白銀楼物語 スピンオフ (更新中)

兆し 1.客引きのイロハ

 ←兆し 2.友情のイロハ →三銃士の誓いよ永遠に 第8章 信の決断
                      ※R18、モブとの絡み(最後まで)あり        last updated 18.7.21

 この日の夜も玉東の紅玉通りは賑わっていた。道をゆきかう人間はみな一様に夜の街を愉しんでいるように見える。中でも大見世の集まる南東一帯の地区を闊歩する人々は、男も女も老人も若者も皆自信に満ちた成功者の顔をしていた。政治家や政府高官らしき人々もちらほら見える。そこにしつらえられた趣味の悪い朱塗りの格子の中で、信は心底ウンザリしながら坐して通りを眺め、通りの人間から眺められていた。
 水揚げから10カ月余りが経過していた。小竹にサボッていたことがバレて、先輩の傾城を差し置いて最前列中央に座らせられてからというもの、視線がうっとうしくて仕方がない。毎度毎度性病持ちを臭わせて客を撃退するのも面倒なことこの上なかった。
 明日こそは絶対に一列下がってやる、と心に固く誓いながらできる限り顔を背けていると、頬をつつかれた。右からだった。
「無愛想なカオー」
 当然ながら一樹だった。
「ホラ、笑って笑って」
 信は無言で相手を睨むと手をはたき落した。
「イテッ! ひでー」
「君はなぜここにいるんだ? お職ともあろうお方が」
 そう――彼はもう3カ月連続で売り上げトップだった。予約客でスケジュールが埋まる彼はここ3カ月以上、張り見世に入ることがほとんどなかった。それがなぜ今日に限っているのかを問うと、相手は肩を竦めて答えた。
「いやー、今日はキャンセルが重なってさ。急にヒマになったから」
「だったら休んでいればいいだろう。過労死するぞ」
「心配してくれてありがとー、菊ちゃん♪」
「ヘンな呼び方するな……まったく………」
「きぃちゃん♪」
「…………」
「お菊♪」
 信は無言で絡んでくる相手の身体を押しやった。すると後ろから先輩である吉川良介の声がした。
「まーたやってるよ」
「ねー。もうコレはウチの名物にしていいよね」
 花凛こと江藤葵が同意する。
「夫婦漫才」
「どこをどう見てどう解釈したらそういう結論に至るんですか………」
 もう否定する気力もなく振り向いてそれだけ言う。すると他の傾城たちも口ぐちに同意し始めた。
「だっていつも一緒ですしぃ」
「離れてるの見たことないよね? 休みも一緒に出かけるし」
「部屋付きのコたちも気ィ遣ってるみたいよ?」
 そう言ったのは、二歳上の傾城、和田賢だった。かつて環のもとで共に修業した仲だった。
「夫婦だよね」
「夫婦だな」
「僕はおふたりを見て、色子同士が深い絆を結べることを確信しましたっ!」
 すると一樹が若干困ったような顔になった。
「もー、気味悪いコト言わないでくださいよー。皆が色々言うせいで最近ちょっと気まずいんですから」
「気まずいだって! 意識してなきゃそんなことになんないよね?」
 目を輝かせて断定調で言う中村博明に、他の面々が頷く。
「もーくっついちゃいなよ。応援するからさ」
「いい夫婦になると思うよ―。同性婚も合法化されたことだし?」
「年季明けたら、一緒に大門くぐろう、とか誓い合ってんでしょ、どーせ」
「もー、だから違うってばー。信はただの友達ですって!」
 否定する一樹に、信は内心、必死になればなるほど怪しく見えるぞ、と思ったが口には出さなかった。
「ただの友達にあんなに絡むかなア。何か椿って菊野に対してだけ態度違うんだよなー」
 小町こと内藤優が扇子片手に笑う。完全に面白がっている表情だった。
「そーそー。行くトコ行くトコついてくよね。スキンシップも多いし?」
「もー! だからぁー!……」
 信はそこで本格的に抗議し始めた相手に手を伸ばし、その肩を抱き寄せ、ニッコリ笑って言った。
「まァ、ちょっと友情の域は超えてますかね?」
「なっ!? ちょっと信っ!?」
 信のことばに一樹は狼狽し、他の傾城たちはどよめいた。
「やっぱりね! 言った通りだったでしょ!」
「っしゃ! 賭けに勝った!」
「負けたぁー、クソー」
 信は更に一樹を近くに引き寄せ、耳元で囁いた。
「もうそういうことにしておこう。メンドくさい」
「いいのかよっ!? そういうふうに見られてもっ?」
「そーゆー人間ばっかり集まる場所で何を今更。いいじゃないか、これで大手を振ってつるめる」
 すると一樹は困ったように信を見た。
「ったくお前は、神経太いんだか細いんだかわかんねー」
「それ章介にも言われたな………」
 いろいろと冷やかしを言ってくる同僚たちを適当にいなし、一樹から手を離して再び正面を向くと、目の前に五十がらみの白髪の男がいた。ギョッとして思わず後ずさると、相手がねっとりした声で言った。
「今の、本当なのか? 椿とそういう関係にあるというのは」
「それは………」
「ここ、色子をふたり上げるの、禁止じゃないよな? ふたり、来て」
 信は絶句した。固まっているふたりに、男はニヤリ、と笑った。
「どうした? いつもやっているんだろう?」
「こんな美人ふたりが絡み合ったらさぞかし良い絵面になるだろうな。想像しただけで勃ちそうだ」
 隣にいた男が下卑た笑みを浮かべ、舐めるようにふたりを見ながら同意する。
 信は軽く吐き気を催しながら、頭をフル回転させてこの場を切り抜ける方法を模索した。そして、やっと解答に辿り着き、乾いたくちびるを舐めて湿らせ、少し身を乗り出して言った。
「私だけでは不足ですか?」
 ふたりの視線が自分の方を向くのがわかる。信は気力を振り絞って意図的に切なげな表情を作り、小首を傾げた。
 正直、客は取りたくないが、ふたりであげられるくらいなら、ひとりで相手をした方がマシだった。それに、一樹を休ませたかった。
 口をあんぐり開けて自分を凝視している友人を横目に、信は媚態を振りまいた。
「こんな品のないのをお召しになってもおもしろくも何ともありませんよ」
「しかしそちらは椿だろう? 水揚げ後半年で見世の顔になったとかいう………人気で引く手あまただと聞いた。この機会を逃したくない。やはり―――」
「ツレないことをおっしゃらないでください」
 信は立ち上がり、格子にしなだれかかって流し目を送った。
「後悔させませんから。私をお召しになってください」
「………わかった」
 男はついに折れた。信はそっと安堵の息を吐き、驚愕の表情で自分を見ている一樹を一瞥してから踵を返し、張り見世を後にした。

                             *          

「ウッ……ンッ……あァッ………」
 信は天井の木目の輪環の数を数えながら、張り見世でのできごとを頭の中で反芻していた。自分と一樹に恋人疑惑がかかったのは、疑わしい根拠があるからというより、話題が欲しかったがゆえのような気がした。苦行と制約多きこの廓内で、ゴシップは数少ない娯楽の一つなのだ。何かセンセーショナルなネタがあれば、真偽などどうでもいい。だから、彼らが前々からちょくちょく口にしてはからかいのネタにしていたその疑惑を肯定するような発言をしたのだが、一樹に悪かっただろうか、と意外と潔癖な面のある相手を思い浮かべた。貞操観念が緩いように見せかけてはいるが、それはポーズだ。実際には、結構ナイーブでロマンチストで保守的な性格であることを、信は長い付き合いの中で知っていた。
「ンッ……アァ………!」
 快楽の源泉、腹の奥と分身とを同時に強くこすられ、信は背を弓なりに反らせた。一瞬でいままで考えていたことが頭から吹き飛び、白い光が瞼のウラで明滅する。相手は唇の端を引きあげ、言った。
「気持ちよさそうだな?もうこんなに濡れて」
「アッ……アンッ………!」
 この男は、相手を快楽で支配して悦に入るタイプの客だ、と信は霞がかった頭で考えた。
「ホラ、ココだろう?」
「あッ……ヤだっ……もうやめっ……」
 同じ場所を執拗にこすられ、我知らず泣きが入る。我ながら情けなかったが、過ぎた快楽は苦痛でしかなく、耐えられなかった。
「まだだ。まだまだ、相手してもらうぞ」
 相手はそう言って腰を振り続ける。信は思わず男を突き飛ばした。
「っ!?」
 そして這いずって布団の外へと逃げる。逃げられないことはわかっていたが、あまりの苦痛に理性が飛んで、そんな常識的な判断さえできない状態だった。
 襖に手がかかったところで後ろから覆いかぶさられ、問答無用でペニスが体内に押し入ってきた。泣き声を上げて救いを求めるように手を伸ばした信を押さえつけ、男はうっそりと笑った。
「椿の分まで、がんばってもらわないとな」
「ヤだっ……許してっ……! もうムリッ………!」
 再び注挿が開始される。
「あァッ!……あっ、あっ、あっ……」
 すべてのものがひとつに溶けてゆく。もはや冷静な思考ができる状況ではなかった。苦しくて、苦しくて、苦しくて、気持ち良くて、訳が分からなくなる。陰部はもう先走りで漏らしたかのように濡れていた。何回かイッて、精液も付着している。
男はいわゆる絶倫で、その上人体の構造を正確に把握していた。
「あっ……ソコッ……!」
「ココか? どうして、欲しいっ?」
「もうヤだっ!やめッ………!」
「イヤ? ウソつく悪い子にはお仕置きしないとな」
 男は信の尿道口をぐりっと抉った。
「ああ!」
 それだけで軽く達した信は身体を震わせ、白濁を吐き出した。そしてがっくりと畳に突っ伏す。それでもまだ責め苦は終わらなかった。
「さあ、あと一時間で何回イけるかな? イヤらしいお汁が透明になるまで搾り取ってやろう」
「あっ、あっ、あっ、……」
「今日は来た甲斐があった……まさかこんな掘り出し物があるとは……菊野、まだ出始めたばかりだろう? おれのような客は初めてか?」
「あっ、あっ、……ウンッ……」
「菊野?………トんでるのか」
 相手が何を言っているのかわからない。ただ自分を呑みこまんとしている圧倒的な快楽が恐ろしくて仕方なかった。
「あっ……! もうっ! もうダメッ!」
「…っクッ……!」
 抜き差しのスピードを速めた相手が腹の中で果てたのを感じたのとほど同時に信も絶頂した。とんでもない多幸感が全身を襲い、一瞬、世界が虹色に光り輝いて見えた。
 どうやら新しい扉を開いたらしいぞ、と思いつつ、信は脱力して荒く息をついた。男は自身を信から引き抜くと、その身体を抱き起こし、布団に戻るよう指示した。信は愕然としてその場に凍りついた。
「どうした? 早く来い」
「…………」
「2時間、愉しませてくれる約束だ。おれのペースについてこい」
 信はことばもなく、のろのろと這って男のもとに行った。とてつもなくミジメな気分だった。
「これに耐えられたら、馴染みになってやる」
 心底ありがたくなかった。が、なるべく表情に出さないようし、自分の前に座らせた信の身体をまさぐり出す相手のことばを黙って聞く。本来ならもっとリップサービスをすべきなのだろうが、そんな義理も気力もなかった。とにかく早く時間に過ぎ去ってほしかった。
 今頃一樹はどうしているだろうか、と思いながら、太腿を撫で、やがてぬかるんだ後孔に指を入れた相手に背を預けて浅く息をつく。
「イイ身体をしている………お前は椿と競うようになるな……」
「やッ……あっ……! またソコッ……」
 執拗に前立腺を責める相手に、いい加減にしろと怒鳴りつけたくなるのをこらえ、信は唇を噛みしめて天を仰いだ。そして神に助けを乞うた。
「フッ……もう兆しているな………イヤらしい身体だ」
 実はその〝イヤらしい身体″になったのは、小岩という、友人に顔がソックリの馴染みのせいだった。ここ10カ月で計画的にゆっくりじっくり開発された身体は、後孔だけで達することができるほどに作り変えられてしまっていたのだ。
 小岩と、目の前の男を心の底から憎みながら、信は快楽の波に翻弄されていた。
「こっちはどうだ? おっ、もう開発済みか」
 残念ながら胸も、性的快楽を感じる器官になり下がっていた。
「菊野、本当に新人か? だいぶカラダが出来上がっているようだが……」
「……ンッ……10か月ほど前から、お客さまを取って、おりますっ……」
「10か月?! 張り見世に出ていたか?」
「えぇ……アッ……!……ンクッ……! 後ろの方で、控えておりましたので」
「なるほど………それで気付かなかったのか」
 男は手と口を器用に同時に動かしていた。ぐちゅぐちゅと淫猥な音が部屋に響く。
「気に入った。また来てもいいか?」
「…………」
 正直もう一生顔を見たくなかった。数日は絶対夢に見そうな気がする――当然、悪夢の方だ。そんなことを考えながら黙っていると、相手は案外アッサリ引き下がった。
「わかった。もう来ない」
「ンッ……! あァッ!」
 ほとんど透明に近い色になった精液が自分のペニスからピュッと噴き出す。ゴリゴリと胎内のしこりを潰されて、信は身をよじらせた。
「次は椿を上げるとしよう」
「っ!?」
 信は思わず息をつめた。すると相手はより激しく身体を嬲りながら続けた。
「あの子とどちらが反応がいいか、比べてやる」
「うぁぁッ! やめ、やめてッ! 私をっ! 私をお召しにっ……!」
「ほう。また登楼(あが)らせてくれるのか?」
「は、はいっ! あんなのっ、抱いてもおもしろくも何ともっ……!」
「それは重畳。心配するな、働きに報いるだけ貢いでやる」
 大きなお世話だ、と内心毒づいていると布団の上に押し倒され、グズグズに溶けたソコに再び男のペニスが入ってきた。信は仕方なく相手の背に手を回した。
「ンッ! アッ、アッ、アッ、アッ」
「クッ……ハッ………」
 こんな客、一樹には絶対に回せない、と信はぼんやりと思った。媚を売っておいて方が得策だと判断し、相手を甘い声で呼ぶ。
「アッ、……廣瀬さまっ……私もうっ………!」
「……イっていいぞっ……」
「ン、……アァッ!……あ、ぁぁぁ………」
 信は全身を痙攣させ、白濁を放った。もう色は付いていなかったが。
 しかし廣瀬はまだ達しなかった。その後も何度も何度も突き上げられ、信はそのとき初めて、腹上死がいかにして起こるかを悟った。心臓発作でも起こしそうなほど激しい運動だった。
 少し身体を鍛える必要があるな、と思いながら揺さぶられていると、やっと相手が絶頂した。低く呻いて身体をぶるり、と震わせ、動きを止める―――終わった。
 信は安堵のあまり泣きそうになりながらぼんやりと自分から離れてゆく男を眺めていた。

                           *

 シャワーを浴び、身支度を整えて、ほうほうのていでよろけながら張り見世に戻ると、思った通り一樹はもういなかった。後ろの方にコッソリ腰をおろし、息をつくと、隣の傾城がこちらを見た。彼は、よく一樹との仲をからかってくる色子の筆頭で、同い年の長浜大輔だった。
「おー、ゲッソリだな。大変だった?」
「10歳老けた気分だ」
「ハハッ、そんなにスゲーんだあのひと。よかったのー、椿と一緒じゃなくて」
「ああ」
 信は顎を引き、優しげな面だちの友人を見た。
「目の前で他人と親しくされたら互いに嫉妬するからな」
 大輔は口笛を吹いた。
「おアツいねえ。どこまでいってんの?」
「どこ………?」
「椿とだよ!……もうヤッたのか?」
 声を潜めて聞いてくる相手に、信は少し考えてから答えた。
「その一歩手前くらいまでだ」
「へー、意外。椿手エ早そうなのに」
「意外とおカタいんだよ。………はあ、今日はもう店じまいだ。ホラ、前空いたぞ? 行ったら?」
 信が促しても相手は肩をすくめただけで動こうとしなかった。
「おれも終わり。あ、そーだ、今度将棋教えてくんねえ? うまいんだよな? 代わりにチェス教えてやるからさ」
「いいな。木曜の午後はどうだ?」
「オッケー。あ、椿に誤解されないよーにちゃんと言っといてよ?」
「ハイハイ」
「じゃあおれ、寝るから」
「ああ」
 腕組みをして俯いた相手に頷き、信は周囲を確認してから懐から文庫本を取り出し、しおりの挟んであるページを開いた。次の瞬間には物語の世界に没入していた。

                             *

「ちょっと信、どーいうことだよっ! おれと信、付き合ってるコトになってんだけどっ?!」
 翌週の月曜日、朝から静まり返った章介の部屋で対局していた信の平穏を乱しにやってきたのはいつも通り一樹だった。Tシャツにジャージのズボンという色気のカケラもない格好でドカドカ入ってきて、信に詰め寄ってくる。章介はなにごとかと少し驚いたような顔で早朝の闖入者を見た。
 信は動じずにサラッと返した。
「そう言ったからな」
「〝そう言った″って……! 何してんだよっ! ヘンな目で見られるだろっ!?」
「ヘンな目で見られて、我々の関係は変わるのか?」
 信は落ち着き払ってそう言った。すると相手はぐっとことばに詰まった。
「一樹はひとにどう見られるかで自分を規定しているのか?」
「そーゆーワケじゃないけどっ、暮らしにくくなんだろっ!?」
「そうか?」
 信は駒をひとつ進めて首を傾げた。
「逆にラクになるんじゃないか? 一緒にいてもうるさく言われなくなる。我々がちょっと気持ち悪いくらい行動を共にしているのは事実だからな」
「………イヤ、じゃないのか? おれとそんな仲だって思われて」
「別に? 平穏に暮らせるようになるんだからいいじゃないか」
「けど前に……言ってたじゃん、おれと似てる客、スゲーイヤとかなんとか………」
「それは、実際にやることやるからだ。噂くらいならなんでもない」
「それで……張り見世に出たとき、あの客にアピってたのか……」
「まあ」
 すると一樹がいたずらっぽい笑みを浮かべた。嫌な予感がして次のことばを聞きたくないと思ったが、相手は口を開いた。
「信くーん、お忘れ? おれ、昼三なんだよねぇ、君と違って。だから1回目でヤられたりはしないワケだよ」
「あっ……」
 信はそこで、たとえ張り見世に出ていても昼三以上の位の傾城は一見の客の相手をすることはないという妓楼の決まりを失念していたことを思い出した。一樹は、してやったり、と信の顔を覗き込みながら続けた。
「まァ~、うれしかったけど? 王子様が助けてくれて?」
「………」
 信は黙っていたが、怒っていたわけではなかった。例え馴染みの儀式を何回か経なければならないとしても、一樹の客になる可能性がゼロではない。ただでさえ多忙でこのところ疲れた表情をすることが多くなっていた彼に万が一にでもあんなサディストの手が触れるような事態にはなってほしくなかった。だから、自分の行動を信は後悔していなかった。
「張り見世……? 一樹、入ってたのか?」
 事情を知らない章介が金将を一マス下げつつ聞いた。一樹はふたりの間に座り込み、頷いた。
「たまにあるよ。で、聞いて、信がさー、客にこんなふーに」
 信は身体をくねらせ始めた一樹の耳たぶを思い切り引っぱった。
「ぐわーーっ! 章、ヘルプッ、ヘルプッ!」
「信が嫌がることを言うからだろう」
 だが章介は呆れたように首を振って一蹴した。
「まったく、気になる子にちょっかい出す小学生みたいだぞ」
「何だよー、章そっち側? おれだけ悪者かよ。信が勝手に噂流しやがったのに!」
「まぁまぁ。認めればアレコレ詮索されなくなるから」
 信が宥めると、章介が考え深げに言った。
「確かに………ずいぶん前からそのウワサはあったな……火消しのために出火を認めたワケか」
「うまいこと言うな、章」
「ああ」
 信は一樹の耳から手を離して頷いた。
「一番手っ取り早いと思って。一応、まだ一線は超えていないことになっている」
「ハァ~~~~、わかったよ」
 一樹は肩を落として頷いた。
「それより、この間張り見世に出たときに取った客、まだ登楼(あが)らせたんだって? 働きすぎじゃないか? そこまでしなくても今月もお職は取れるだろう?」
「んー、何か、断るのも悪いかなーって。すげー喜んでくれたみたいだったから」
「そういう理由で客を取り続けたら寝る間がなくなるぞ? 身体はひとつで1日は24時間しかないんだ。ペース配分を考えろ」
 信の忠告に、一樹は顔をしかめた。
「ペース配分とかの次元じゃねえやつに言われたくねえ。信、馴染み全然いねーだろ」
「悪いか? 茶挽くのが趣味なんだ」
「ハー、これで年季同じなんだから不公平だよなー」
「だから!」
 信は思わず声を荒げた。
「言ってるだろう?売れてもメリットないって。病気と過労死と刃傷沙汰のリスクが大きくなって、変態にあたる確率が高くなるだけだ。何でそんなにお職(トップ)にこだわるんだっ? そんなの、何の意味もないってわかってるだろう?」
「信にとってはないかもしんないけど、おれにとってはあるんだよ。ひとの考え変えようとすんな。地球が自分中心に回ってるわけじゃねえんだよっ!」
「身体を大事にしろと言ってるんだ! 体調崩したら元も子もないだろう!?」
 ふたりはついに立ち上がって睨み合った。
「そんなヤワじゃねーよ! お前と一緒にすんな」
「超人にでもなったつもりか? 若くたって限界はあるんだぞ! いい加減新しい客登楼(あげ)るのをやめろ!」
 一樹は信の胸倉をつかみあげた。
「お前に指図される謂れはねえっ! いつもいつもアレコレ口出してきやがって………昔っから気に食わなかったんだよっ! お前はおれの母ちゃんじゃねえっ!」
「アレコレ言いたくなるようなことをそっちがするからだろう!」
「ふたりとも、そのあたりに―――」
 章介の制止も虚しく、一樹は手を離し、信の胸倉をぐいと押しやると、踵を返した。
「おい、一樹っ!」
 章介は立ち上がって叫んだが、その直後に引き戸が一樹の背で派手な音を立てて閉まった。残されたふたりは顔を見合わせ、どちらともなくため息をついた。
「一樹のお職への執着は理解できん。………おれがまだ新造だからかもしれんが」
 章介のことばに、信が頷いて同意を示す。
「私もだ。心と身体をあんなに擦り減らしてまで手に入れる価値のあるものだとは到底思えない。………でも、一樹にとってはそうなんだろうな」
「………続き、やるか」
 将棋盤を見て呟いた章介に、信は頷いて腰をおろした。
 ふたりは再び雪降る日の朝のように静かになった室内で将棋を指し始めた。


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