「信、一樹、すまん!」
例のごとく集まった月曜日の昼食後、部屋にやってきた友人たちに開口一番そう言った章介は、自室の畳に手をつき、頭を下げた。信が呆気にとられてその場に立ち尽くしていると、章介はその広い背中をふたりに晒したまま続けた。
「おれのミスで!……ふたりと同衾せねばならなくなった……!」
入口を背に並んで立っている信と一樹に、まるでそうすれば現実の酷さが和らぐとでも思っているかのように、章介は早口で言って顔を上げた。そして窺うようにふたりの顔を交互に見てきた。
先に反応したのは一樹だった。
「〝ドウキン″ってナニ?」
信は、陽光に照らされている、以前よりさらに鋭くなった相手の顎の線を見つめながら答えた。
「寝るってコトだ」
「? 何で謝んの?―—ハハァ、さては寂しくて眠れないんだな?」
「そういう〝寝る″じゃない」
信が誤解を訂正すると、一樹はハッとしたように目を見開いた。それを見て、章介が再び頭を深々と下げる。
「本当に、スマン! 申し訳ない……!」
「あーなるほどー……3Pね」
一樹のことばに、今度は章介が凍りついた。しかし彼はそんな相手のことなどお構いなしに続けた。
「いーよ別に。それより早くモノポリーやろーぜ」
心底興味なさそうにそう言って押し入れに向かう友人の姿に、信と章介は顔を見合わせた。昔の一樹だったら考えられないような反応の仕方だったからだ。
このところ、物事全般に対する反応が薄くなり、およそ生気というものが感じられなくなった友人を憂慮しているのは両方同じだった。
いつか手の届かないところへ行ってしまうのではないか―――そういう恐れはもう何か月も信の中に居座り続けていたし、章介も同じような心境にあることを、彼は知っていた。
一樹が戻ってきて、部屋の中央にある丸い座卓にボードを広げるのを横目で追いながら、信は、猶予はあとどれくらいあるのだろう、と暗く思った。このところ前にも増して顕著になってきている顔色の悪さや、ひと回り萎んだ身体、そして覇気のない声などから総合的に判断するに、五年は与えられていない気がした。何度談判しても一向に一樹を入院させてくれない小竹や楼主に心の底から殺意を抱きつつ、信は黙ってテレビ側、一樹の向かいに腰を下ろした。そこが、章介の部屋に集まるときの彼の定位置だったからだ。
「デフォで土地所有はアリにする?」
一樹の問いに、信は章介とほとんど同時に頷いた。
「オッケー」
すると一樹は不動産カードを裏返しにして切り、各人の前に四枚ずつ並べた。
「無料駐車場に止まったときは賞金アリ?」
「ナシで」
「ナシだな」
「はーい。GOを通ったときの報酬は二百ドルでオッケー?」
「ああ」
「いいよ」
一樹は頷いてルールを近くにあった紙片に書きつけ、サイコロを手にして、ジャンケンをしよう、と言った。
「最初はグー、ジャンケン……」
勝ったのは信だった。続いて章介が抜け、サイコロが信に手渡される。彼が、顔色がひどく悪い目の前の友人を何とか妓楼から出す方法はないかと色々思案しながらサイコロを振ったそのとき、不意に一樹が口を開いた。
「あのさ……自分が不利になっといてこんなこと言うのもナンなんだけど、コレで今度三人で参加することになった〝お祭り″の役割分担を決めねえ?」
「………なるほど」
信は、頭の上に疑問符を浮かべて、祭り?と首を傾げている章介に小声で、そのことばが〝ドウキン″を意味していることを教えてやってから相槌を打った。
「アレさ、結局ひとりは休める仕組みになってると思うんだよ、おれは。だから今日勝った人間は当日何もしなくていいってのはどう? であとは勝った順にポジションを決める」
「ピッチャーとキャッチャーと審判を決めるワケだな」
信のことばに一樹が噴き出した。
「何だよ信、珍しくお下品じゃん。普段散々おれのこと詰っといてさ」
「一応これでも婉曲表現を使ったつもりなんだが? オフェンスとディフェンスとでも言った方がよかったか?」
「ハハッ、章、信ってこんな面白いヤツだったっけ?」
久しぶりに本心からの笑みが見られたことに安堵感と嬉しさを感じつつ、信は銀色の車を前に六つ進めた。
「買う」
「おー、勝つ気マンマンだな。ハイ、百ドルです、まいど」
いつものようにゲームを仕切ってくれる一樹が、紙幣と引き換えに水色の土地カードを渡してくれる。信はそれを自分の前の空いたスペースに並べて置いてから、章介にサイコロを渡した。すると相手がそれを振りつつ、ボソリと言った。
「信がそんな冗談を言うようなタイプだとは思わなかった」
「フフッ、で章ちゃんは、オフェンスとディフェンス、どっちがお好みなワケ?てかふたりって今まで……」
「ない」
信が首を振ると、一樹は、往時よくしていたようないたずらっぽい表情になって続けた。
「章、信に負けるとヒサンだぞ~。ドロドロのグチャグチャにされて、もう受け身しかできないカラダにされちゃうぞ~」
「なっ……!?」
首元まで赤くして固まった章介に、一樹は更に畳みかける。
「いやー、知ってると思うんだけどさ、おれ何回か〝ドウキン″させられたワケよ、この御仁と。そしたらまあねちっこいのなんのって、親友のおれでも若干引いたね。瞳が琥珀色の硝子玉みたいでキレイ、とか真顔で言ってくんだぜ?……あんな言葉責め、客にだってされたことねえよ。……そういうわけだから章、結託して信倒そうぜ。で、あの屈辱を倍にして返す!」
「卑怯だぞ」
信はそう言いながらも、このひとときだけであれ、親友の目に再び光が灯ったことを心底嬉しく思っていた。そして、ゆったりとした気持ちで、若干怯えた目で自分を窺ってくる章介に弁明じみたことをしようと試みてみた。
「大げさに言っているだけだ。一樹にすこし誇張癖があるのは知っているだろう?」
「………だが、一樹だけではなく、他の人からもそういう話を聞くぞ……」
疑り深そうな目で自分を見てくる相手に、信は説得の仕方を変えるのが得策だと判断した。
「まあ、一部が事実なのは否定しない。だが、〝見世物″なんだぞ? 仕方ないだろう」
「………」
「信ってヘンなトコでマジメっていうかさー、融通きかないってーか……優等生タイプだよな」
一樹のことばに、信は肩をすくめた。
「ま、イヤなら私に勝つことだな。でないと〝ドロドロのグチャグチャ″になるぞ」
すると章介が無言で身体を三十センチほど一樹の方へずらした。
「章介っ? 今のは冗談――」
信は慌てて言ったが、章介はもはや目を合わせようとしなかった。
「あーあ、引かれちゃったー」
「今のは違うんだ。……誤解だ。章介、頼むから話を聞いて――」
信の必死の弁解を遮って、章介が断固とした口調で一樹に言った。
「勝つぞ」
「おー!」
信は己の失言を悔やみつつも、以前のように明るい表情で章介と作戦を立て始めた一樹の姿を見て自分の気分が高揚するのを抑えきれなかった。無意識に口元に笑みを刻んでいたのだろう、一樹が何をニヤニヤしてるんだよ、と言ってきたが、気にならなかった。気になるはずがなかった。
こんな穏やかな時間がいつまでも続けばいい、と思った。
*
「さあーてと、いよいよこの日が来ちゃいましたねぇ」
遅い朝食の席、定位置の右奥窓際のテーブルに着いた一樹は開口一番そう言った。それは今日、絶対に避けては通れぬ話題だった。信はその隣に座って、いつもより元気そうな相手のようすにホッとしつつ、湯飲み茶碗を手に取った。
「その話は食後にしよう。食欲が減退する」
そのことばに向かい側に坐した章介は深々と頷き、同意を示したが、一樹はいつも通りこちらの意向を無視した。
「でもちょっと照れるなァ、章の前でとか。まァ、章は良かったよ。この御仁の毒牙にかからずにすんで」
この間のモノポリーで勝ち抜いたのは章介だった。一樹は周囲にひとがいないのをいいことにペラペラと、信が個人的な事柄に留めておきたいことの数々を喋り出した。
「とにかく比喩、コイツ比喩使っていたぶってくんの。何だろーなあ、想像力が豊かになると恥ずかしさ倍増なんだよな、なぜか。あとは褒め殺しね。とにかく持ち上げて持ち上げてイイ気分にさせて、それから満を持して仕事に取りかかるってゆーかねえ……。信と寝てるとたまに何か一瞬勘違いしそうになるんだよね、コイツおれのこと実は好きなんじゃ、とか。まァそんなワケはねーわけだけど」
「耳聴こえてるか? 今はやめようと言ってるんだ」
信は相手を睨みつけてそう言ってみたが、効果はまるでなかった。
「信と付き合うコは幸せだろうと思うよ、男でも女でも。おれが女だったらひっつかまえにいってるね、絶対」
そこで、昨日から貝殻状態だった章介が初めて口を開いた。
「………ふたりがどうして平気なのか、おれにはわからない………友達、なんだよな……?」
「慣れ、かね?」
あっけらかんとそう言い放った一樹に、章介が衝撃を受けたような表情をした。
「っ……信、悪い、朝からこんな話……でも聞きたい……聞いてもいいか?」
「何?」
「…………その………ヘンなカンジになったり、しないのか?」
「ああそんなこと? なんねーよ、全然。何でかなあ」
一樹が笑って答えてからプチトマトをひとつ口の中に放りこんだ。そして口をもぐもぐさせながら続けて言った。
「お互いに絶対にナイ感じだからかなあ。おれは男好きになったコトないしなあ。やるコトやったら反応はするかもしんないけど、それと〝好き″ってのは別だと思うからさ。ぶっちゃけ、身体から始まる関係とか信じてないし。あと、セクシュアリティ、だっけ? 恋愛対象の性別がどっちかっていうのがそう簡単に変わるとも思わないから」
信は頷いた。
「慣れかな」
「そう……なのか……? そんなに簡単に割り切れるモノなのか……? おれには、わからない……」
なおも当惑気味に言う章介に、信は、モノポリーで負けて良かった、としみじみ思った。
「まあ、今日は適当でいいから」
信のことばに、同じことを思ったらしい一樹が同調した。
「そーそー。ちょーっと刺激が強いかもだけど、最初ちょっとだけ絡んでくれたらあとはこっちでやるから」
一樹はここで声を落とし、信に囁いた。
「ヘタなことすると絶交されそうだな」
「ああ。サラッと終わらせよう」
信は頷き、不審げに自分たちを見ている友人に言った。
「ごめん、こっちの話。――一樹、ゼリーあげるよ」
そう言ってデザートとして付いていたぶどうのゼリーを差し出すと、相手は嬉しそうに、サンキュ、と言った。するとすかさず章介が自分の分を一樹のプレートの上に乗せた。
「いつもワリィなァ」
「いい。代わりにもし残すんだったら飯くれ」
章介のことばに頷き、一樹は手を付けていないご飯を差し出した。それはこのところ日常と化していた光景だった。一樹の食事のプレートはいつもほとんど減っておらず、信と章介がそこに自分たちのデザートを乗せる。こんな状態で良く動けるなと思うほど一樹は痩せていた。その、今にも真っ二つに折れそうな身体が折れる時期を少しでも延ばしたくて、信と章介は毎日のように、一樹の喉を通りそうなものを多めに手に入れてはその身体に送り込んでいた。
その時を、一時間でも、一分でも、一秒でも延ばしたくて。
信は不意に、一樹がそう遠くない将来、いなくなってしまうのではないか、という猛烈な不安に襲われ、息をつめた。
時間がない。何とかしなければ。……でもどうやって?
この牢獄の絶対君主、小竹にはすでに何度も何度も、両手の指の数では利かぬくらい訴えていた。一樹を入院させてくれるよう、それができなければせめて休養を与えてくれるよう、懇願した。自分の立場を利用し、脅したり宥めたりすかしたりして、待遇の改善を要求した。
しかし、そのすべては失敗に終わった。小竹は頑として譲歩せず、また楼主に会わせてもくれなかった。何をやっても言っても、一樹の客の人数制限と通院しか許してくれなかった。だからこの時点で、信は小竹がもはや頼りにならないことを悟っていた。そしてそれは、正攻法が使えない事態であることを示唆していた。
足抜けしかない。一樹の時間が尽きる前に、ここから逃がすしかない――問題はその方法だった。
客を頼るほかないことは明らかだったが、相手は絶対に裏切らない、信用に足る人物でなければならなかった。それに加えて手はずを整え、計画を首尾よく遂行することのできるコネと財力を持った相手で、かつ信が払える程度の謝礼で満足してくれる、もしくは脅す弱味をこちらが握っている人物――何人か思い当たるフシはあった。妻子に隠れて登楼している実業家や、政敵にバレたらキャリアを失うことになりそうな話を信の前でうっかりしていた議員の客がそれに当たる。しかし、彼らはまったく信頼に値しない人間だった。腹いせに復讐してこない保証はどこにもない。だから除外だ。
他に、やたら身請けにこだわる客が二、三人いたが、そのうちのだれも、わざわざリスクを負ってまで助けてくれるとは思えなかった。身請けと引き換えに足抜けを頼んだとしてそれを聞いてくれる相手は多分一人もいないだろう。それでも探りくらいは入れてみるか、とスケジュール帳を頭に思い描きつつ、信は一樹がゼリーだけは完食するのを横目でさりげなく確認した。
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