新緑瑞々しく、木々の若葉薫る季節だった。信はふとペンを動かす手を止め、窓の外に視線を転じた。甘くさわやかな香りが鼻腔をくすぐる。彼は胸いっぱいに大気を吸い込んだ。肺のすみずみまで〝春″というものがゆきわたったような気がした。
そのまましばらく草木の香りを楽しんでいた信に、不意に声がかかった。
「おーい、信くーん!」
「おーい」
「こっちこっちー」
信を呼んでいたのは同級生たちだった。サッカーボール片手に校庭から手を振っているのは、活発で運動好きな小峠、その横に並び立った四人はいずれも彼と仲の良いクラスメイトたち――那須川、広尾、仲間、子安――だった。陽気で社交的で、クラスのムードメーカー的存在の生徒たちだった。
彼らのうち四人は信と同じく内部からの持ち上がり組だったため、付き合いはわりと長く、特に小峠、那須川に至っては幼稚舎の頃からの付き合いだった。
信が手を振り返すと、彼らは見ててくれよー、と口々に行って三対二でミニサッカーをし始めた。信は頬杖をついて、ブレザーを脱いで駆け回る同級生たちを眺めた。柔らかな五月の光の下で、広大な校庭の一角を走り回るエネルギーに満ち満ちた男たちの肉体が躍動する。
自分も身体を動かした方がいいかな、と思ったが、チームに入るといろいろと揉め事が起きることは目に見えていたので、信はいつも通り見学するにとどめた。
「ねえねえ信くん、コレ見てよ、フラワーアレンジメント。作ってみたんだ」
そばにイスを持ってきて座っていたのことばに、信は窓の外から室内へと目を戻した。見ると、彩鮮やかだがどこか楚々とした小ぶりの花束が目の前にあった。
「いいのか? ありがとう」
信が受け取ると、すぐさま正面からCDが差し出された。
「はいコレ、カラヤンの〝新世界″。58年収録のやつ。聴きたいって言ってただろ?」
「どこで買ったの? ネット? 高価(たか)くなかった?」
信はウェブページに表示してあった値段を思い出しながら言った。小遣いで買える額ではなかったのを覚えている。教育に――特に音楽の――金を惜しまない父親にねだれば手に入れられることはわかっていたが、彼に頼み事をすることをだいぶ前からやめていた信はそうしなかった。
なかなかCD化されないというカラヤンの二回目の〝新世界″を入手するという偉業を成し遂げた猛者、右京は心持ち胸を張って続けた。
「親戚に借りたんだ」
「そうなんだ、ありがとう」
「うん。僕もずっと聴きたかったしね。予想通り最高だった。僕の方は満足いくまで聴いたから、しばらく貸しておくよ」
「ありがとう」
「うん」
会話が終わるや否や、今度は別の友人がチケットを差し出してきた。
「信くん、〝魔笛″の特別席が手に入ったんだ。再来週の土曜日なんだけど、一緒に行かない?」
そう誘ってきた相手はたびたびクラシックのコンサートに一緒に行く篠宮だった。
「いいね、シューベルト。この間も〝未完成″の演奏会に行ったし、何かシューベルトづいてるよね」
「あっ、篠宮、ズルい。また抜け駆け?」
「そういうのはナシにしようって、この前話し合ったばかりだよな?」
信が受け取った途端に周りがざわめきだした。出た、アイドルのファンごっこ、と内心若干辟易して友人たちを見ていると、篠宮が返した。
「残念。君たちの分はないよ。悔しかったらこれ以上のモノ手に入れるんだね」
すると小柄でリスみたいな顔をした白石が反駁した。
「はぁ? 何言ってんのさ!? 決めただろ? ルールは守れよ」
「ルールを破るくらいじゃないと目標は達成できないものだよ」
「ダメだ。没収する。ゴメン、信くん」
そう言って信の手からチケットを取り上げた荒川に篠宮が抗議した。
「返してよ」
「不可」
「返せって。軽く犯罪だぞ」
「信くんと行かないって約束したら返してやる」
「このっ……! 返せっ!」
「まぁまぁまぁ」
どうやら雲行きが怪しくなりかけたようだったので、信はさりげなく立ち上がって仲裁に入った。
「行ってきなよ。私はいつも篠くんと言っているから今回は譲るよ」
信のことばに、荒川は慌てたように言った。
「いや、行きたいというわけでは……とにかく、出かけるんだったらみんなで行けるトコにしようぜ」
すると篠宮は舌打ちをして、グレーのチェックのブレザーのポケットからチケットの束を取り出した。
「どうせこうなるだろうと思って全員分席を確保しておいたよ。ホラ」
そして神の束を荒川の胸に叩きつけた。
「おぉー、やりィ」
「言っとくけどきっちりチケット代は払ってもらうからな。信くん以外は。信くんとは前から約束していたからいいよ」
「いや、でも……」
「いいからいいから」
信のことばを遮るようにチャイムが鳴った。
「じゃ、土曜日、行こうね。バロックと古典派の違いも分からないような素人たちと一緒で若干興ざめするような気がしなくもないけど」
「おい、聞こえてるぞ」
「聞かせてんだよ」
荒川と篠宮のかけ合いにクスッと笑って、信は再び着席した。そして、友人たちがそれぞれの席に散ってゆくのを見た。
信はもうだいぶ前から、旧友たちの親切が友情の域を超えたものから発していることに気付いていた。彼らの抱いている感情の種類が何であれ、それが友情というよりは贔屓のアイドルに対するようなものであるということを、そしてその限りにおいては自分が彼らの〝同志″たりえないということも知っていた。自分がなぜか同級生の中で〝ドラえもん″におけるしずかちゃんポジションで、そう振る舞うよう期待されていることも。
しかしそれでもかまわなかった。認めてくれていようとそうでなかろうと彼らはよくしてくれたし、良い関係性を築こうと努力してくれていたからだ。その事実だけで信には十分だったし、深読みする必要はないと――むしろすべきではないと思ってきた。
だから信を取り合っての――自分が自意識過剰すぎて勘違いしていなければ――揉め事が起こりそうになったときにはこうして毎度さりげなく火消しをしてきたわけだった。
均衡が崩れることなく高等部での日々を最後まで送れるといいな、と思いつつ、世界史の授業に備えて机からテキストと資料集、そしてルーズリーフ紙を取り出しかけたその瞬間、既に予想していた出来事が起こった。後ろの席の生徒に呼ばれたのだ。
「信くん、信くん」
小声で言いつつ背をつついてきたのは、先ほど校庭でサッカーに興じていた小峠だった。信はまだ教師が到着していないのを確認すると、振り返った。
「さっきはごめん。最後まで見てあげられなくて」
「いいよいいよ。どうせ荒川達に捕まったんだろ? よれよりさ、オペラ行くんだって? おれも行っていいかな?」
小峠はNHKの歌のお兄さんばりに爽やかな表情で聞いてきた。彼は信が初めて性的に惹かれた青年だった――尤も、肉体的な欲望と恋というものが必ずしもイコールで結ばれるわけではないと信じていた信が、それが恋であると認識したことは一度もなかったが。
彼は自分を窺うように少し上目遣いで見てくる相手に、頷いてみせた。
「もちろん。皆で行こう」
「ほんと? あーよかった! 出遅れたかと思ったよ」
途端に満面の笑みを浮かべた相手に、信は自分まで笑顔になるのを感じた。
「再来週の土曜日だよ。行ける?」
「もう! あ、あとあさっての試合愉しみにしててよ。おれ、フルで出れることになったし」
「おぉ、すごい。まぁ、〝出れる″じゃなく〝出られる″だけどな」
「出たよ、信くんの文法チェック」
ことばとは裏腹に、小峠は心底嬉しそうだった。
「知るは一瞬の恥、知らぬは一生の恥、だろ?」
「ハハッ、違いねぇ」
ちょうどそのとき、世界史担当の教師が教室のドアを開けたので、そこでふたりの会話は中断された。信は身体の向きを戻し、再び前を向いた。
五月の穏やかな風が頬を撫でてゆくのが気持ちよくて、信は目を細めた。そしていつも通り板書を始めた。
――このときの彼はまだ知らない。自分がオペラを聴きに行くことはないことを。この平和で安全で守られた場所から永久に追放される運命にあることを。
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