信よりも一樹を何とかしなければ、と思いつつも何もできずに時は経って、やがて回復した信は仕事を始めた。予想通り、半年がたつ頃には一樹はお職争いに参戦するようになっていた。しかし、同じく有望視されていた信の方は、タイトルに何の意味も見出せずに意図的に馴染みを作らないようにしていたため、いつも下の上くらいの成績で、トップ争いの蚊帳の外だった。
それでもふたりは変わらずに付き合っていた。たまたま休日がかぶっていた月曜は、章介も入れて3人で過ごすのがこの頃の慣例となっていた。昔よりおとなび、時折寂しげな目をするようになったふたりと距離間を感じなかったといったらウソになるが、ふたりは変わらず接してくれたし、章介もそうするよう努めていた。月曜日は唯一、3人が昔に戻れる日だった。
その日も3人は一緒に過ごしていた。この日は一樹の提案で映画を観に行くことになっていたので――というより、外に出るときはたいてい一樹の提案なのだが――章介はチノパンに黒のトレンチコートをはおり、手ぶらでふたりと合流し、関係者専用の裏口から妓楼を出た。先週、映画のチケット代を賭けてオセロの総当たり戦をやり、勝っていたからだ。負けたのは言いだしっぺの一樹だった。彼はトレーナーに灰色のズボン姿でそのことについてブーブー言いながら歩いていた。そしてその右にはマイペースに散策を楽しんでいる信、左には自分のいつもの並び――このとき、3人の中心は一樹だった。
「だいたい不利なんだよなー、おれ。ふたりは小さい頃からショーギとかの手ほどき受けてんだからさ」
「賭けようって言ったのは君だろ」
信のことばに、一樹は口をとがらせた。
「言ったけどさあー、何もアソコまでコテンパンにしてくれなくても………少し弱者に対する温情ってモンがあっても―――ん?」
そのとき、何かに気付いたらしい一樹が声をあげた。目線を追うと、大門から北に向かって玉東を東西に分断する大通りの向こう側、ちょうど章介たちが向かおうとしていた南西地区への通り道で中年男性が立ち話をしていた。どこかで見たことがあるような、と思いながら横のふたりを見やると、信が露骨に眉をしかめていた。
「迂回しよう。客だ」
「だな」
そう言って踵を返しかけたそのとき、相手がこちらを見た。バッチリ目が合ってさすがに無視できなくなったらしいふたりは、相手に向かって歩き出した。
骨董品屋の前にいたその赤ら顔の男は、ふたりに気付いてニヤニヤ笑った。〝ニコニコ″ではなかった、と章介は思った。
「やあ」
「こんにちは。本日も良いお日和で」
笑みを浮かべて深々とお辞儀をした一樹に、彼の客なのだとわかる。
「そーゆー格好も新鮮だね。一瞬わからなかった。………今日は休み?」
「はい」
「そうか。月曜だもんな。残念だ、月曜は必ずこちらに来る用事があるのに………前から言っているだろう?」
「申し訳ございません」
「謝るワリに便宜図ってくれないじゃないか」
さして怒っているようすでもなかったがネチネチしていてイヤな感じだった。
「なにぶん、他の妓との兼ね合いがありますので……すみません」
「まあ、しょうがないか……土曜日は、とても楽しかったよ。今週もまた行くから」
相手はそう言って一樹の頬をスッと撫でた。そしてそのまま指を唇にもってゆき、なぞり始める。章介は耐えがたい嫌悪感に全身から汗が噴き出すのを感じながら、止めるべきかどうか悩んでいた。一樹はじっとしてされるがままになっていたが、そのとき、信がいきなり相手の手の甲をつねった。
「イタッ!」
「お客さま、困ります。こういったことは妓楼(なか)でやって頂きませんと、私たちの立場がありません」
極上の笑顔で相手を凄む信に、章介は息を呑んだ。これが客あしらいってヤツなのだろうか、と友人を庇った信を見る。
「わ、悪かったよ。かわいくてつい………じゃ、また今度」
「お気を付けて」
逃げるようにそそくさと去っていった相手を見送ってから、一樹が口笛を吹いて、笑みを消した信にむかって言った。
「サンキュ、王子様」
「ったく、何いいようにされてんだ?」
「や、いつもは止めるんだけど」
そこで一樹はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「お前ら、どう反応するかなーって思って」
「悪趣味だ」
「まー。結果的には白馬の王子様が助けてくれたワケだ。ありがとうございますぅ。わたし、惚れちゃいますぅ」
信は憮然とした顔で一樹の足を蹴りつけると、章介の隣に移動して、置いていこう、と言って歩き出した。
「あっ、待って! 酷いよー! 信ってば!」
後ろから追いすがってくる一樹を完全に無視して、信は言った。
「映画、何時だからだった?」
「11時………10分だな」
「食べるにはちょっと時間が足りないかな。何か買い物ある?」
「いや」
「本屋でも行くか?」
「だな。じゃあそこ曲がった方早いな」
そのとき、一樹が追いついて来て、ふたりの肩に腕を回した。
「ちょっとーふたりとも、冷たいんじゃないのー? ゴメンって! 謝るから置いてかないでっ!」
「私はああいう類の悪ふざけは大嫌いなんだ。前に言ったよな?」
「だから悪かったって!もうしないからっ」
するとさすがにかわいそうに思ったのか、信は目から怒りの色を消した。
「映画まで少しあるから本屋行かないかって話してたんだが」
「お、いーねー。マンガ大人買いしたかったんだよなー」
「地の文を読まないとバカになるぞ」
信のことばに、一樹が言い返す。
「ソコは画で表現されてるからいーの」
「画じゃ限界がある。登場人物の心理を正確に把握するには本を読む必要がある。絶対だ」
「そんな気合い入れて読むモンじゃないだろ? 娯楽なんだから――」
ふたりのやり取りに、章介はまた始まった、と呟いた。
「え、何が?」
聞き返してきた一樹に、章介は少し間を取ったのち、意を決して聞いた。
「これは真剣に聞くんだが………そして偏見はないつもりだから正直に答えて欲しいんだが………実は、その、交際したり、してないよな?」
「「ハ?」」
ふたりの声が見事にハモった。目を点にして章介を凝視している。
「ナニ言ってんの?ナイナイ。おれが信と? ありえねー」
「ない」
「第一おれ女の子しかそーゆー対象じゃないから。信もそーだろ?」
「……たぶんな」
このようすではありえなさそうだな、と少しホッとしながら章介は謝った。
「ヘンなことを聞いて悪かった………いや、ふたりがあまりにも……何というか、」
「気合ってる?」
「ああ……だから少し……もしそうだったら邪魔をしては申し訳ないと……」
ぼそぼそと言うと、一樹が破顔した。
「信とは気ィ合うけど、それだけだよ。な?」
信も頷いた。
「ああ。………それに、章介と一樹だって相当ベタベタしてるだろ。まあ正確には一樹が章介を一方的に襲ってるワケだが……前に聞かれたことあったぞ、ふたりが付き合ってるかどうか」
今度は章介が絶句する番だった。
「まー結論としてはだな、おれら三人は親友ってワケだよ。三銃士みたいにふかーい絆で結ばれてさ」
信が笑い、三銃士ね、と言った。
「信はアトスな」
「一樹は絶対にポルトスだな。で、章介は神学者のアラミスか……ちょっと違うような気もするが……」
「なっ? 章介、わかった?」
「………だいたいはわかった。安心した。しかしもし―――」
章介のことばを遮って一樹が言った。
「だからもし、はねーって!」
「絶対にないから安心しろ」
信も強く同意する。章介は奇妙な安心感を覚えながら、黙って頷いた。
3人は映画館の斜向かいにある本屋をブラついたあと、映画館に入った。長い髪を曝している信と一樹は受付係に蔑むような目で見られていたが、まったく気にしていないようだった。
ふたりは――というより信がそういうのをまったく気にしないのだ。女装姿で街に出ても平然としているし、髪を隠したのを見たこともない。一樹の方も信に感化されて、気にしなくなったらしかった。章介はイマイチこの友人が繊細なのか図太いのかわからずにいた。
シアター内はガラガラだった。3人は真ん中の中央より少し後ろの特等席に腰を下ろすと、映画が始まるのを待った。信は、自分の横でポップコーンを食べまくる一樹を呆れたように見て言った。
「昼ごはんが入らなくなるぞ」
「や、おれ新陳代謝スゲー良いからだいじょうぶ。すぐ腹減るから」
「………確かに、いつも何か食べてるわりには太らないな」
章介が同意すると、一樹が自慢げに言った。
「人生で太ったこと1回もねーんだよ。羨ましーだろ?」
「………食費がかかる」
「私も思った」
「何だよもー、水差すよーなこと言って。ふたりのいじわる!」
「事実を指摘しただけなんだが………」
「あ、そろそろ始まるぞ。始まったらもう少し静かに食べてくれ」
信のことばに、一樹が鼻を鳴らす。
「ハイハイ、お母さん」
そうこうしているうちに主人公が現れた。彼女は、捨て犬らしき子犬を抱えていた。
章介はそうして、少女が苦難を乗り越えて犬を保護し、共に成長し、そしてその死を看取るさまを眺めた。ありきたりだな、と思ってあくびをかみ殺していると、隣から鼻をすする音が聞こえてきた。横目で確認すると、一樹が号泣していた。その上、嗚咽を漏らしている。
思わず顔を向けると、向こう側にいた信と目が合った。相手もやはり驚いたように目を見開いて固まっていた。こんな陳腐なストーリーで号泣するなんて、一樹はいったいどうしたのか。犬を飼った経験はないはずだし、そういうたぐいの映画ならもっと残酷でやるせないストーリーのを以前に見た。一樹はそのとき、涙ひとつこぼさなかった。逆に信の方が泣いていたくらいだ。
たまたまにツボにハマったのか? もしくは―――。
そこで章介は自分がこれまで見落としてきた日常生活における一樹の些細な変化を不意に思い出した。よくぼんやりするようになり、朝、遅刻しがちになった。夜眠れない、と言っていたこともあったし、厨房から食べ物をくすねることもなくなった。前より外に出たがらなくなり、細かいミスが増え、感情を表に出さなくなり、口数が減った―――。
何かがおかしかった。一樹の中で確実に何かが、悪い方へと変化していた。そこで章介は自分の当初の懸念を思い出した――一樹が実は、水揚げをうまく処理できていなかったのではないか、虚勢を張っていたのではないか、という懸念を。
自分のティッシュが底をついたらしい相手にティッシュとハンカチを差し出しながら、章介は、今がかなりのっぴきならない状況である可能性に思い至って息を呑んだ。何とかしなければ一樹は早晩まずいことになるだろう。章介はため息をつき、今すぐに対処しなければ、しかしもう手遅れかもしれない、と暗く思った。
*
章介はその日、帰楼して信と夕食を摂るとすぐに信の部屋に向かった。彼は部屋に着くなり茶を淹れ、章介に出した。
淹れてもらったほうじ茶を一口飲んでから、章介は切り出した。
「今日の一樹、どう思った?」
「変だった。まるで感情を制御できないような泣き方をしていた。放置するべきじゃないと思う」
「同感だ。実は他にも気になったことがあって―――」
そして、最近の一樹の言動に言及すると、信は頷いて眉根を寄せた。
「私も何となく感じてはいたんだ……どうする?」
「とりあえず話がしたい……夜にでも部屋に行かないか?」
一樹は帰り着くなり先輩傾城の着物選びの手伝いに行ってしまったので、今、信の部屋にはふたりしかいなかった。そこが続き部屋さえない8畳間の客取り部屋だったので章介はいつものように気まずい思いをしながら、茶をしきりに啜った。
このとき白銀楼で最下級の〝部屋持ち″であった信には、二間ある本部屋も、本部屋とは別の居室も与えられていなかった。彼に与えられたのは北側の日当たりが悪くその上せまっ苦しい部屋ひとつだった。開楼時間の午後5時から、酷いときには明け方まで隣の住人とその客の理性のカケラもない声が聞こえてくるような部屋で、友人は日々を過ごしていた。
信は自分も湯呑みを傾けてから頷いた。
「早い方がいいな」
「ああ」
「たぶん、過労じゃないかと思う。働きすぎだよな、一樹は」
「………だな」
章介はそうは思わなかったが特に反論しなかった。それでも彼の表情からその思いを汲み取ったらしい信は聞き返した。
「それだけが理由じゃないのかな?」
「…………個人的には……最初からずっと無理してきたんじゃないかと思う……」
長い沈黙の末にそう意見を表明した章介に、信は少し驚いたように目を見張った。
「最初って……一本立ちのときから?」
「ああ。………あのとき一樹はまったく弱音を吐かなかった。そうじゃないか? それとも信には何か言っていたか?」
すると相手は首を振った。
「実は前々から気になってはいたんだ……だが、どうすればよいかわからなくて……弱みを見せられないタイプだろう、あれは」
章介のことばに、信は憂うように虚空を見つめた。
「そうだな……たぶん私がその機会を奪ってしまったのだろうな……」
「どういうことだ?」
章介が聞くと、信は自嘲するように笑った。
「一本立ちのとき、泣いてわめいて熱を出しただろう? たぶんそれで一樹は弱音を吐くに吐けなくなったんだよ。皆が私で手一杯だったから。……一樹は自負心がわりと強いだろう? だからあのときがたぶん、弱音を吐く唯一の機会だった。誰にとっても辛く、耐えがたいものだという共通認識がある〝水揚げ″が。だができなかった。私のせいで」
「そんなふうに考えるんじゃない……信のせいじゃない。あのときは信だって大変だったんだ」
すると信は表情を和らげて章介に視線を戻した。
「章介は優しいな。あんまりそばにいるとダメになりそうだ」
「事実を言ったまでだ。自分を責めるな。たぶん、だいじょうぶだよ。信の言うように過労で精神的にも余裕がなくなっただけだろう」
章介の慰めのことばに、信は笑っただけで答えなかった。ふたりは静まり返った室内で黙って茶を啜り続けた。
- 関連記事
-