木を背にして戸惑ったような表情で佇む菊野の前で腕組みをして仁王立ちをした。
 珠生は怒気を孕んだ低い声で詰問した。
「おれに、話してないこと、ないか?」
「………」
「ひとりで抱え込むとロクなことにならないって、おれ、昔っから言ってきたよな?! 憶えてるか?」
「ハイ………」
 菊野が目を伏せた。珠生は相手の胸倉をつかみあげた。
「今、胸の内に抱えてるモンあるよなあ!? 言ってみろ。ホラ、言え!」
「……何をおっしゃっているのか……」
「フザけんなっ!」
 気付けば頬を平手打ちしていた。森閑とした木々の中に乾いた音が響く。
「おれの前でウソつくんじゃねえっ! 答えろっ! 何隠してんだ!」
「た、環さっ……苦しっ……」
 ギリギリと胸元を締め上げられて菊野が目を眇めて喘ぐ。それでも彼は本気で抵抗しなかった。それこそが、後ろめたいことがある証左に思えた。
「年季、上乗せされたって本当か?」
「………ハイ」
 菊野は諦めたように目を伏せて頷いた。
「それは、どうして……」
「……一樹を逃がしたので」
「ッ……何でそんなことしたんだっ?」
 たいして感情を交えずに淡々と理由を説明する相手に、珠生は戸惑いを隠せなかった。
「あまり深く考えずにやってしまいました」
「ひとこと、相談してくれれば……ッ…くッ……」
 珠生は相手の胸倉をつかんでいた手を離すと、こらえきれずに嗚咽をもらした。
「……それで……がんばってたのか」
 すると菊野はまたもあくまで落ち着いた声音で答えた。
「ええ。今が華ですからね。稼げるときに稼いでおかないと」
 その先は言われなくてもわかった。〝払い下げられる″だ。更に条件の悪い見世へと。
 珠生は目を伏せ、呟くような声で謝罪した。
「頼りがいがない先輩でゴメン……気付いてやれなくて悪かった」
「そんなっ、環さんが謝ることじゃないですよ。私が軽率だったんです。ここに残れただけでもラッキーでした」
「………」
 珠生は掛けることばが見つからずに、ただ相手の肩に手を置いてぎゅっと握りしめた。がんばれよ、なんて言えなかった。だってこの男は既にもうこれ以上がんばれないほどがんばっているのだから。
 ふたりはそのままそこで日が傾き、夕陽の残照が消えるまで黙って立ち尽くしていた。


引用元:ポール・オースター(2011) 『幻影の書』 柴田元幸訳,新潮文庫.
関連記事



記事一覧  3kaku_s_L.png About
記事一覧  3kaku_s_L.png お知らせ
記事一覧  3kaku_s_L.png 作品のご案内 
記事一覧  3kaku_s_L.png ジェンダー
記事一覧  3kaku_s_L.png 映画のレビュー
記事一覧  3kaku_s_L.png その他
記事一覧  3kaku_s_L.png Links
記事一覧  3kaku_s_L.png 倉庫
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit
【色と光をもたらす者 色と光をもたらす者】へ  【偽悪のススメ 後編】へ