※R15 信は、唯一の馴染み客の小岩雅貴が差し出してきた仕掛けにことばを失った。優しい色味のその仕掛けは裾の方に山景が配された、いかにもこの場にそぐわぬ品が良い一品だった。名家の令嬢が茶会にでも着ていきそうな柄だ。
「菊の花をあしらったんだ。どうかな? 揃いの小物も用意したよ」
「………頂けません」
いったいいくらかかったのか、考えただけで眩暈がした。
「そんなコト言わないで。君のサイズに合わせて作ったんだから他のひとは着られないよ」
「どうして、こんな………」
「紋日に着てほしいんだ。その日は泊まりで来るから」
〝紋日″というのは、遊郭のいわばイベント日で、その日、客は2倍の花代を支払う決まりになっている。代わりに廓側からも精魂込めて、贅を尽くしたサービスが提供され、また、その日登楼した客はその後優先的に予約が取れるようになるなど、何かと優遇されるという特典が付いていた。また、傾城たちは所定額を自分の花代として必ず廓側に支払う決まりになっており、多くが馴染み客に来てもらうため腐心していたが、信はほとんどその努力を放棄していた。どうせ太客しか登楼れない日だから、そういう客がほとんどいない自分に指名が入るわけがないだろうと思って、休日のつもりでいたのだ。
それが泊まり―――? 冗談ではなかった。
「あの………実はその日は他のお客さまが……」
「え? 予約はないって聞いたけど?」
信は内心舌打ちをした。
「すみません、カンちがいをしていました………」
小岩はしばし信を注視したのち、カバンから何かを取り出した。文庫本の題名が目に入った途端、信は思わず身を乗りだした。
「それ………」
「前から読みたいって言ってたよね、ウルフの〝三ギニー″。ハイ、あげる」
「い、いいんですか?」
信が手を開いたり閉じたりしながら―――つまりもらう準備をしながら―――問うと、小岩は苦笑して頷いた。
「仕掛けよりはるかに喜んでもらえたね………あと、フィッツジェラルドの〝アブソリューション″が入ってる短編集も頼んでて、そろそろ届くから今度持ってくるよ」
「い、いつですか?」
「さあ。早くて日曜かな」
紋日の日だった。信はボーナスで与えられた休日と、本とを天秤にかけた。結果は明らかだった――本だ。
「その日にお待ちしております」
「ホント? コレ着てくれる?」
「喜んで」
ここ2カ月、ずっと欲しかった本が手に入るなら、休日が潰れ、一晩身体をいじくり回され、甘いことばを耳元で聞かされ続けることなど何でもなかった。小岩はあまり得意ではないが、徹底的にいたぶってくる廣瀬よりは数段マシだった。
色子の中には小岩を理想の客とする向きもあったが、信はそもそもひとの顔の美醜がよくわからない上、客を〝最悪″と〝マシ″と〝かなりマシ″の三段階に分けて見ることしかなかったので、彼らの言い分はよくわからなかった。
「モノで釣るようなコトしてゴメンね? でもよかったぁ~。菊野さんが僕の仕掛け着てくれるなんてうれしいなぁ」
「私などで良かったのですか? もっとふさわしい方がいるかと思いますが―――」
「ううん、菊野さんがいいの」
信は相手にさりげなく近付き、胡坐の上、膝に置かれた相手の手に自分のそれを重ねた。こちらから動かないと、一向に手を出そうとしないのだ、この男は。
「ねえ、ウワサがあるんだってね、椿さんと。付き合ってるって?」
「ただの友人ですよ。周りがカン違いしているだけです」
「………でも、本当だとしても、僕がどうこう言えることじゃないよね。ゴメン」
「……私には、あなただけですよ」
そう言って伸び上がり、キスをしようとしたが、なぜか拒まれる。
「ッ……ゴメン……何か、ダメだ………」
自分で登楼しておいて今更何を言っているのか、と信は呆れながら、それでも微笑を崩さずに言った。
「ご気分でも?」
「違う……いや、そうかも………わからない」
「熱は、なさそうですね……お酒ですかね? お冷やをお持ちしましょうか?」
しかし相手は首を振った。
「ごめん……今日はもう帰るね………支払いはするから」
このところ小岩の言動がいつもと少し違うな、と思いながら信は相手に続いて白銀楼を出た。外は身体の芯まで凍りそうに寒かった。
大門まであと少しというところで、信は見送りを終えて戻ってくる傾城に気付いた。遠目からでも相手がだれかはすぐにわかった。一樹だ。
相手の方もふたりに気付くと、薄笑いを浮かべながら近付いてきて足を止めた。そして頭を垂れ、小岩に挨拶をする。
「いつも菊野がお世話になっております」
「君は……かの有名な椿さんか」
「フフッ、有名、ですか?」
一樹は信には一瞥もくれずに艶やかな笑みを浮かべた。
「菊野に飽きた折には、ぜひ私をご贔屓に」
「雅貴さま、浮気はイヤですよ?」
信はさっと小岩の腕をつかんだ。すると一樹が目を細めた。
「そうそう。数少ないお客様は大事に繋ぎとめておかないとね?」
「停泊する船が多すぎて混乱状態の港には言われたくありません」
「へえ、言うじゃないの。………小岩さま、この子、可愛くないでしょう?理屈ばかりこねて。私、自慢じゃないけど売れっ妓なんですよ。今度一回おいでになりません?」
自分への対抗心だけで自分を安く売ろうとする一樹に猛烈に腹が立って、信は若干声を荒げた。
「何考えてるんですか? ヒトの客、盗るつもり?」
「いやいや、盗るつもりはないよ。でも菊野さん、ちゃんと満足させて差し上げられてるのかなぁって思って」
「ウソ言わないでくれます? 色目使ったでしょ? 私に対して失礼だと思わないんですか?」
「お客さまの心を留めおけないそちらの責任だと思うけれどね。盗られても文句いえないんじゃない?……小岩さま、どうですか、私は?」
「いや……ごめん、僕はやっぱり………」
困った顔でそう返す小岩に、一樹は器用に片眉を上げ、淫靡に笑った。
「へぇー、結構ちゃんとやってるんだね。………この子のどこがいいんですか? やっぱりカラダですか? ほとんど小岩さまが育ててくれたようなものですもんねえ」
「えっ?」
小岩は驚いたように目を見開いた。
「やさしいし、紳士的だし? 羨ましいなぁー、菊ちゃん」
「………さっさと戻ったら? 後つかえてるんでしょ?」
「男の嫉妬は見苦しいよー」
「…………」
「悔しかったら上がってくれば?いつまでも性病持ちのフリしてないでさ。菊ならいいライバルになると思うし」
「………もういい。雅貴さま、行きましょう」
もう少し早くこの場を離れるべきだったな、と思いながら信は足を踏み出した。
「逃げるの?」
後ろから声がかかったが、信は無視して歩き続けた。一樹との決定的な価値観の違いを噛みしめながら。
「何か、ごめんね?僕のせいで仲違い………」
「雅貴さま、謝りすぎです」
「へ?」
大門のところで立ち止まり、不思議そうな顔で自分を見る相手に、信は言った。
「私に気など遣ってくださらなくてよいのですよ。それでは来る意味がないでしょう?」
「っ………」
「もし……他の色子に乗り換えたいのでしたら、そうしてくださって構いません。仕掛けも、少し直せばその子に……」
「椿さん、とか?」
信は反射的に首を振った。
「それはちょっと………」
「どうして?」
「…………」
「好きだから?」
「………あの妓は多忙で、スケジュールに空きがありませんので」
「ずいぶん歓迎してくれてたみたいだけど?」
「…………」
「本当は?どうして?」
いつもはすぐひきさがる小岩が、今日に限っては珍しくしつこかった。
「それは………」
「やっぱり、好き、なんじゃないの………?」
「友人としては、好きです」
すると、相手が、話題の人物とソックリの顔を苦しげに歪めて信の肩をつかんだ。
「じゃあ、二番でも、いいからっ」
「…………?」
「僕とっ、付き合ってっ……?」
信はその場で石化した。
「ご冗談を……」
「この顔が、冗談を言っているように見える?」
見えなかった。ものすごく悲愴な顔をしている。
信は大パニックで脱出口を探した。
「好きに、なっちゃったんだよっ……! こんなコト言うのは法度だって、わかってるっ……でも、好きなんだよ、どうしようもなくっ………利用してくれて構わないから!……だからっ……!」
信は急展開に大いに動揺しながらも、一方で冷静に、断るべきだと判断を下していた。
「申し訳ありません。そのお気持ちにお応えすることはできないと思います……私は、雅貴さまをお客さま以上として見たことは、一度もありません」
この最後のひとことが決定打になるハズだった――少なくとも環はそう言っていた。しかし何ごとも計画通りにいかないのが世の常のようだった。
「今はいいよ、それでっ……ただの客で、いい。………いつか、それ以上になるかもしれないだろっ?」
そこでキッパリ拒絶するだけの賢明さも知識も、この時点では信は持ちあわせていなかった。それで結局、相手の言い分を受け入れた形になってしまったのだが、これが大きな間違いであったと、のちに大きな代償を払って気付くことになろうとは、このとき信は夢想だにしていなかった。
「もしかしたら、そういうこともあるかも―――」
「菊野さんっ!」
信が言い終わらないうちに小岩がガバッと抱きついてきた。信は息苦しさを覚えながらぼんやりと、客に惚れられるとはこういうことか、とひとり納得していた。
*
紋日の日になっても信はまだ一樹と和解できていなかった。章介はやきもきして仲立ちしようといろいろと手を尽くしてくれるのだが、ふたりの溝は一向に埋まらなかった。
信は、小岩どころか他の馴染みの予約まで入ったことに心底辟易しながら、小岩から贈られた、ごく淡い藍の地に冬山とその麓の村の風景が裾の辺りにあしらわれた仕掛けを着付け、髪をセットし、揃いのかんざしを挿した。そして、張り見世に入るときはしないような〝ちゃんとした″化粧をすると、時計に目をやった―――午後5時半。小岩の到着までにはまだ30分あった。本でも読むか、と腰を上げたとき、不意に禿の寺島純がくりくりした目を輝かせながら興奮したように言った。彼は信に付いた初めての禿だった。
「珠生さんのお客さん、見ました? 外務省の方でしたよ」
信は相槌を打った。
「そうみたいだね」
「一緒に夏目さまもいらっしゃいましたよっ」
夏目は総務大臣だった。かつては翡翠という百年にひとりの美妓といわれた傾城の馴染みだったが、彼の年季明けに伴い、最初、桜こと鈴木章宏へ、そして次に一樹へ鞍替えして今に至る、賓客中の賓客だった。いったい一樹はどこまで行ってしまうのだろうな、と思いつつ、純の話に応じていると、廊下を足早に近づいてくる足音が聞こえた。その足音は部屋の前で止まり、ノックと同時に戸が開いた。
「菊野、いるか?」
立っていたのは小竹だった。いつものように地味な色の和服を身に纏い――今日は草色だった――、ロボットのように無機質な顔でこちらを見ていた。
「支度は、できているな?」
「ええ………」
小竹が来たということは、何か不測の事態が起こったに違いなかった。使いを出す暇もないほど、危急の用事があるのだ。
「では、急ぎ夏目さまの座敷へゆけ。〝柏の間″だ」
イヤな予感が膨れ上がる。
「一樹が担当のはずでは……?」
「急病で倒れた。代わりに入れ」
「一樹がっ!? 今どこにっ? 病院ですかっ?!」
「―――医務室だ。嘔吐が止まらない」
「っ……! ようすを見に―――」
「ダメだ」
小竹は出ていこうとした信の腕を鷲づかんだ。
「椿の顔に泥を塗るつもりか?」
「しかし私でなくても……」
「今日は皆忙しい。お前しかいない」
「ですが予約のお客さまが――」
「小岩さまの方はこちらで何とかする。さ、四の五の言わずさっさと行け」
信は仕方なく頷き、〝柏の間″に向かって歩き始めた。
何となく慌ただしい雰囲気の廓内を移動しながら、一樹のことを考える。意識があるようで安心したが、嘔吐が止まらないなんてやはりただごとではない、と思った。ノロウィルスかなにかに感染でもしたのだろうか?――他にそんな症状を呈しているひとがだれひとりいないのに?――それとも神経性の何かか、もしくはもっと―――。
悪い方に考えそうになって、信は首を振って思考を打ち消した。
―――そんなワケない、まだ二十歳そこそこなのだ――疲れが溜まっただけだ。……そうだ、疲れただけ……。
そう自分に言い聞かせ、医務室に行きたいのをこらえて夏目の座敷に続く襖に手をかけた。
「失礼致します。椿に代わってお相手を務めさせていただきます、菊野です」
入るよう促され、顔を伏せ気味に環とその客の前を通り、奥で待つ夏目のもとへと赴く。相手は品定めするように信をじっくり見たあと、顎ヒゲを撫でながら言った。
「椿に負けず劣らず美形だな。ちょっとタイプは違うが………歳は?」
「十九です」
「よい年頃だ。肌もきめ細かく、くすみ一つない」
相手の手がするり、と頬を撫でる。
「髪も、絹のようになめらかで、頬はバラ色、唇も品がありつつ、艶めかしい……」
よくもこうつらつらと恥ずかしげもなくセクハラ同然のセリフを初対面の相手に向かって吐けるな、と内心呆れながらも、信はされるがままになっていた。そこでさすがに見かねたらしい環が助け船を出してくれる。
「夏目さま、初めて顔を合わせる相手に、それは少し無粋というものでは?」
「金を払ってご機嫌伺いをせねばならんのかね? 白銀楼(ここ)はもっと気の利いた見世だと思っていたが………」
夏目は地位と権力に酔いしれて思い上がった人間の典型だった。傾城を人間と見做さないタイプだ。こんな人間が、一樹の馴染みなのだ―――。
「もちろん、誠心誠意サービスさせて頂きますよ? もし手順を守って頂けるのなら」
「ほう。どういった〝手順″をお望みかな?」
薄く笑った夏目に、この人間を敵に回して、環にとって良いことはひとつもない、と悟った信は、間に割って入った。
「〝手順″など不要です、旦那さま。お好きになさってください。……あなたは特別ですから」
「ということだ。本人がそう言っているんだからいいだろう」
夏目は信の肩に手を回して抱き寄せた。
「しかしっ……!」
「環さん」
信は相手に首を振ってやめるよう求めた。早速裾を割って入ってくる手に身震いをしながら、相手にしなだれかかる。
「男娼にしては賢いな」
呟くように言った相手の手の動きに合わせて、恥じらうように身をくねらせる。10カ月に渡る小岩の調教で羞恥心というものはほぼ失われていたが、そうするとたいていの男が喜ぶことを知っていたからだ。
環がギリッと歯を噛みしめる。握りしめられた拳の関節は真っ白だった。
「ずいぶんと良い仕掛けを着ているな。今日のために作ってもらったのか?」
「ええ」
「菊野だから菊、か……凝っている………ずいぶん入れ込まれているみたいだな?」
「ええ。なぜか……」
「なぜか?」
夏目が笑い声を立てたので、環とその客、川崎浩がこちらを見た。
「謙遜は度が過ぎると却って傲慢に見えるって、知っているか?―――なあ、川崎くん?」
すると30代後半の、メガネをかけた、柔和な顔だが目だけ異様に鋭い男が答えた。
「そうですねえ。まず裏を返さない男はいないでしょうなあ」
〝裏を返す″というのは、伝統的な江戸吉原のしきたりの、客が馴染みに至るまでの二段階目のことを指す。初めて登楼した客はまず〝初会″と呼ばれる顔合わせをし、形式だけの床入りをする。伝統的にはこのとき、傾城は一切反応してはいけないことになっていたが、白銀楼では微笑みを浮かべる程度なら許されていた。
それで客が相手を気に入れば、2回目の申し込みをする。これを、裏を返す、と言う。そして3回目で晴れて馴染みとなるわけだ。
白銀楼においてはこの傾城優位の風習が適用されるのは昼三以上と決まっており、下級男妓とされる傾城たちをあげるのにそんなまどろっこしい手順を踏む必要はない。だからこの時点で最下級の部屋持であった信にはほとんど縁のない儀式だった。
信自身は、一本立ちに伴って彼を客に売り込むために小竹が用意した、完璧な化粧と照明とで撮られた写真につられてやってきた初期の客を、不細工なメイクと感染するタイプの病気持ちをにおわせる所作でことごとく撃退して以来、固定客は弱みを握られた相手、小岩だけだったので、この過程を辿って客と馴染みになった経験は1回しかなかった。
「たいして売れていないようだが?」
「不思議ですねえ」
「彼は不感症なのですよ」
それまで黙っていた環が、黒曜石のような瞳をこちらに向けて言った。目ではまだ怒りの炎が燃えていた。
「だから抱いてもおもしろくないそうです」
「なるほど。そういうわけか」
夏目は急に興味を失くしたかのように信から手を離した。
「ま、目の保養くらいにはなるな。酒を」
「はい」
信ははだけた裾を直し、相手の差しだしたグラスにワインを注いだ。そして、環の方を見て、口の形だけで、ありがとうございます、と伝えた。相手は苦笑して片手を軽く上げ、再び自分の客の世話をし始めた。
環のあのひとことのおかげで夏目との床入りを免れた信は、宴会が終わるや否や超特急で〝オアシス″こと医務室に向かった。友人は一番奥のベッドで点滴に繋がれていた。
それまでまどろんでいたらしい相手は、信が立てた音に目を覚ました。そして自嘲気味に笑った。
「フッ、ざまーねーな。大事な日に限ってコレだよ」
「身体は……だいじょうぶなのか?」
「まー、とりあえず出すモン出したらスッキリした……それ見たことかって思ってるだろ?」
「思っていなくはない」
「ハハッ、正直だな」
「だがそれよりも、一樹が無事で心底ホッとしている」
一樹は苦笑した。
「信ってホント、芯から善人だよなー。近付き過ぎるとその聖なる光で汚れた自分が焼き尽くされちゃいそう」
「何、言ってるんだ……仲間の体調が心配なのは誰だって同じだろ?」
「それはどーかな………でも、信の言う通りだった、一部は。ちょっとキャパオーバーだった、かも……」
「……ああ」
「ゴメン……いろいろ、言っちゃって………おれのこと、考えて言ってくれてたのに……」
「いい。こちらこそ悪かった。自分の考えを押しつけるようなマネして……一樹に言われて、気付いたんだ、違う価値観の相手を、自分は矯正しようとしてたんだって。……でも、そんなことすべきじゃなかった………色々、悪かった………」
すると一樹は両手を広げて言った。
「ハイ、仲直りのハグ」
信は若干涙ぐみながら、相手に手を伸ばした。
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