updated 18.7.26
その日、章介は若干イライラしながら部屋で客の話を聞いていた。せっかく楽しみにしていた休みにその日の朝、シフトを無理くり入れられたからだ。客が多く、イベントも多くて、やむを得ない、ということはわかるが、個人的には休みを勝手に、それも急に変更するのは許せなかった。
久しぶりに仕事が心底イヤになりながら、一向にやむ気配のない相手のマシンガントークに相槌を打っていると、突然大きな物音がして、遠くの方で悲鳴が上がった。章介は客に断りを入れてさっと立ち上がり、部屋を出た。音と声は館の上階から聞こえてきたようだった。
章介は胸騒ぎを感じながら着物の裾を持ち上げて階段を駆け上がった。するとすでに廊下の先で人だかりができているのが見えた。野次馬が集まっているのは、信の本部屋の前だった。
走って駆けつけると、人垣の向こうに、扉の開かれた部屋の奥の方で若衆に取り押さえられている客と、そのそばで血を流して横たわっている信の姿とが見えた。襦袢の信が手で押さえている腹のあたりから赤い染みがじわじわ広がってゆく。腹を刺されたのだとわかった。近くに凶器が落ちているのを見て、ザッと全身の血の気が引く音が聞こえた。
章介は傾城たちを押しのけ、相手に駆け寄ると、相手の名を叫んだ。すると信は目を開けて、こちらを見た。意識があることにホッとしながら、血の色と臭いに気が遠くなりそうになる自分を叱咤し、ゆっくり相手を仰向けにした。そして相手が気絶しないよう声をかけ続ける。
「信、踏ん張れ。目ェ閉じちゃダメだ」
信を見ると、顔が白く、息は浅く、身体が小刻みに震えている。脈を測ると120以上――ショック状態だった。章介は、病院に連絡入れろっ、と怒鳴ってから、必死に昔部活で習ったことを思い出しながら処置を始めた。まず手近にあった座布団を重ねて信の両足の下に入れ、次いで相手の襦袢の帯を緩めた。そして出血部位を手で押さえながらその身体に近くの人間に持ってこさせた毛布をかけた。目に見える出血量はさほどでもなかったが、腹に外傷を負った場合、内部で大量に出血しうることを章介は知っていた。現に信は失血性ショック状態に陥っている――早急に病院に搬送する必要があった。
章介は間もなくやってきた医師の柿崎と電話の先の医師とに脈拍、呼吸数、意識の有無など信の状態を説明しながら、助けが来るまで瀕死の友人に声をかけ続けた。反応が薄く、今にも目を閉じそうな相手の頬を何度も叩き、意識を保たせた。
永遠にも思われる時間が過ぎた後、やっと玉東医院の医師と看護師数人が到着し、信を担架に乗せて運び出した。医師たちに何か礼のようなものを言われた気もするが、定かではなかった。全身がどうしようもなく震えていた。友人を失ってしまうのでは、という恐怖でほとんどそれ以外何も考えられない。紙のように白かった信の顔ばかりが脳裏に浮かんだ。
章介は同じように取りみだした一樹とふたり、病院に付き添おうとしたが、遣り手に接客に戻るよう命じられ、従わざるを得なかった。
「着替えてきなさい」
そう小竹に言われて、初めて着物に処置の際の血が付いていることに気付く始末だった。章介は頷いて怯えている禿たちを呼び寄せ、手と顔を洗ってから支度部屋に戻ると、別な着物を着付け、ほとんど頭が真っ白なまま本部屋に戻った。
「―――菊野さん、多いよねえ、こういうの」
信の源氏名を客が言ったとき、章介は現実に意識を引き戻された。
「前もあったんでしょ、未遂だったけど。間夫にするのを拒否されてってやつ。……何か、彼のお客さんは本気っぽいひとが多いよね? 野暮ったら」
そう言ってしなだれかかってくる小動物みたいな顔の相手に、違う、と章介は心の中で否定した。本気なのではない。本気にさせて(・・・)しまう(・・・)のだ。
「僕は、違うよ? ちゃんと廓遊びの原則をわかってるからね。いい客でしょ?」
「ああ」
「フフッ、ねー、来週の金曜、うちでパーティやるんだ。おいでよ。ちゃんといつもより弾むからさ」
「…………」
章介は正直、信の容体が気になってそれどころではなかった。黙って、もう処置は終わっただろうか、主要な臓器まで刃は達していなかっただろうか、適合する血液型はあっただろうか、と考えていると、相手が不満げな声を出した。
「僕の他に一緒に過ごしたい相手がいるの? 予定でも?」
「いや………そういうわけでは」
「ならいいじゃん! 絶対楽しーから。……ねっ? 約束?」
小指を差し出されて、章介はためらった。信が回復していなかったら、とても行ける気がしなかったからだ。
「………悪い……約束は、できない。………菊野がどうなるか、それ次第だ」
「あーそっか。章ちゃん菊野さんと幼馴染み、みたいな?アレだっけ?………うん、わかった。じゃー来れそーだったらメールして。菊野さん、無事だといいね」
「………かなり深い刺傷(キズ)のようだった……」
「マジ? お腹?」
章介は空いた相手のグラスに果実酒を注ぎ足しながら頷いた。
「脇腹のあたりだ。右の」
「わー………肝臓までいってなきゃいいけど………」
思ったより事態が深刻だったことを悟ったらしい相手の顔から笑みが消える。
相手は少しすると、腰を上げた。章介は、今日は床入りを勘弁してもらおうと思って口を開きかけた。そのとき、相手が言った。
「ちょっと用事思い出したから今日は帰るね。見送りもいーよ」
「………悪いな」
ホッとして謝ると、相手は入り口の方を向いて、じゃ、急いでるからコレで、と言い置いて部屋をさっさと出て行った。
章介は廊下の禿を呼び止め、部屋のあと片付けを頼むと、番台へと直行した。そして信が玉東区内の病院に運ばれたこと、一樹が客を全員帰して病院へ行ったことを受付の男に聞くと、予約客のキャンセルを頼み、病院に向かった。遣り手に後から何を言われようとされようと、知ったことではなかった。
章介はそのまま正面玄関から妓楼を飛び出すと、見世の前を通る紅玉通りを北へと走り、十字路を左折してまっすぐ進み、そののち中央通りを渡ると、左手にある4階建ての建物に入った。そして受付の若い男に処置中らしいことを聞くと、案内された第2手術室に向かって走った。ゲタを履いていてうるさく、走りにくいことこの上なかったが、そんなことはどうでもよかった。
手術室への最後の角を曲がると、長椅子に座っていた一樹が立ち上がった。章介同様着替える間も惜しんで駆け付けたらしい彼は友禅姿だった。
「章!」
「まだ終わらないのか?」
章介は肩で息をしながら聞いた。一樹は首を振った。
「まだだ。もう1時間近くになるんだけど………」
それからふたりは黙り込んで待った。祈るような気持ちで待って、待って、待って、絶望的な気持ちになりかけたそのとき、〝手術中″の赤いランプが消えた。そして中からふたりの医師が出てきた。章介と一樹は顔を見合わせ、遣り手の小竹と共に医師たちに近寄った。
医師ふたりのうちのひとり、中年女性の方がマスクと帽子を取り、息をついて、ご無事です、と言った。
「ああ………!」
一樹が叫ぶ。章介は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
小竹だけが、たいして心を動かされたようすもなく、続きを促した。
「しかしかなり深いところまで刃がいっておりましたので、1週間は入院して頂きます。幸い重要な臓器までは達しておりませんでしたので、心配ありません。バイタルは安定していますが、意識が戻らないので今晩は注意して様子を見ます」
そこで男性の方の医師は3人に会釈をして立ち去り、残った女性医師は小竹を促して一樹と章介から少し離れたところに行った。そして声を低めて話を続けた。章介にはふたりの話している内容が聞き取れなかった。
一樹と顔を見合わせていると、やがてストレッチャーに乗せられた信が看護師たちに伴われて中から出てきた。
「「信っ!」」
相手は目を開けなかった。しかし頬に赤みが差しているのを見て、章介はホッと息をついた。たぶん眠っているだけだろう。小竹を振り返ると、先に行くよう示されたので、2人は彼らについて入院病棟に移動した。
信にあてがわれたのは4階の大部屋だった。ベッドは6床あったが、他に患者はいなかった。一樹は一通り部屋や、今後の段取りの説明を終えて立ち去ろうとした看護師に、夜付き添ってもよいかを尋ねた。すると相手は頷き、空いているベッドをお使いください、と答えた。
一樹が頷くと、何かあったら呼んで下さい、と言い残し、彼女は若い看護師を伴って出ていった。
「まさか、いいって言われるとは思わなかった」
「ここは色子専用の病院みたいなものだからな。家族じゃなくても付き添えるようにしないと誰も付き添えないんだろう」
遅れて病室に到着した小竹はそう言って、腕時計を見た。
「ふたりとも、付き添うのか?」
「「はい」」
「だからといって明日、休みにはならんぞ? 菊野の分まで働いてもらわんと困る。……今月はたいした利益を見込めんな」
章介はこんな時まで金勘定しか頭にない小竹に内心悪態をつきながら、相手が帰るのを見送った。
「サイテー。犬に噛まれろ」
小竹が出ていった方に向かってそう吐き捨てた一樹に深く頷き、章介はベッド脇のイスに一樹と並んで腰かけた。何本かのチューブにつながれ、静かに胸を上下させて眠る信の前で一樹がうつむき、嗚咽を漏らした。
「よかったっ……無事でっ………!」
「本当に」
「相手、小岩だったよな? 何か聞いてたか?」
その問いに、章介は首を振った。
「おれも………でもゼッタイ信は予感してた気ィすんだよな、ヤバそうって」
「ああ。それは確実にそうだな。……そうか………」
「そうかって何が?」
「いや………最近あまり元気がないように見えた理由はコレだったのか、と思ってな」
「え、そうだった?……全然気づかなかった……章、洞察力あんな」
「まあ、何となくだけどな………」
すると一樹は握り拳を作って上に上げ、言った。
「起きたらまず説教だな。このおれたちに黙ってた罪は重いぞ」
「重罪、だな」
「もうー、今年はこのことずっと言い続けるぞ、おれは。ひとりで抱え込みくさって」
「ん」
「ホントーはメッチャ殴りたいけど、傷治るまではガマンするわ」
「だな。治ったら袋叩きだ」
すると一樹がフッと笑って章介を見た。それから信に目を戻し、呟くように言った。
「覚悟しろよ~~、信!」
心電図モニタの音だけが響く静謐な病室内で夜が、ゆっくりと更けていった。
翌朝、章介が目を覚ますと、窓の外では雪がちらついていた。章介はガバッと飛び起きて向かいのベッドの周りに引かれたカーテンの隙間を通り、するりと中に入った。
「おはよ」
「………おはよう」
信はすでに目を覚ましていた。章介は枕元の椅子に腰を下ろすと、聞いた。
「気分はどうだ?」
「だいぶいいよ。………雪、降ったな」
「ああ」
「道理で寒いわけだ」
「毛布……もう一枚いるか?」
信は笑って首を振った。
「付き添ってくれたのか?」
「ああ。一樹もいる。まだ寝てるけどな」
「悪いな。昨日、眠れた? 章介、枕変わると寝付けないタイプだろ?」
「いや、眠れた……信が無事だってわかったら一気に力が抜けて………」
すると信は天井に目を移し、笑い混じりに言った。
「ハー、これじゃ当分仕事はムリそうだな。……小竹さん、怒ってなかった?」
「いや………」
「そうか? 絶対に何か言われそうだ」
章介は身を乗り出し、相手の顔をじっと見つめた。
「信は………わかってたんじゃないか?」
「ん、何を?」
視線に気づいた相手が章介と目を合わせる。
「本気で、惚れられてるって………マズイことになりそうだって」
「んー、薄々は。だけどあんなことするひとだとは思わなかった」
「本当か?」
「ああ。相手が何しようとしてるかなんて、所詮わからないな。他人の心は読めないから」
「どうして、言わなかった?」
「だから、相手を見誤っていたから」
あくまで相手の本性を見抜けなかったと主張する信に、章介は肩をすくめた。あとは一樹がやるだろう。
「もしかしてあのときいてくれたか? 何か記憶が曖昧なんだけど、そばにいてくれた気がして」
「ああ」
「やっぱそうか。ありがとな」
「……………」
そのとき、カーテンが開いて一樹が飛び込んできた。章介が立ち上がって場所を空けると、一樹は信に飛びついた。
「信っ!」
「夜、付き添ってくれたんだって? 悪いな」
「うっ……うぅっ………どうなることかとっ……!」
自分に抱きついたまま嗚咽を漏らし始めた一樹の背をポンポン、と叩き、信は苦笑した。
「大げさだな。ちょっと痴情のもつれで刃傷沙汰になっただけだろ」
「わ、笑いごとじゃない! 刃が結構深くまでいってて、手術も時間かかったんだからなっ!」
「そうだ、ショックで一時は危険な状態だった」
「そうなのか? 自分では気付かなかった………痛くもなかったし……寒いってカンジだったな」
章介は改めて心臓がドクリ、と脈打つのを感じた。本当に、紙一重のところだったのかもしれなかった。一般に、人間は全血液量の約30%を失血すると命の危険があると言われている。体重65キロの人間だったら約1.6リットル――信はその上限ギリギリまで失血していたような気がした。
「何であんなの放っといたんだよおッ! さっさと拒否ればよかっただろっ!?……少なくともおれらに相談するとかさッ………!」
「全然わからなかったんだ」
「そんなワケないだろ、人間観察大好きなお前が。何で言わなかったんだよっ?!」
「ひとの考えなんてわからないだろ? ああいうことをするひとだとは思わなかったんだ。バカだった」
「ッ……! ウソつきッ……! てめぇ、ケガしてなかったら殴ってるぞ」
身体を離し、覆いかぶさるようにして相手を覗き込んだ一樹に、章介は同意した。
「そうだ。袋叩きだぞ」
「治ったら覚えてろよっ!」
「何だよ、章介まで………」
信は困ったように二人を交互に見た。
「それはこちらのセリフだ。勝手した罰は受けてもらうぞ」
すると、信は息を吐いて、天井を見上げた。
「敵わないな、ふたりには………大抵のひとはダマせるのに、ふたりにだけはどうしても通用しない」
「何年付き合ってると思っている?」
「そーだ。信の、名前に反した性格はわかってんだぞ。とっくに」
「ヒドイな」
信はそう言って笑った。
「何で、黙ってた? マジで」
「………心配かけたくなかった。自分で何とかできるっていう、自負心もあった、と思う」
真実を言っているな、と思った。
「いつからそんな殊勝な性格になったんだ。水揚げのときはビービー泣いて心配かけまくってたのに」
「オトナになったんだ」
すると、一樹が即座に言った。
「ならなくていい。そーゆー〝オトナ″には。少なくともおれたちの前ではな。な、章?」
「そうだ。弱みを見せないというのは一種おれたちに対する裏切りだぞ」
「裏切り………」
そこでやっと相手は作り笑いを完全にひっこめた。
「悪かった」
「弱いトコも、格好悪いトコも、曝け出し合って、支え合ってこそ仲間だろ?」
「そう……だな………忘れてたよ、そんな基本的なことを」
「じゃーこの機会に聞いとこっかな、せっかく正直モードだから………なーんで、急にやる気出し始めたワケ? おれには一日三人以上取るなとか言っといて、結構ショックだったんだぞ? おれは約束守ってるのに自分だけさあ」
「……それは謝る。抜け駆けみたいなコトして。小竹さんに、脅されたんだ、ちゃんとやらないと年季延ばすって………私が一樹の客を引き受けたときを好機と見たんだろうな。で、流れ流れて結局戻れなくなった、みたいな」
言いながら、信はちらり、と真実を知っている章介に懇願するような目を向けた。信は本当のことを言っていなかった。
「あー、アイツかー。やっぱりサイアクだな………何だよ、そんなことならもっと早く言ってくれればよかったのに」
「ごめんごめん」
苦笑する信に、一樹は抱きついた。
「あーあ、ふたりのハグ好き、おれにも伝染(うつ)っちゃったよ」
一樹は泣きながら笑って、そう言った。信は笑みを浮かべて相手の背中をポンポン叩きながら、口の形だけで章介に向かって、ありがとう、と言った。
- 関連記事
-