桜の花びらがはらはら舞って、きらびやかに飾り付けられた中庭を彩る。一樹は目を細めて少しそれらに見入ってから、もう昔のように情動が動かなくなったことに気付いていくらか動揺しつつ、目の前で執り行われている宴会に目を向けた。
今日は、年に一度の花見の日だった。二週間近く前から入念に準備をして、満を持して開かれた宴は盛況だった。男妓や見習いたち、それに他の従業員たちが総出で普段お世話になっている上客たちをもてなしている。一樹もその一員で、つい先ほどまでは何人かの客の相手をしていたのだが、突然ものすごい倦怠感に襲われ、ちょっと抜けてきたのだった。
彼は、かつて禿だったころに与えられた大部屋〝桜″の窓を開け、ベランダに出て座り込み、お祭り騒ぎの中庭を、その向こうのオフィスビル群と交互に見た。そして、向こうの世界は何て遠いのだろう、と思った。
人間未満のモノとして扱われ出して早三年―――年季明けまで正気を保てるかどうか、正直自信がなかった。
木の葉の影からコッソリ宴会を見物していた一樹の目に、そのときふと友人の姿が入った。白地に薄いエメラルドグリーンの模様の入った比較的地味な仕掛け姿の美男は、四、五人の馴染み客――どれも一樹が知っている顔で、ほとんどが太客だった――に囲まれて、いつも通り愛想を振りまいていた。見栄を張って、どれだけの上客を自分がモノにしたかを誇示しようとする傾城もいる中で、特に気負った様子もなくいつも通りに振る舞っている。これだから敵わないんだよな、と思いながら、一樹はしばらく友人が客と談笑するようすをぼんやりと見ていた。
それから、これ以上言い訳がきかなくなる一歩手前で渋々中庭に戻ると、営業用の笑顔を顔にはっつけて馴染み客のところへ戻り、仕事を再開した。桜が咲き誇り、天気は快晴で、空気はポカポカと暖かく、これ以上ない日和のはずなのに、心はどんより曇ったままだった。
笑顔を作るのが、相槌を打つのが、喋るのが苦痛でしょうがない。それでも目の前の客たちの不興を買うわけにはいかなかった。それで歯を食いしばって演技を続けていると、不意に肩を叩かれた。振り返ると、信が立っていた。彼はニコニコ笑いながら何かを差し出してきた。
「いい天気だねえ。ハイ、コレ」
手渡されたモノを見ると、精巧な作りのガラス細工の置き物だった。春の陽だまりの中でうたたねをする犬と、少年と、彼らのいる縁側のそばに植えられた満開の桜の木がキラキラと陽光を反射して光っていた。
「え、ナニ?」
面食らって素で聞くと、信はしゃがんで一樹と目線の高さを同じにしてから答えた。
「アメ」
「アメ?」
信は頷いた。
「糖分が必要そうなカオしてたから。物珍しくてこの前買ったんだ」
「それ、夜目通りの店じゃないかい?」
信は口を挟んできた客の広末の方を見た。
「ええ」
「よく手に入ったね。人気で並んでもなかなか買えないって評判のところだろう? オーダーメイドの予約は三か月先までいっぱいとか」
「偶然空いているときに通りがかりましてね」
「にわかに食べづらくなってきたな……」
一樹がつぶやくと、信は笑ってアメ細工を取り返し、犬の身体を土台からもぎ取って一樹の口に推し込んだ。
「ちょっ……ちょっとっ……!」
「フフッ……おいしい?」
「何てもったいないことをっ……!」
信は自分たちに見入っている客たちにも構わず、今度は少年の方をむしって一樹の口の中に追加した。
「むぐっ……!ひゃ、ひゃひすんらっ」
「何味? やっぱイチゴ?」
一樹が目を白黒させていると、向かい側にいた高瀬が謎めいた笑みを深めてじっとこちらを見た。大手商社の役員で、その柔和な笑みのむこうにいつも鷹みたいに鋭い目が光っているのが印象的な中年の、若々しい男だ。信の上客のひとりである〝小岩系″で、頭の回転が速く、その上客にしてはめずらしく自分のことをほとんど話さないので、ウッカリ失言できない、疲れる相手だった。彼はしばし一樹たちを観察したあと、呟くように問いかけた。
「ウワサは本当なんですかねえ?このふたりが通じ合っている、という」
〝デキてる″とか俗っぽい単語を使わないあたりがいかにも高瀬らしかった。ウワサを否定する努力をとうに放棄していた一樹は抗議しなかったし――正確には、口いっぱいに詰まった砂糖のカタマリのせいで無理だったと言うべきかもしれないが――、信もいつも通り肯定も否定もしなかった。
他の馴染みたちにむけて発されたそのことばに真っ先に反応したのは高橋だった。
「表向きだけじゃないですか? 色子ってのはたいていバチバチやってるもんでしょ? 言ってみれば商売敵みたいなもんなんだから」
「いや、本当だと思いますよ。ふたりのようすを見ていたら――。共上げを唯一許してくれないのがこの子だしね」
広末のことばに、村岡が深々と頷いて同意を示した。
「そちらもですか? 私もです」
「奇遇ですなあ。自分もまだ一度も聞いてもらったことがないんですよ」
他の三人がうんうんと頷きあっている横で、一樹の弱味を的確に見抜き、既に信と共に上げることに幾度となく成功している高瀬は、薄い笑みを浮かべて表向きだけ同意していた。
「クリスマスも正月も一緒にいたとか聞いたが、どうなんだ、実際」
とうにふたりの関係性を見抜いている高瀬がわざとらしく聞いてくる。
「さあ、どうでしょうね?」
相手をあまりよく思っていないらしい信は、そう言って意味ありげな視線を高瀬に送ってから一樹の方に向き直った。そしてやっと口の中を整理した一樹にアメ細工の最後の一か所――桜の木――をむりくり食べさせると、また客たちの方をふり返って言った。
「このカオ、面白くないですか? ホラ、美形が台無し」
そう言って信が一樹の膨らんだ頬を掴んでみせると、客たちはどっと笑った。
「シマリスみたいだ」
「この子、こう見えて結構意地汚いところがあるんですよ。実は昔―――」
信は話しながらさりげなく一樹の横に席を確保すると、その負担を軽減させるかのようにしゃべり続けた。最初に一樹という共通項を使って場を盛り上げると、その後は天気や、廓の話や、芸術や、金融、政治経済など、相手の好む話題を的確に把握して話を途切れさせなかった。どうやら自分の客の第二陣を帰した後らしい彼は―――信には、自分の客をできるだけ多く宴会に参加させるため、どんな太客であろうと一時間半で帰す習慣があった―――その後三十分に渡って一樹の客の相手をしてくれて、その上大変上機嫌な状態で追い払うという仕事まで肩代わりしてくれた。
「サンキュ、王子様」
正門で馴染み客たちをふたりで見送ったのちに一樹は信の方を見て、軽く頭を下げた。
「助かったわー。いつ帰そうか悩んでたからさ」
すると真顔に戻った信は、心配そうな表情で一樹の顔を覗き込んできた。
「朝ごはん、ちゃんと食べたか? 顔色が良くないぞ」
「あんまし。食欲なくて」
「そのうち膳のものも出てくるはずだから少し食べるといい。何なら食べられる? 果物は?」
自分を今すぐ医務室に引きずっていきたい、といった顔をしている信に、一樹はムリヤリ笑顔を作って言った。
「ああ、そのくらいなら。心配かけてゴメン」
信が首を振って、優しく一樹の肩を叩いたそのとき、扉が開いて大きな影が現れ出た。振り向くと、章介が若干息を切らして立っていた。
「章?」
「章介?」
相手は少し間をおいて息を整えたのちにいつも通り聞き取りにくい声でボソッと呟いた。
「……ずるいぞ」
「え、なに? 聞こえなかった」
聞き返す一樹に、章介はすこし恨めしそうな顔でもう一度言った。
「……ふたりだけ、ズルい……」
そのことばに一樹と信は噴き出した。
「あー、悪い悪い。おれら結構客カブってるからさ」
今さき見送った客五人のうちふたりは以前一度信に流れたことのある男たちだった。だからこそ信も、いくら無礼講とはいえそれなりに礼儀作法が要求される花の宴の席で一樹の馴染みの輪の中に堂々と入れたのだ。
「悪い。まあ今日は早く上がれるだろうし、三人で花札でもやろう」
「なぜ笑っている?」
眉間にしわを寄せてつめよる章介に、信はニヤけた口もとを白絹の袖口で隠しつつ言った。
「いや、笑ってない」
「笑った! 笑ってたよな、一樹?」
いきなり話を振られて驚いた拍子にバランスを崩しかけた一樹をすかさず受け止めつつ、黒の長着に藍の羽織という、それこそ時代劇の武士が身に纏っていそうな和服姿の章介は再度詰問した。
「一樹?」
「エーッと……うーん、笑ってたような……」
いつもながら着付けが楽そうでいいな、と思いつつ、一樹はことばを濁した。若干章介にすり寄り気味になったのは、怒らせるとより怖いのがそちらだったからだ。
「なぜ笑った?」
章介は一樹の腕を支えていた手を離して信の方に向き直って言った。
「いや、ただ……」
「ただ、何だ?」
すると信は観念したように口もとから手を離して答えた。
「ただ、意外とこどもっぽいところがあるな、と思って」
「っ………!」
章介が耳まで赤くなった。
「嫉妬したんだろう?私たちに」
「…………っ」
「あーそういうことか。なんだ、かわいートコあるじゃん、章〝ちゃん″?」
反撃してくるかに思われた相手はしかし、意外にもギロリと二人を睨みつけただけで反論しなかった。その代わりに、ボソボソと言った。
「……そうだ……嫉妬したんだ……仲間に入れてほしかった……ときどき、こんな自分がイヤになる」
「わかるよ。おれだって章と信が対局してるとき結構疎外感味わってるし。〝3″て数字がそもそも不安定なんだよなー」
一樹が同意すると、信が控えめに異を唱えた。
「でも……三人だから良いんじゃないか? その不安定さが逆に絆を強固にするんじゃないか?」
「さすが信。いいコト言う」
「そう……かもな」
すぐに同意した一樹に続き、章介も頷いた。
「三人目がいることで、見方が偏り過ぎないようになるのかもしれん……」
「脇差が見えるよー、お侍さん」
一樹は腕組みをした章介にそう冗談めかして言った。この友人は時々時代錯誤な言葉遣いになるのだ。
章介はいつも通り一樹の茶々入れには構わずに話を続けた。
「おれはたぶん……信が一樹と親しくしていなかったら、一樹とこんなふうに付き合うことはなかったと思う……わかっていると思うが……」
「え、そうなの?」
一樹が若干ショックを受けていると、章介は言った。
「だが、既に、無くてはならない存在となっている……一樹の明るさとかエネルギッシュで行動的なところとかが、おれはとても好きだ」
「えっ、何コレ。告白されんの、おれ」
そこで章介は腕組みを解き、一歩一樹に近づいて両手を肩に置いた。
「だから、自分をもっと大事にしてほしい。それを失って欲しくないんだ」
「あー……そーゆーふうに着地すんだ、この話……」
「信もだ」
章介は、一気に興味を失った一樹から信の方へ体の向きを変えて強い口調で言った。
「あまり自分をすり減らすようなマネをしないでくれ。心配で不眠ぎみだ。……本当に、ふたりとも、おれを置いていかないでくれ」
泣きそうな顔で――そう、かつて一樹と信が新造出しされる直前に見せたまさにその顔で――懇願してくる章介に、一樹はあえて冗談で返すことにした。
「あーー……残念ながら年季明けはどう考えてもおれたちの方が早いな。売れてるし。章は……あー……〝そこそこ″?だからなア」
すると一樹の意図を察したらしい信が乗ってきた。
「そういえばここ最近章介と争った記憶がないな」
「悪かったなっ……! お茶挽きでっ!」
章介は一瞬ふたりを睨みつけたが、すぐに怒りの色を消して続けた。
「戻って来い、こちらへ。そして一緒に往来を観察しよう」
それが無理なことはその場にいた誰もがわかっていた。しかし、誰もそのことを口にしなかった。
「さーて。次が来る前に化粧直ししなきゃなー。ふたりとも、やってやるから来い」
「結構だ」
「遠慮しておく……」
「え~何で~~?」
一樹は身体に澱のように溜まっていた疲れが消えてなくなってゆくのを感じながら二人の腕に手をかけて歩き出した。
「パンダにされるからだ!」
「一樹のメイクはおれには合わん……」
「一樹っ! 聞いてるのかっ?!」
いろいろ言っているふたりを無視して一樹は自分の支度部屋の方に歩き続けた。自分よりも体格で優っている二人が、なんだかんだ言いながらも本気では抵抗しないことに、心の底から幸せを感じながら。

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NEO HIMEISM
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