それから半月で、信は一樹の顧客の半分を自分に乗り換えさせた。ばかりか、今までことごとく拒絶していた客まで登楼(あが)らせはじめ、あっという間に最初のお職を取るまで半年とかからなかった。一方、信に客を盗られ、お職の座を追われた一樹には客があまりつかなくなり、ついたとしてもすぐに信に流れたため、信の思惑通り一樹は過労状態から脱した。
章介は、信がなぜお職を目指しているか承知していたので、彼の急激な行動の変化にさほど驚かなかったが、他の傾城たちや、一樹は戸惑っていた。いや、一樹に関しては怒っていた、と言った方が正しい。自分が大事で信の行動の動機にまで頭が回らないらしい、もしくは、わかってはいるがありがた迷惑だとしか感じなかったらしい彼は、信に幼稚な嫌がらせをし始めた。見かねた章介が何度やめるように言っても聞かず、彼はいい加減愛想を尽かしかけていた。彼にはお職や道中にそれほどこだわる一樹が全く理解できなかった。多少年季が縮むとはいえ、仕事量や実入りはほとんど差し引きゼロかマイナスなのだ。位が上がれば上がるだけ借金も増えたかつての江戸吉原ほどではないが、やはり白銀楼でもたいしてトクする仕組みにはなっていないのだ。ただ得られるのは名声と称賛のみ――そんな称号や特権のために身を粉にして働く友人の気が知れなかった。
章介はため息をつきたいのをこらえて、腕を振った。羽の音と共にバドミントンのシャトルが宙を舞う。それは弧を描いて少し離れて立った一樹のもとに飛んで行った。再び羽の音がして、それがまた戻ってくる。章介はイライラしながら打ち返した。
すると、目の端にそばで見守っている信が映った。彼は、はた目にはほとんどわからないくらいに眉根を寄せて、苦しげに立っていた。わずかに開いた口で浅い呼吸を繰り返しているのがわかる。章介は次にシャトルが返ってきたところで、それを手でつかみ、片手を挙げて合図をした。
「疲れた。休憩させてくれ」
「えー。もうバテたのかよー。意外と体力ねぇなー、章」
章介は不満げにラケットをもてあそぶ一樹を横目に、信のところに言って低い声で話しかけた。
「平気か?」
「ごめん……平気じゃないかも……」
「そうか」
章介は頷くと、向こうで待つ一樹のところに近づいて行って言った。
「帰るぞ」
「えぇ~? 来たばっかじゃん」
口を尖らせる相手に、章介はそっけなく言った。
「信の体調が思わしくない。休ませないと」
「そもそもなんで来たんだよ、アイツ。ケツ痛いんなら休んでりゃいーのに。いい迷惑だな」
「っ……!……とにかく、おれは帰るから」
一樹のあまりの言いざまに胸ぐらをつかみ上げたくなるのを我慢して、章介はそれだけ言うとすでに間近に来ていた信の方を振り返り、再び相手に背を向けてしゃがんだ。
信は少し逡巡したのち、章介の背に覆いかぶさった。
「一樹、ごめん……」
「仲が良いこって。おれの方こそごめんなー、タイミング悪いときに誘っちゃって」
信の謝罪に一樹は皮肉を浴びせかけてその場を去っていった。章介はため息をついて立ち上がり、言った。
「もうあれに構うな。うんざりだ、いい加減。あんな人間だとは思わなかった」
しかし章介に負ぶわれ、疲れたように目を伏せている信はきっぱり言った。
「ダメ。それはダメだ」
「なぜだ? おれはもうあいつを友とは思えない」
「辛くて自分でもコントロールが利かないんだよ。……怖くて仕方ないから攻撃するんだ。たぶんお職うんぬんじゃない、今回のことはきっかけに過ぎないんじゃないかと思う。……この間章介が言ったように、たぶんずっと辛いんだよ……辛いけど辛いって言えなくて、泣けなくて、だから怒るしかないんだ」
ここで信は深刻な口調になった。
「章介、もしかしたら時間はあまり残されていないかもしれない」
章介は思わず横を見た。信はその視線を捕らえて続けた。
「感情の起伏が以前より激しくなったと思わないか? 突然興奮したり、落ち込んだり……仕事量は減ったはずなのに悪化している……もう一般人の手には負えないところまできているような気がする」
「医者か?」
信は首を振った。
「区内の精神科医は評判が良くないし、柿崎先生には専門外だと言われた。手詰まりだ。どうすればいい? どうすればいいと思う?」
「遣り手に頼んで外界(そと)の病院に通院させてもらうとか?」
「……それはリスクがあるな……病気がバレて棲み替えさせられたひとが何人もいるんだ。でも……それしかないかな? 少し考えてみるよ」
章介は頷き、呟くように言った。
「なかなかうまくいかないな」
そして信を背負い直し、白銀に向かって歩を進めた。
*
章介と信は結局、遣り手に内緒で一樹を玉東区内の病院に連れていくことにした。唯一の精神科医、柏木は患者を薬漬けにすることで有名だったが、とにかく何もしないよりはマシかと思ったのだ。しかし、一旦は方針を決めてホッとしたのもつかの間、ふたりの前に新たな関門が立ちはだかった――一樹だった。
「だーから、大丈夫だっつってんだろ」
部屋の中央に坐した一樹は、いい加減うんざりしたようにそう言い放った。しかし白く、もう何日も寝ていないようなくっきりしたクマのある顔で言われても説得力がなかった。
章介は、鏡を見てみろ、と言いたいのをぐっと堪えて辛抱強く説得を続けた。
「でも眠れないって言ってただろ? 行ってみれば少し楽になる薬を出してもらえるかも……」
「いや、眠れてる眠れてる。病院に行くほどじゃねぇよ」
「……眠れてるのか?」
自分でもわかるほど疑わしげな口調だった。すると一樹は苛立ったように返した。
「何回も言ってんだろ、平気だって」
「食事は……」
「あー、ダイエット中だよ」
一樹はそう言うなり立ち上がった。
「トイレ行ってくるわ」
しかし行き先がそこでないのは明白だった。章介は同じように立ち上がり、言った。
「逃げるな」
すると一樹は振り返って章介を睨みつけた。
「何だって?」
「逃げるな、と言っている。いい加減腹括って自分と向き合え」
「余計なお世話だ。毎度毎度付きまとってきやがって……どうせ今日も信に言われてきたんだろ?」
そう吐き捨てるように言った一樹に、章介は気色ばんだ。
「おれたちがどんな思いで言っているのかもわからないのか!?」
「〝おれたち″、ねぇ……なあ、前からずっと聞きたかったんだけど……お前ら、デキてるよな? だからおれのことが邪魔になって色々してくんだろ? もう放っといてくれよ」
章介はいったい何を言われたのかわからず混乱した。
「いったい何の話をしてるんだ……?」
「よくある話じゃん、親友3人のうちふたりがくっついちゃって残りのひとりと気まずくなるとか。でも嫌がらせとか酷くねぇ? おれも受け入れるから、もう構わないでくれよ」
「一樹……まずおれたちは、そういう関係ではない。そして、嫌がらせをしようと思っているわけでもない。ただ心配なんだ……心配だから病院に行ってほしいんだ……」
これで伝わらなければもう何を言っても伝わらないな、と思いながら、章介は真剣な声音で言った。しかし一樹は章介を鼻で笑った。
「心配? お前が心配なのは信だろ?」
「一樹のことも心配している」
「どうだか。お前、ずっとおれのことキライだっただろ?」
そのことばに、章介は驚いて暫時ことばを紡げなくなった。そして部屋の扉を背に好戦的に自分を見上げてくる一樹の目に怯えがちらついているのを認めて、章介は息を呑んだ。信が言っていた〝一樹は怖がっている″ということばの意味をやっと理解したからだ。そうだ、一樹はずっと怖かったのだ。ひとに受け入れてもらえないことが、ひとに突き放されることが――この道化の仮面をかぶった友人の本当の姿は親の顔色を窺っている子供だったのだ。怒りの波が、速やかに引いていった。
章介は一樹に一歩近づき、その両肩をつかんだ。
「そんなふうに思ったことなどただの一度もない。一樹は、おれの大切な友人だ。それは、何があっても変わらない」
手負いの獣のように荒み、敵意を孕んだ瞳から険が取れてゆく。
「一樹はいつもおれたちの中心だった……忘れたのか? いつもおれたちを引っ張って、外に連れ出してくれたじゃないか。おれは……ずっと一樹のその行動力とか社交性があるところをうらやましく思っていた……おれにはないから……たぶん、信もそうだっただろう……信は何度も、おれたちには一樹が必要だと言ってきたし、おれも全く同感だ」
章介は唇を舐め、仕上げにかかった。
「一樹、信じてくれ、おれと信を……戻ってきてくれ。信がやったことも、一樹を思ってのことだ……決して傷つけようと思ってしたわけじゃない……付き合いが長いんだから、わかるだろう?」
「章、おれ……」
そのとき、一樹を覆っていた堅い防護壁が砕け散った音を、章介は聞いたような気がした。
「大丈夫だ、何とかしてやるから」
章介は涙で盛り上がった目で自分を見つめる一樹を抱き寄せた。
「何とかするから」
「おれ……ごめん……」
まるで女のように脆そうで小さな身体を、章介はそっと包み込んだ。一樹は泣きながら笑って言った。
「信の抱きつきグセが伝染(うつ)ったな」
その後すぐに、その場にいなかった信とも和解を果たした一樹はふたりの勧めに従って病院に通い出した。柏木の悪評を散々聞いていた章介は初め一樹の身を案じて部屋に日参していた。一樹に下った診断はうつ病だった。それで抗うつ薬の副作用に自殺願望が強くなる、というのがあるということを調べて知った章介は一樹から目を離すのが怖くて夜も頻繁に相手の部屋に泊まったりしていたのだが、その過程で一樹と今まで以上に腹を割った話ができたのは思わぬ副産物だった。
やがてひと月が経つ頃になると一樹は落ち着いてきて、それほど頻繁に通わなくてもよくなった。また、一樹は信との関係性も完全に修復し、相手に嫌味を言うことも、無視することもなくなり、また昔のように話すようになった。章介は心底ホッとして、無口で人に気を遣わぬ人間に戻った。連れだって歩くときは一樹がまた中央で、ふたりにあれやこれやちょっかいをかけるようになった。一樹はまた、療養のために客の数を制限することにも同意したので、ここで信が多くの客を取る必要もなくなった――はずだった。しかし現実にはそうはいかず、だいぶ前から一樹の異変に感づいていたらしい小竹が、一樹を白銀楼に留め置き、通院と客数の制限を許す代わりに信がお職を張り通すことを条件として提示してきたので、信は元のように気楽に生活できなくなった。
信は、この内々の契約を一樹から隠し通したため、彼は若干不審に思ったようだったが、自分の過去の行状を反省したのかそれについて口にすることはなかった。一樹の症状は寛解し、顔色もよくなった。章介と信は心底安堵し、親友を取り戻せた喜びを分かち合った。
そうやって試練を乗り越え、再び団結した3人に再び試練が訪れたのは、それから1年半後――一樹と信が傾城として3年目を終えようとしていた冬のある日のことだった。
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