※R15 遠い山並みに夕陽が落ちつつあった。その世界を照らす橙色の光の中で友人の浴衣の帯を締めてやっていると、部屋の扉をノックする音がした。津田秀隆は、雪のように白い肌を外からの光に染めて窓辺に佇んでいた広尾綾人と顔を見合わせた。その瞬間、声がした。それは秀隆が最も憎み、厭う人物の声だった。
「菊野ですが」
「どうぞ。入っていーよ」
綾人が黙っている秀隆の代わりに答えると、戸が開いて、同じく紺の浴衣姿の同僚が入ってきた。
「津田さん、綾さん、お食事の用意が整ったそうです。予定よりもすこし早まったのでお知らせに来ました」
「ありがと。よかった、お腹ペコペコだったんだ」
綾人が屈託なく、笑みを浮かべながら返すと、菊野は完璧な微笑を口元に刻んで、よかったです、と返し、部屋から出ていこうとした。そこでそれまで黙っていた秀隆は腕組みをして、その背中に皮肉を投げかけた。
「どうもごちそうさまです、売れっ妓さん」
すると振り返った菊野は少し傷付いたような表情で言った。
「そういうつもりでお誘いしたわけでは………」
「何が違うの? お前の意図なんてミエミエなんだよ。そーゆーつもりじゃなくてもそう見えるし。自分こんだけ稼いでますってアピール以外の何物でもないよな、この招待って」
「ちょっと、そんな言い方――」
綾人が咎めるような声を出したが、秀隆は一切謝る気はなかった。このところいや増して憎たらしくなっていた相手に更にこんな仕打ちをされて、秀隆の機嫌は最悪だった。
「私はただ、津田さんと仲直りがしたくて……」
「ハッ、笑わせる。おれたちが親しかったことなんて一度もないだろ?」
菊野はその美しい顔を曇らせて、困ったようにこちらを見た。
「それは……そうかもしれませんが、でも、最近本当に以前にも増して疎遠になってしまったような気がしていて………全然、お話しもできてないですし……」
「それは誰かさんがお忙しいからだろ? 羨ましいねえ、ちょっと同僚と話すヒマもないほどスケジュールが詰まってるなんて」
「…………」
黙り込んでしまった菊野に、見かねたらしい綾人が仲裁に入った。彼は秀隆と菊野の間に立って言った。
「もうやめなよ。こんなに良い旅館に招待してもらっておいてそれはないでしょ?」
「別に頼んだワケじゃない」
「あーもう。ああ言えばこう言うんだから。―――信ちゃん、ごめんね。よく言って聞かせておくから。ホラ、ヒデ、行くよ!」
綾人はそう言って秀隆の手首をひっつかむと廊下に連れ出し、座敷に向かって歩き出した。菊野はホッとしたような顔で綾人に礼を言うと、夕食の準備ができたことを伝えに再び部屋を回り出した。
足音を吸収するフカフカの絨毯が敷かれた廊下を通り、座敷に行く途中、綾人はその柔和な顔に険しい表情を浮かべて秀隆を窘めた。
「ちょっと最近、目に余るよ。もうちょっと自重しなよ。まったく、何が気に入らないんだか」
「全部。鼻につくんだよ、あーゆー偽善者って」
秀隆がブスッとして答えると、綾人は呆れたように嘆息した。
「それにしても、招待してもらってる身であの態度はない」
「別に最初から頼んでない」
そこがより自分を苛立たせるのだ、と秀隆は腹立ち紛れに思った。この菊野とかいう偽善者は、売り上げが良くなってから、年に二回、仕事納めの翌日からの年末の温泉旅行と、与えられる短い夏休み中に企画される旅行とに白銀楼で働く者全員を招待するなどという派手なことをやってのけるようになっていたのだ。売り上げの良い傾城が部屋付きの見習いや友人を伴って玉東区内の旅館に行くことは別に珍しくはなかったが、廓の者全員など前代未聞だと聞いた。費用は同じく売り上げトップの珠生と折半だと言っていたが、それでも大きな出費のはずだった。
この見世御一行様ご招待の伝統は珠生から始まったらしく、菊野が考案したわけではないようだったが、それでもお職を取った途端にその話に乗るあたりがいかにも彼らしかった。
秀隆は普段、贅沢品一つ買わず、客にも買わせない菊野を思い、舌打ちしそうになった。長い付き合いから、彼に虚栄心とか見栄とかいったものが皆無だということがわかっていたから、今回の旅行の目的が、一部の者が囁くように、自分の売り上げ自慢でないことはとうに知っていた。彼はただ純粋に同じ苦界で踏ん張っている同僚たちに骨休めをさせる機会を提供したくて旅行を企画しているのだ。そのことを踏まえると、偽善者ということばが正確に彼を表現していないことは明白だったし、それを口にし始めるずっと前からそのことには気付いていた。彼は、偽善者というよりむしろ神か仏の類に近い人間なのだ。
まっとうな人間ならここで菊野を尊敬し、見習おうとか思うところかもしれないが、秀隆はとてもそうすることができなかった。嫉妬心がどうしても抑えられなかったのである。何かと厚遇されていたにもかかわらず最初の一年はサボりまくり、そしてそれにもかかわらず遣り手からはたいして怒られず――〝引っ込み″禿でなかった傾城がそんなことをしようものなら折檻を食らっただろうし、実際、そういう目に遭った同僚も知っていた――、かと思えば気まぐれにやる気を出すと、あっという間に涼しい顔で秀隆を追い抜き、たいした努力もなしにその高みに上りつめ、余裕の笑みを浮かべながら頂点に君臨し続ける傾城―――それが秀隆にとっての菊野だった。〝引っ込み″だったからといつも多少のことは大目に見られて、多くのチャンスも貰えて、目も手も金もかけられてきたのに、いや、そうだったからこそかもしれないが、ロクに働きもせず、かと思えば気まぐれで友人や後輩の客をかっさらうマネまでして番付を上げようとする相手が鼻について仕方がなかったのだ。自分に与えられた特権を理解しようともせずに気ままに生きる相手が、そう生きることを許されるこの環境の不公平さが許せなかった。
だから入ってきたときから菊野のことは好きではなかったし、それは今でも変わらない。しかし、先ほどのような殊勝な態度をとられるとどうにも憎み切れなくなってしまうのが常で、たぶん、自分も相手の手管にやり込められているだけなのだろうと頭では理解しながらも、完全に嫌うに至ったことはこれまで一度もないのもまた事実だった。
「まーたそんなこと……何でそんなに目の敵にするかね」
物想いにふけっていた秀隆を現実に引き戻したのは綾人のそのひと言だった。気が付くと彼は食事会場に着いていた。珠生がひとりで旅館代を負担していた折より明らかに格が上の、旅館というよりホテルといった体裁の宿の一階、ロビーから見て左側の曲がりくねった廊下の先にいくつかある座敷のうちの一か所が指定された食事会場だった。
秀隆はスリッパを脱ぎ、既にひと風呂浴びてさっぱりした身体に少しの火照りを感じながら襖に手をかけた。七十畳ほどの、日本庭園風の中庭に面した座敷につなげて置かれた長い座卓には、既に見世の約半分の傾城たちや見習いたちがついていた。秀隆が綾人と共にその真ん中より少し上座寄りに腰を下ろすと、向かいでボンヤリグラスをつつき回していた傾城――椿と目が合った。
「お疲れ様です」
ほとんど条件反射のようにそう言った相手は、そのことばに一番ふさわしいような顔をしていた。菊野よりもより女性的で優しげな印象の美貌に翳が差し、顎の線は以前より鋭くなり、血色も悪くなっていた。何より、以前なら彼の代名詞とさえ言われるほどだった、いたずらっ子のような目の輝きがほとんど失せていた。秀隆は一瞬息を呑み、そして、年季明けまで持たないかもしれないな、と思いつつ口を開いた。
「お疲れ。相方、よくやってるみたいじゃないか。あ、相方ってつまり、ご友人のことだけどな」
秀隆は馴染み客の専属傾城の呼称も敵娼(あいかた)であったことに思い至って、そう付け加えた。すると椿は苦笑した。
「もう追いつけないっすね」
「いいのか?好き勝手させといて。あんなことされて黙ってていいのか?」
鼓舞するつもりで煽るようなことを言うと、椿は頭を掻いた。
「あー……もう譲ったんで。何か燃え尽きちゃったんすよ。今の信と競れる気なんて全然しないし」
「燃え尽きるにははえーだろ。今何歳だ?二十歳かそこらだろ?まだまだこっからだよ、番付抜いて見返してやれよ」
「まあできたら」
煮え切らない反応の相手に秀隆が更にことばを重ねようとしたそのとき、大きな影が椿に差した。背後に立っていたのは廓一のタッパを誇る紅妃だった。
「一樹、悪い、ウーロン茶の数を間違えて頼んでしまったみたいなんだ。五本追加と伝えてきてくれるか?」
「ウーロン茶ね。他はだいじょうぶ?」
椿は立ち上がりながら聞いた。しかし章介は首を振った。椿は頷くと、秀隆と綾人の方に目を向けて軽く頭を下げた。
「すみません、ちょっと抜けます」
秀隆は軽く手をあげて了承の意を示した。そして軽く会釈をして通り過ぎようとした紅妃に向かって言った。
「何か手伝うこと、あるか?」
すると彼はいつも通り感情の読めない目で秀隆を見たかと思うと、首を振った。
「いえ……」
「そう。じゃあ待たせてもらうな」
そう言うと紅妃は何か物言いたげにしばしこちらを注視したが、結局何も言わずに再び頭を下げて、ビール瓶を抱えたまま上座の方へ歩き去った。それを見送らぬうちに、秀隆は綾人の方を向いて言った。
「絶妙なタイミングだったな」
するとおしぼりで手を拭きながらことのなりゆきを静観していた綾人は、呆れたように返した。
「ウーロン茶、足りてたと思うよ。どう見ても話を切り上げさせるための口実でしょ。アナタが変な絡み方するからだよ?」
「ここにいる大半のヤツらの意見を代弁してやっただけだろ? お高く止まってるけど本当は綾人も気になってるだろ、あのときのこと」
「まあ……気にならないって言ったらウソになるけど……でも本人たちの問題でしょ?私らが口はさむことじゃない」
「―――椿もすっかり府抜けちまったよなあ。見たか、さっきの顔?十人の子持ちのシングルマザーみたいなカオしてたぞ。だいじょうぶかな、あいつ」
「だからああやって言うのやめなって。かわいそうだよ」
「背中押してやってんだよ。今はあんときのことで自信喪失してるっぽいけど、あいつ、元はお職だったんだからさ。やればできると思って。キレーなカオしてるし、愛想はいいし」
「とか言って、どうせ信ちゃんが負けるとこ見たいだけなんでしょ?」
綾人は飲み物を注いで回る紅妃に目を注ぎながら言った。
「そーやって人の足引っ張ろうとするの、悪いクセだよ」
秀隆は鼻を鳴らした。綾人の言うことが正論だとはわかっているが、自分はとても彼のように悟りの境地には至れないと最初から諦めていたからだ。
「引っ張りたくもなるだろ……やりたい放題やってるのに大目に見られてさ……美形はトクだよな」
「あーもう醜い。それ以上ドロドロしたモノ吐き出したらどっか行くよ」
綾人のことばに秀隆は黙ったが、決してその想いが消えたわけでも、考えを正そうと決意したわけでもなかった。彼はただ、廓に来る前から付き合いのあるこの友人に逆らえなかったのだ。
綾人は細面を再び秀隆に向けてまるで問題児を見るかのような目で見て言った。
「コレ、言われなくなったら終わりだからね。―――ったく、教会にでも行ってその汚れ切った心を浄化してきなよ」
「いい。神なんか信じちゃいねーし」
「あっそ」
秀隆は目の前の前菜を眺めながら、クリスチャンである隣の旧友と菊野とを心の中で嘲笑った。そもそもマトモな神がいるのなら、この世界はなぜこんなにも醜く、不条理に満ちていて、暗いのだ、と彼らを問い詰めたいのを、秀隆はもう何度もこらえてきたからだ。いるとすれば意地の悪い神だというのが持論だった。愉快犯的な性格をしている性質の悪い神で、彼か、もしくは彼女は、人間に災厄を降らせては彼らの苦しむさまを見て笑っているのに違いなかった。そうでなければ、今自分が味わっている苦しみの理由の説明がつかないと思ったからだ。
しかし菊野はともかく、綾人とは口論になりたくなかったので彼は口を噤み、座敷が傾城たちで埋まってゆくさまをぼんやり眺めた。
やがて招待客たちが揃った頃、旅行の主催者である菊野と珠生が最後の一陣と共に広間に入ってきた。ふたりは周囲の勧めを断って末席に腰を下ろすと、少し口上を述べてから乾杯の音頭を取った。
「みなさん、今年もお疲れさまでした! 乾杯!」
集った総勢五十名ほどの同僚たちは手に手にグラスを持って、仲間と乾杯した。そしてそれぞれ頼んだ飲み物が入ったグラスに口をつけてひと口二口、人によっては半分ほど空ける勢いで飲むと、食事に手をつけ始めた。
明るく、楽しげな笑い声や話し声が響く中、菊野と珠生は食事に手をつけることなく、すぐに酌をしに回り始めた。菊野の後輩たちは立ち上がるそぶりすら見せずにノンビリ膳をつついていたが、前年と同じく菊野は注意しなかった――さすがに礼儀作法に厳しい珠生の元部屋付き禿である紅妃や椿や、現在付いている見習いたちは手伝っていたが――。
秀隆は、相変わらず後輩連中に甘いんだな、と半ばあきれながら湯豆腐をつついた。そしてナスの煮びたしに手を伸ばしたそのとき、ちょうど菊野が回ってきて綾人のグラスにオレンジジュースを注ぎ足した。綾人は一旦、それまで話していた左隣の小町との会話を打ち切って菊野に目を向けた。
「ありがと。それからさっきはごめんね。コレが色々言っちゃって」
「いえ。……今年もお疲れさまでした」
菊野はいつも通り、背中までの栗毛を後頭部の高いところできっちり結わえて、口元にムカつく微笑を浮かべながら言った。
「うん、お疲れさま。来年もよろしくね」
綾人はそこで秀隆の方を振り向いた。
「ホラ、アナタもお礼言って」
「どうもありがとうございます、施しをくださって感謝感激です」
「ヒデ?」
綾人が低い声で牽制してきたが、今回ばかりはこちらも譲れなかった。それまでも決して小さくはなかった相手への嫌悪感と怒りが約二週間前の〝事件″によって頂点に達していたからだ。
「憐れんでいただき恐悦至極に存じます、イエスさま」
「秀隆!」
すると綾人の酌を終えた菊野は腰を上げた。きっと自分は避けて通るだろう、という秀隆の予想に反し、彼は真横に膝をついた。そして、困ったような笑みを浮かべながら、ビール、いかがですか、と酒瓶片手に聞いてきた。秀隆は黙って半分ほど空けたグラスを突き出した。
菊野はビールを注ぎながら躊躇いがちに言った。
「あの……私、何かしましたか?」
「そんなこともわからないのか? それともわかって言ってるのか?……だとしたらもっとタチワリィな」
「……すみません、本当に、わからなくて――」
申し訳なさそうな表情で許しを請う相手に、嗜虐心を刺激された秀隆は唇の端を上げて言った。
「教えて欲しい?」
「はい」
秀隆は早くも彼が言おうとしていることを察したらしい綾人が口を開く前に言った。
「じゃこっち来て」
そして立ち上がり、制止する綾人を無視して座敷の隅まで菊野を連れていき、そこに置いておいた紙袋を取って手渡した。
「コレ着て」
「……友禅、ですか?」
中を覗き込んで言う相手に秀隆は頷いた。
「男ばっかでむさ苦しいだろ?それ着て酌やれよ。お前ら、芸者のひとりも呼んでくれないしな」
「そうしたら、教えてくれますか?」
「もちろん。……どうする、着るか?」
秀隆は試すように相手を見た。普段男相手に色を売っているとはいえ、特に着飾ってもいない男だらけのこの空間で、それもこれからも長く付き合いのある同僚たちの前で〝女″という客体になれるか―――秀隆がつき付けた問いはそれだった。
しかし菊野はアッサリ承諾した。それどころか見栄えを心配して化粧道具があるかどうか聞いてくる始末だった。
秀隆は完全に負けた気分で着付けを手伝い、化粧道具を手渡すと、どしどし歩いて座敷に戻った。綾人は最初案じるような顔付きをしていたが、秀隆の表情を見てすぐに事態が彼の思ったようには進まなかったことを悟ったようで、説教は始めなかった。
むくれてヤケ気味に食事を胃袋に押しこんでいると、不意に部屋の空気が変わった。朱色に金糸の刺繍が入った着物を身に纏い、いつものように薄く化粧をした菊野が座敷に入ってきたからだ。仕掛けを羽織っていないので普段ほど派手ではないが、地味な色合いの男物の浴衣を着た集団の中で、その姿はまさに紅一点だった。
誰かが嘆息するのが聞こえた。菊野は微笑を浮かべて、自分を凝視している集団に向かって言った。
「こういった会に花はやはり必要ですからね。女性でなくて申し訳ありませんが、まあ私で我慢してください」
公平を期して言うならば、そのセリフはまったくの的外れだった。菊野はその辺の女よりも美しく、色気があったからだ。廓に沈められた男たちの八割がたはヘテロセクシュアル――つまり異性愛者で、男にはカケラも興味がないはずだったが、菊野なら、という声を秀隆は少なからず聞いたことがあった。だからそういう、ムダに男女にモテる宿命を背負った者として色々とイヤな思いもしてきたに違いなく、絶対に仕事以外では女物を着たくないはずだと踏んで先ほどの提案をしたのに、てんで効果なしのようで、菊野は涼しい顔で酌を再開していた。その上彼の姿は好評で、盛り上がった同僚たちにもて囃されている始末。秀隆は、人気者は辛いな、と内心吐き捨てて、菊野からの〝施し″を食べ進めた。
しかし会が進むと、そのようすがだんだん変わってきた。最初はそうでもなかったが、酔いが回った者たちが増えると、やがて秀隆の思惑通り菊野が絡まれ始めたのだ。それを見て、彼がしめしめとほくそ笑んでいると、間もなく紅妃と椿がどこからともなく現れ出て両者の間に割って入ると、先輩傾城たちを宥めたのち、菊野をずるずる引きずって無理くり席に座らせて両脇をがっちり固めた。そして以後決して酌に行かせなかったので、結局秀隆の悪だくみは不発に終わったのだった。
秀隆はイライラしながらたいしておいしくもない酒を煽りつつ宴会がお開きになるのを待った。そして、酒にほとんど手を付けずに理性を保ったまま同僚たちを見送った後輩が最後まで残っていた秀隆のもとにやってくるのを待ち受けた。もう酔いがかなり回っていて、友禅を身に纏った後輩が一瞬女性に見えるくらいには頭が鈍っていた。
「津田さん、飲み過ぎですよ」
菊野は横に膝をつくと、秀隆の手からグラスを取り上げた。秀隆は舌打ちをしてそれを取り返そうとしたが思ったように動かぬ体では無理だった。菊野はそのグラスを遠くの方にやると水の入った別のコップを差し出した。
「ホラ、少しコレで中和してください」
秀隆は首を振って拒否すると、相手をねめつけた。
「負けたよ。無様にな。よく似合ってるよ、ソレ。さすが、美男は何を着てもサマになるな。今晩誰かに誘われたか?」
「……教えてくれますよね?」
そう言ってじっと自分を見つめる相手と視線がかち合った瞬間、秀隆は不意に劣情を感じてその肩に手をかけた。そしてほとんど何も考えぬまま畳の上に押し倒した。
「なにっ?」
困惑した表情の相手の帯に手をかけ、乱暴にほどくと、袷をはだけさせた。そして驚いて動けずにいるようすの相手の首筋に手を這わせつつ、吐き捨てるように言った。
「お前にも、おれがあのとき味わったのと同じ屈辱を与えてやるよ」
「何っ? 何するんですかっ?」
「カマトトぶってんじゃねえ。ヤらせろって言ってんだよ! そしたらこの前のこともおじゃんにしてやる」
「……やっぱり、あのときのこと、怒ってるんですか……? でもっ、アレは仕事でっ……仕方なかったじゃないですかっ……! 私がああするしかなかったことはおわかりだったでしょう?」
相手がやけに冷静に正論を吐いているのも気に食わなかった。秀隆は苛立ちまぎれに相手の乳首をつねり上げた。
「っ……!」
菊野が息を詰めて身を震わせた。いい気味だと思いながら、秀隆は伸びてきた相手の手を払い、そこを今度は擦り始めた。
「おれがどれだけの屈辱を味わったか……思い知らせてやる」
「津田さんっ! 怒りますよっ?」
何とか身もがいて自分の下から這い出そうとする菊野を押さえつけ、秀隆は行為を続行した。
「さぞ気持ちよかっただろうなあ? 目の上のたんこぶのブザマな姿が見れて」
〝そのとき″――つまり菊野に組み敷かれた日――の光景が脳裏に蘇って、秀隆は思わず息を吸い込んだ。自分を貶めることばを吐いた口が、自分の身体を這いまわった手が今そこにあり、自分の上にあった身体が下にあった。
菊野ははだけさせられた着物を元に戻そうと苦心しながら眉をハの字にして謝った。
「……そんなに不愉快な思いをさせてしまったとは思いも及ばず……それはすみませんでした……」
「お前があんな中年のオッサンみたいな抱き方するとは思わなかったよ」
「……すみません」
菊野は傷付いたように目を伏せ、袷を搔き合わせた。その殊勝な態度に気を良くした秀隆は、ここ二か月溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らすべくまくし立てた。
「春の陽だまりみたいなニオイ、だっけ? おれ、そんなニオイしたっけ? あと何だっけ、唇は熟れたラズベリー? で、髪は正絹みたいになめらかで、肌はダイヤがちりばめられた大理石みたいに煌いていてキレイなんだったよな?」
秀隆はそう意地悪く菊野に向かって問いかけたが、相手は思ったより堪えていないようだった。それよりもむしろホッとしたように表情を緩めて言った。
「……詩的な表現って言ってくださいよ」
「詩的ってゆーより変態的ってゆーんだよ、あーいうのは」
「フフッ、すみません」
菊野が不意に浮かべた微笑に、秀隆は不意を突かれて手の動きを止めた。
「何、笑ってんだよ? バカにしてんの?」
「いえ。……ただ、またお話しできるようになってよかった、と思いまして」
「………」
秀隆はその菊野のセリフで、自分が目の前の後輩をますます理解できなくなるのを感じた。混乱している彼にはおかまいなしに、菊野は無邪気に続けた。
「最近どうも津田さんと疎遠になってしまったような気がしてしまっていまして………鈍いもので、原因に気付かずすみませんでした。今後はああいったことがないよう、気をつけます」
そのことばに、秀隆はため息をついた。いったいどこまで本心でどこからウソなのか見当がつかないし、つかせないのがこの後輩の厄介なところなのだ。
「ああいうことがないようにって、それは菊野がどうこうできる範疇のことじゃないだろ? 反故にする前提で約束なんてするなよ」
すると相手は真剣な表情で声を落とし、秀隆を見上げて言った。
「その……もしどうしても断りきれなかったときは……こういった役割分担で構いませんので」
相手の言う〝役割分担″は明らかに今の体勢から想起される関係性を指していた。
「っ……!?」
驚いて相手をまじまじと見ると、菊野は申し訳なさそうな顔でつけ足した。
「この間はその……本当にすみませんでした……そこまで負担をおかけしてしまっていたとは夢にも思わず……」
おかけされていた〝負担″の内容がパッと頭に浮かんだ秀隆は身を起こして相手を解放し、素早くそのことばを遮った。
「もういいっ! 過ぎたことだ。……もう行くわ」
あからさまにホッとした顔になった相手を見ないようにしながら、秀隆は立ち上がった。そして、やけにキレイで、それこそ〝正絹″みたいな相手の髪とほのかに漂う甘い香りをできるだけ意識しないようにしながら歩き出した。しかし三歩もいかないうちに目が回って転びかけ、まるでそれを待ち構えていたかのように近くに待機していた相手に支えられた。菊野は秀隆の腕を掴んで体勢を整えるのを手伝うと、いつも通りの冷静で優しげな口調で言った。
「お送りします」
「………悪いな」
これだからこの男は憎めないのだ、と霞がかった頭の片隅で毒づきながら、秀隆は菊野に伴われて部屋に向かった。そして辿り着くと、ベッドに倒れ込んで何かを考える間もなく意識を失った。
- 関連記事
-