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兆し 3.客あしらいのイロハ

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 小岩が待つ座敷に行く頃には、信の機嫌は最高に良くなっていた。一樹と和解できたという成果の前には、いかなる苦行も彼を落ち込ませることはできなかった。その上、ずっと欲しかった本が手に入るはずなのだ。信はスキップしそうになる自分を抑え、心もち弾んだ足取りで部屋の前まで行くと一応神妙な顔を作って襖を開け、遅れたことを小岩に詫びた。しかし、鋭い観察眼を持つ相手は、即座に信が浮かれていることを察したようだった。
相手は一通り仕掛けを身に纏った信への賞賛のことばを述べてから言った。
「紋日に登楼らせてくれて、ありがとう。嫌がられてるのはわかってたんだけど……」
「まさか。そんなわけありません。来ていただけて、とてもうれしいです」
 リップサービスも絶好調だ。信は座敷の襖を開けてくれた相手に礼を言って先に中に入った。
「ウソでも、そう言ってもらえるとうれしいけど………あ、そうだ。ハイ、コレ」
「〝アブソリューション″………」
「うん。やっと届いたんだ。〝グレート・ギャッツビー″のプロローグみたいな位置づけなんだよね」
「あ、ありがとうございます」
 信は差し出された、薄い文庫本を恭しく受け取った。
「読んだら感想聞かせてね?」
「あ、ハイ……」
「〝ギャッツビー″の中で、誰が好き?」
 信は手元の本から無理くり視線を引き剥がし、隣に坐した相手を見た。
「……ギャッツビーですかね……」
「へえ。どんなトコロがいいの?」
「ひたすら献身的というか……デイジーのためなら何でもするあたりが………」
「なるほど……まあ、デイジーの本性は見抜けなかったわけだけどね。僕もね、好きだよ、彼。金色の帽子を被ってひたすら想い人を待ってるあたりがね」
「健気で一途でまっすぐで……美しいですよね。ああいうふうに生きられるなら、ああいう死に方をしてもいいかも、と少し思ってしまいます」
 それは本心だった。
「そんな、コワいこと言わないで。……菊野さんには長生きしてもらわないと」
「フフッ、老いていく私が見たいのですか?」
「………うん。共に、老いていきたい。伴侶として」
「…………」
 何か来そうだな、と信は身構えた。
「身請け、したい」
 信は本を取り落とした。口をポカンと開けて相手をまじまじと見る。
「小岩家(うち)に、来てくれないか?――イヤなことは一切やらなくていいし、囲うつもりもない。学校にも、行きたいなら行かせてあげる。就職も、望むならしていい。ただそばにいてくれればそれでいいから―――来て、くれないか?」
「……すみません、お気持ちはありがたいのですが―――」
「どうして?」
 戸惑った表情の相手に、本気らしい、と思いながら信は続けた。
「身請けは受けないことにしておりますので」
 それは完全な真実ではないにせよ、嘘というわけでもなかった。
 どんなにいい話が来たとしても、白銀楼を一樹より先に抜けるなど、心配でできなかった。一見図太そうで世渡り上手に見えてその実脆いのだ、彼は。
「理由を、聞いてもいい?」
 食い下がった相手に少しイラッとしながらも、信は根気よく丁寧に説明した。
「年季明けを待って、本当に自由になりたいのです。……雅貴さまは他のお客さまとは違います。きっと言った通りにしてくださるとだろうことも、こんな良いお話、もう無いだろうということもわかってはいるのですが、どうしても自分の足で大門を出てゆきたいのです。―――せっかくお話を頂いたのに申し訳ありません」
「そっか………わかった……でも、もし気が変わったら、言ってね……?」
「………ハイ。……あ、デイジーと言えば、ゼルダもいくつか作品を書いていますよね? 〝ワルツはわたしと″とか」
 ゼルダというのは、〝偉大なギャッツビー″のヒロイン、デイジーのモデルになったといわれているフィッツジェラルドの愛妻だった。彼女もいくつか作品を遺している。
「え? ああ……うん」
 心ここにあらずといったようすで相槌を打つ相手の注意を早急に自分から逸らさせるため、信は話を続けた。
「もしかして全集をお持ちではないかと、思ったのですが……」
「ああ、あるよ。読みたい? 晩年は結構精神を病んでたんだよね」
 信はぜひお願いします、と返しながら、もし、大門の外で出会っていたら、良い友人になっただろうな、ともう何度考えたか知れないことを思った。
 もし〝あっち側″で……〝普通の世界″で出会えていたら―――そんなことを考えながらフィッツジェラルド夫妻談議を続けていると、身請け話に戻ることをあきらめたらしい相手が提案した。
「ねえ、今度読書会やろうよ。同じ本読んでそれについて論じるの。大学の頃よくやったんだけどさ」
「いいですね。何からいきます?」
「じゃ、〝アブソリューション″からにしようか。ギャッツビーとセットで」
「わかりました。テーマはひとつに絞った方がいいですか?」
 小岩は首を振った。
「いや、好きなだけ。色々出してみよう。プリンターはないだろうから、菊野さんは手書きでいいよ」
「いっぱい出てきそうですね。楽しみです」
 本当にワクワクしながら言うと、小岩が黙り込んでしまった。
「どうしました?」
「………椿さんは、幸せだね。君のとなりにいられて」
「……先週のやり取り、ご覧になりましたよね? そういうふうに見えますか?」
 大門のところでの殺伐とした応酬を思い出しながら信は言った。ちょうど仲違いしていた時期だったので助かった、と思っていたのだが。
「見える、よ。ちょっとしたケンカなんてどんなカップルでもするだろ。……あの子は全部知っていた。私のことも………。本当に彼には心を許しているんだね。はァ、妬けるよ」
「周りから誤解されているのですが、〝本当に″友人なんですよ」
「そう………」
 小岩はまったく信じていないようすだった。信のことばを、客へのうれしがらせだと解釈したらしい。信は説得を諦め、相手の腕に手を置いた。
「雅貴さまがお考えのような感情は、我々の間にはありません――ありませんが、もし、仮にそうだったとしても今この瞬間、私のすべては旦那さまのものですよ」
「……そうだね、欲張ってもいいことは何もない……困らせて、ごめん」
「いいえ。そこまで想ってくださっているなんて、本当に私にはもったいないです。いつもやさしく接して頂いて感謝しています」
 とにかく褒め殺し、が信のやり方だった。世辞だとわかっていても、持ち上げられてイヤな人間はいない。だから小岩や廣瀬のような、機嫌を損ねるとマズイ客に対してだけは、笑顔を惜しまず、媚を売りまくっていた。
「こちらこそ、いつも癒してもらっているよ。ありがとう」
 対する小岩も同じ戦法だった。彼はひたすら蝶よ花よと信を褒めそやし、甘いことばを雨あられと浴びせかけてくる。だからふたりのやり取りは一見すると睦まじい恋人同士の会話のように聞こえるのだった。信は一度たりとも相手に何かを感じたことはなかったが―――。大体にして、親友と顔が似すぎているのがまず問題だった。会うたび、一樹を思い浮かべてしまうのだ。
 信は自己嫌悪に陥りながら、相手の腕を両手でつかみ、その肩に頭をもたせかけた。
「雅貴さま………」
「菊野さん………」
 唇が触れ合う。信はなるべく一樹のことを考えないようにしながら、相手の着物を握りしめた。できる限り身体をちぢこめ、小さく見せようと腐心しながら、口付けを交わす。
「ン………」
「本当に、綺麗だよ。こんな高貴な花が似合うひとは君を置いて他にいない」
「光栄、です」
 疼き始めた身体に軽く失望しながらも、信は相手にしなだれかかって甘えた口調で言った。
「和服をこれほど華麗に着こなす旦那さまもそうはいないですよ……」
「フフ、あなたにそれを言われると微妙な感じだな……この間男物を着てる菊野さんを見たよ。それであなたがこの界隈で〝王子様″って呼ばれてる所以がわかったよ。仕掛け姿のあなたはこんなにも優美でたおやかなのに、あのときは寒気がするほどいい男っぷりだった……あなたは何にでもなれるんだね……」
「あなたの持ち上げ方に寒気を覚えますよ、私は」
 信は笑って言った。しかし相手は冗談に笑わなかった。
「本気で言ってるんだよ、僕は……。君こそ〝完全で永遠なる美″だ……内面も外面も……」
 そして小岩は不意に詩を吟じ始めた。もう幾度となく信の耳元で囁いてきたシェイクスピアの愛の歌を。

"Shall I compare thee to a summer's day?     (あなたを夏の日と比べてみようか。
Thou art more lovely and more temperate:       しかしあなたの方が美しく、穏やかだ。
Rough winds do shake the darling buds of May,    5月には強い風が吹き付け、可憐な花の蕾を揺らしてしまうし、
And summer's lease hath all too short a date;     夏の命は短い。
Sometime too hot the eye of heaven shines,      時に陽光は強すぎ、
And often is his complexion dimmed,           またその輝きはよく雲でくすんでいる。
And every fair from fair sometime declines,       すべて美しきものはいつか色褪せるものだ、
By chance or nature's changing course untrimmed:  偶然に、あるいは調和を欠いた自然の変化によって。
But thy eternal summer shall not fade,          しかしあなたという永遠の夏は色褪せない。
Nor lose possession of that fair thou ow'st,       その美しさを失うことも、  
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,  死神が彼の陰をあなたがさまよっていると自慢することもない、
When in eternal lines to time thou grow'st.        永遠不滅の詩行であなたが生きる限りにおいて。
So long as men can breathe or eyes can see,     人類が存在し、その目が見える限りにおいて、
So long lives this, and this gives life to thee.      この詩は生き続け、そしてこれがあなたに命を与えるのだ。)


 初めてこういったことをされたときには驚いて腰を抜かしそうになったものだが、今ではすっかり慣れっこになっていた信は、熱い眼差しを自分に注ぎながら流暢な英語でソネットを諳んじる相手のことばに耳を傾けていた。美しく、情熱的な詩だと思う。ロマンティックで官能的だとも。しかし信はどんなにそういった詩を歌われても読まれても、詩人と共鳴できなかった。たぶんそれはまだ自分が〝愛″というものを知らぬからなのだ、と彼は思っていた。
 いつかこの詩を、あるいは他の詩や小説の引用をその耳元で囁きたくなる誰かが現れるのだろうか、とぼんやり思いつつ、信は心の中でゆっくりソネット18番を味わった。

                             *

 一樹はその翌日、 〝オアシス″から帰ってきた。どうやら過労に端を発した体調不良だったらしく、尾を引くような病気ではなかったからだ。それでも、もう1日くらい休ませてやればいいのに、と退院を催促したであろう小竹を恨みつつ、信は重い身体を引きずって一樹の居室へと向かった。来るのは2週間ぶりだった。
「一樹、いるか?」
 扉をノックすると、少しして部屋の主が姿を現した。顔色がだいぶ良くなっているのを見て、若干安心した。
「おはよーさん。昨日はありがとな、いろいろ」
「身体は、どうだ?」
「おかげさまで、いっぱい寝たらだいぶ良くなった。はあ~」
 そして一樹は大きく伸びをした。
「今から散歩でも行こうかと思ってたんだけど、どう、一緒に? まだ時間あるし、裏山にでも行こーぜ」
 信は頷いて、章介も誘おう、と言った。そしてふたりはつれだって昼前の、まだ静かな廓内を歩き出した。

 
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