「もうっ、何で起こしてくれなかったんだよー!?」
翌昼、座敷の片付けで章介と再会した一樹は開口一番文句を言ってきた。
「――時計がなかった」
「ハァ?! あるっつーの!……もーおれあのあと散々だったんだよー! 片付けと掃除に遅れて環さんに大目玉食らってさ……1週間トイレ掃除! しかも1階北のユーレイ出るってトイレ! お前のせいだぞ!」
「……すまなかった」
章介はほうきを動かす手を止めて謝った。
「一緒にやるから許してくれ」
「うっ……ま、まァいーけど……」
一樹はなぜか少し怯んだように言った。
「あ、それから部屋付きの件は通りそうだってよ。何せ環さんは売れっ妓だからなぁ。発言権がある」
そのことばに、章介はなるほど、と納得した。一樹が売れたいと言っていたのにはこういう訳があったのだ。売れれば廓内での地位が向上し、権力を手にできるから、目指しているワケだ。
「でも顔色だいぶ良くなったみたいでよかったよ。これからは環さんがいろいろ伝授してくれるから、客あしらいもバッチリに――」
「コラッ、椿! 与太話してないで手ェ動かせっ!」
まさにウワサをすれば影、だった。桃色地に蝶や花があしらわれた、控えめだが質の良い着物を身に纏った青年が、座敷の入口のところに腕組みをして仁王立ちをし、こちらをにらんでいた。彼は有間環――白銀楼の若手の傾城だった。
「ゲッ! じゃあ、あとでなっ!」
そう言ってそそくさと窓の方に逃げてゆく一樹に、昨日の今日でサボるたぁいい度胸してンじゃねえか、と叫んでから、有間は章介の方に目を向けた。そして近付いて来て、章介をまじまじと観察した。
「あっ、紅妃か? 先週入ってきたっていう」
章介が頷くと、有間は続けた。
「おれんトコ来たいんだって? 結構スパルタだけど、ヘーキか?」
「ハイ」
「そう。んじゃ決まりな。おれの部屋は408だから今日から来て。あ、居住区の方な?」
有間の言う〝居住区″とは、妓楼の西側区域一体のことで、3階から上のこの区域が傾城、新造、禿の居住スペースとなっていたのでこう呼ばれていた。ここには十五弱の傾城の私室、そして禿、新造にそれぞれ大部屋が一室ずつあった。つまり、傾城の半分は客取り部屋で起居せねばならないということだ。部屋の割り当ては冷酷に月の番付によって決められ、妓楼に〝貢献″できなかったとされる色子たちは冷遇されるシステムらしかった。
部屋をもらえないのでは休日でも気が休まらないな、と暗く思いつつ、章介は目の前の男が着ている着物を眺めた。十七年間生きてきて一度も和服というものに触れたことも、身近でひとが着ているのを見たこともない彼はそれが何と呼ばれるものなのかもわからなかった。すると、章介の視線に気づいたらしい有間が笑って言った。
「気になるか? こういうふうに全体で一枚の絵みたいになってるのを絵羽模様って言うんだ。見てみ、柄が途切れてないだろ?」
そう裾の方を指し示して一回転してみせた相手に、章介は頷いた。確かに裾にあしらわれた、天に向かって飛翔してゆく蝶とその周りを彩る花々は全体で一つの柄のようになっていた。
「高っ価(たっか)いんだぜぇ、コレ。だから買いたくなかったんだけどさぁ、涼さんに昼三にもなって自前の留め袖の一枚もないとは何事か、とかお説教食らっちゃってさあ、奮発したワケ」
「〝昼三″……?」
聞いたような気はするが何を意味しているのか全くわからない単語に首を傾げると、相手は懇切丁寧に説明してくれた。
「〝昼三″ってのは、傾城の位のこと。まァだいたいどのくらい売り上げたかに応じて決まるんだけど、〝昼三″は上から二番目なの、ココでは。最高位が〝新造付き呼び出し″っつって、今でいうと招月さんとか桜さんとかかな。で、昼三の下が付廻っつって、ここからは自分の部屋がもらえないゾーン。最後は部屋持ち。あんまり長いコトここで低迷してると売っ払われるから、通称〝棲み替え待ち″。ココは危険ゾーンだから気を付けろよ」
「ハイ……」
「まァ見た感じだいじょうぶそうだけどなぁ。イケメンだし、いいカラダしてるし。多少口下手でも通りそうっつーか、無口な方がウケそうな感じだな、お前は」
有間がそう言って不意に章介の胸を触ってきたので、彼は驚いて飛びのいた。
「あぁ、ゴメンゴメン。こんな商売してっと慎みがなくなっちゃってな。よし、じゃあいいか。何か質問は?」
「あの、何時頃行けば……」
章介は相手がそれ以上深追いしてこなかったのを心底ありがたく思いつつ、ぼそぼそと聞いた。
「3時半頃で。見世開くの5時だから支度手伝ってもらう」
「わかりました」
「……昨日、ゲロったんだって?」
章介は今更ながら自分のヤワさが恥ずかしくなってきて、うつむいた。また心拍数が速くなる。しかし環は一切章介を責めなかった。
「入って一週間のド新人を名代にあげるなんて信じらんねー。ちゃんと言っといてやるからな? 触られたか?」
章介は首を横に振った。ことばくらいであんなにショックを受けた自分が心底恥ずかしかった。他の人たちは、平気なのに……。
「だよなア。お前、コワモテだもん。ゴツいし、ラッキーだったな、そのカオで」
そう言うと、環はニカッと笑った。女と見まごうばかりの面が崩れ、ひとの良さが滲み出てくる。
「お前に手エ出すのはマジ勇気いるよ。たぶん、だいじょうぶ。今後も触られはしない。言われはすっかもしんねーけど。……おれなんかさあ、こんなカオだろ?もーお触りし放題よ。今思えばタダで触らせるなんてもったいねーことしてたけどな。……じゃ、一樹の監視頼むな。サボったら即報告」
そして環は振り向き、声を張り上げた。
「聞いてたか椿! サボんなよ!」
「わかってます! ちゃんとやりますって!」
「よし。じゃーまた明日」
有間はきっかり5秒間一樹を睨んでから章介に手を振って座敷を出ていった。
窓の方から戻ってきた一樹は心もちビクビクしながら廊下をチェックしてまた戻ってきた。
「フーッ、行った行った。じゃ、信のようすでも見にいくか」
そう言って出ていこうとした相手の肩に、章介は手を置いた。
「掃除、終わってないぞ」
「ヘ?」
「だから、掃除。終わらせろって言われたろ」
そう言って一樹が放っていこうとしたほうきを手に取ると、ぐい、と押しつけた。
「えーっ?章介も信タイプかよおーっ? まァ似てるとは思ったけどさあ」
「じゃあおれは向こう側から掃いてくるから」
情けない悲鳴を上げる相手に、章介はそう言うと、入り口から向かって左手側の奥の方からゴミを掃き始めた。章介は少し迷ったあと、仕方なさそうに反対側から掃き始めた。
章介は、やはり掃除は心が洗われるな、と思いながらひたすら無心で手を動かし続けた。
*
翌日から、有間付きの禿としての日々が始まった。章介を引き入れてくれた一樹、信との接点は必然的に増え、章だんだん彼らがどういった人物であるかがわかってきた。
章介が見たところ、一樹の方は同世代の者たちのリーダー的存在だった。社交的で明るく、ひとを惹きつけるオーラを放っていて、自分とは真逆だと思った。彼と知り合いでない者はこの楼内にいないように思われた。立ち回りもうまく、通常妬まれて何かと嫌がらせをされることになるはずの〝引っ込み禿″だったにもかかわらず、年上の傾城や新造たちに可愛がられていた。
対する信の方は物静かで読書を好み、集団の中に埋没していた。人数が足りないが、誰がいないのか思い出せない――そんなときはたいてい信が席を外しているのだった。賢い割には――信ははっきりとは口にしなかったが、小中高と名門私立校に通っていたらしいという話を人づてに聞いた――世渡りがヘタで、先輩たちにことあるごとにイビられていた。
章介はどちらかというと信といる方が気楽だったのでそうしていたが、そうすると必ずといっていいほど一樹が来てテンションMAXやってきて、ふたりをどこかへ連れてゆくのだった。
その日も章介は、手が空くと、信とふたり、禿の居室である〝桜の間″の隅の定位置に座り込んで、将棋を指していた。
「うーん……はい」
「あっ………」
章介が己の失策に気付いて声を上げると、信が笑った。
「待った、する?」
「………いい」
「いいのか? 後悔するぞ」
「いいって言ってるだろ。しつこい」
「まあいいけど?」
「そっちこそ飛車死んじゃってるじゃないか。こんな狭いトコに置くなんて、もったいない」
「そーゆー誰かさんはいつも飛車出し過ぎて泣きをみてるじゃないか」
「いいんだよ。飛車は飛ぶ車って書くだろう? 活用してナンボなんだよ」
次の一手を指した瞬間、後ろから誰かに覆いかぶさられて、章介はビクッとした。
「一樹……驚かせるな」
「もー何だよー、またふたりしておれを仲間外れにしてさっ!」
突撃してきたのはやはり一樹だった。彼は章介から身体を離すと、将棋盤の横に座り込んだ。
「んーどれどれ、歩を一コ出そうかな?」
そう言って勝手にコマを動かす一樹の手をバシッと叩いて信が言った。
「駒をタダでくれてやるつもりか。章介の味方なんだな?」
「うん。章の方がつえーし。おれ、長いモノには巻かれる主義だから」
「なるほど。厨房のおこぼれはもういらないと?」
普段見世の厨房で手伝いをしている信がそう言った途端、一樹が両手をついて平伏した。
「そんな殺生な~~~」
「私が折檻の危険を冒して流す品は不要だと?」
「申し訳ございません~~~~! ひらにーーー、ひらにぃ~~っ!」
「……夫婦漫才」
章介がボソリ、と呟くと、ふたりが動きを止めてこちらを凝視した。
「ああ、ついに章まで――」
「――白銀楼(ココ)に染まったな」
ふたりが憐れむような目を向けてきたので、腹が立って、章介は立ち上がった。
「あっ、章介、勝負は?」
信の問いにそっけなく、一樹とやれ、おれはちょっと出てくる、と返して歩き出すと、ふたりが慌てて追ってきた。
「章、ゴメンって。ジョーダンだよ。もうジャマしないから」
「章介、勝負はまだついていないぞ」
「なー、キゲン直せよ」
「悪かった。ただ、章介がああいうことを言うの、珍しかったから」
その信のことばに、章介は足を止めた。そして、前に回り込んで自分を見上げてくるふたりの友人の顔を順番に見て、呟くように言った。
「染まらざるを、えないだろ……染まらなきゃ、生きてけない」
そのことばに、ふたりはハッとしたように息を呑んだ。
「ああいうのが普通だって思い込まなきゃ、やってけないだろ。……ふたりとも、新造になるのがどういうことか、わかってるのか?〝その日″が近づくってことなんだぞ……それなのにヘラヘラしてて、おかしいよ……」
明日は、ふたりが新造になる日だった。
「なーに、それで不機嫌だったワケ? 心配、してくれてんだ?」
ふたりの新造出しは章介の想像をはるかに上回るスピードだった。
「だって……早すぎるだろ……一年でなんて……」
「あーそれな。どうも今年予想以上に身請け話が出て、上がだいぶ抜けるらしい。だからおれらもさっさと上げちゃえってことなんだろ」
「だいぶ人数減ったもんな」
信が頷くと、一樹が笑みを崩さずに章介の方をむいた。
「だからだいじょうぶだ、章。心配しなくてもすぐお前も新造になれっから。焦んなくてもヘーキだって」
「冗談でも……そういうことを言うな……」
章介は歯を食いしばって、その隙間から声を絞り出した。
「ゴメン………けど、どーこー言ってもしょーがねーじゃん? イヤですっつって取りやめてくれる世界じゃねーし」
「だけどっ………! イヤ、なんだよっ!」
章介はうつむいたまま絞り出すように言った。
「ふたりがっ、そういうふうにっ………! 絶対、イヤだ!」
「章介………」
沈黙の落ちた室内に、遠くからセミの鳴き声が聞こえてくる。運良く他に誰もいない部屋で三人は向き合って黙り込んだ。
しばらくしたあとで、口火を切ったのは信だった。
「章介、乗り越えような、一緒に。きっと3人なら、乗り越えられる。 “Unus pro omnibus, omnes pro uno”」
彼は手を差し出した。すると一樹は笑いつつ問う。
「何ソレ、呪文かなんか?」
「〝1人は皆のために、皆は1人のために″……『三銃士』だ」
「意外とロマンチストだよなぁ、信って」
一樹はそう言いながらもその手の上に自分の手を重ねた。
章介は涙を拭った。白銀楼に来てから初めて流した涙だった。
「だいじょうぶだって。たいしたことねーよ。……誰が最初に年季明けを迎えられるか、競争しよーぜ」
「一樹はまたそうやって………それじゃ章介が不利だろう。ホラ章介、手出して」
信が苦笑する。章介はふたりの落ち着きぶりに自分を襲っていたパニックの波が次第に引いてゆくのを感じた。彼は2人の手の上に片手をのせた。
「まあ競争うんぬんは置いておくとして………支え合っていこうな。誰も欠けることなく、ここから出られるように。辛いときは頼らせてもらうよ」
それでも、どんなに明るい見通しを語られても、章介はどうしても頷くことができなかった。彼には、ふたりが絶対に売れるであろうという予感があった。特に一樹の方は、トップ5%に食い込むようになることは間違いがなかった。左右対称に整った顔に、すらりとした肢体という恵まれた容姿に加え、話術が巧みで機転が利き、やる気もある。間違いなく〝お職″の器だった。廓側もそれがわかっているから彼の新造出しを早めたに違いなかった。
彼は――次世代の看板となるのだ。
本人もそれを望んでいて、妓楼側もそれを狙っているのだから本人たちにとっては問題ないのかもしれない。けれど、章介はどうしてもイヤだった。
友人が好きでもない、性愛の対象でもない男に、金のために組み敷かれることを喜べる人間がどこにいる? その人数が多いことを祝福できる人間がどこにいる?
章介はどうしても我慢ならなかった。ふたりが水揚げされる日を想像するだけでも身の毛がよだつ。自分がされるのを想像するより何倍も嫌悪感があった。
章介は泣きながら言った。
「一樹、トップなんて目指すなっ、そんなの、何の価値もないっ、お茶挽いてるって嘲笑(わら)われても、いいじゃないかっ、………頼むからっ……! イヤなんだよっ……お前が売れるなんて、絶対、イヤだっ………! 傾城にも、なって欲しくないっ………!」
自分の胸にすがりついて嗚咽を漏らす章介に、一樹は困ったように言った。
「ごめん、うんとは言えない。おれやっぱ、目指すモンがないとダメなひとだからさ」
「一樹………実は私も章介と同じ考えなんだ……目標が欲しいというのはわかるが、他の何かにできないのか? わかってると思うが、どんなに売れても私たちに入ってくるのは――」
「わかってる」
一樹は信のことばを遮って少し強い口調で言った。
「中間搾取の話だろ?知ってるよ。―――けど、おれ、この仕事向いてると思うんだよ。ひとと接するの好きだし、おしゃべりも好きだし。おれは……ここに来たことが間違いじゃなかったって思いたいんだ――人生の汚点にしたくない」
そう言い切った相手に、信はそうか、と頷き、口を閉じた。ただ、沈痛な面持ちで足元を見ていた。
章介は涙で滲む視界に映るふたりの友人の着ている、もうこの先一生着ないであろう淡い橙の着物――白銀楼の禿の制服――をずっと見つめていた。
*
ふたりが新造になると、章介との接点は急速に減った。環の部屋付きであることに変わりはないが、居室も、受ける授業も、スケジュールも別々になり、環の支度のときくらいしか顔を合わせなくなったからだ。
桃色の、新造の制服を纏ったふたりは日を追うごとに艶っぽく、美しくなったと言われ、やがてお職争いをすることになるのは間違いない、と囁かれるようになった。それでも中身の方はたいして変わらず、一樹は相変わらず明るいがお調子者で、信は本の虫だった。
章介は。ふたりが日一日と、〝その日″に近づいていることをできるだけ意識しないようにしながら、彼らとの時間を大事に過ごした。〝その日″が来れば何かが終わってしまうような気がして、何とか皆で逃げ出せないかと、そこまで考えたが結局実行には移せなかった。客という後ろ盾さえない3人の足抜けが成功する確率はほぼゼロに等しかったからだ。発覚すれば見せしめのために折檻の上、3人のうち1人ないし2人は河岸送りにされる。そんな危険は冒せなかった。
章介が自分の無力さを痛感している間に月日は流れ、やがてふたりは章介の読み通り最短で新造を卒業することになった。新造出しから一年足らずで水揚げが決まったのである。その頃新造になったばかりだった章介はショックを受けながらも、心のどこかでやはり、と思っていた。白銀楼は若い世代のエースを必要としている。それは誰から見ても明白で、ちょうどふたりが適任なのだった。
友人たちの運命を考えて眠れない日々が続き、食欲もなく、フラフラしていたある日――2人同時の水揚げ日を一週間後に控えた、3月末――のことだった。いつものように環の支度部屋へと出向いた章介は、中から友人ふたりの抑えた話し声がするのに気付いて扉の前で足を止めた。どうやらまだ部屋の主は到着していないようだった。
じっと耳を澄ませていると、真剣な声音でふたりがやりとりするのが聞こえた。
「………同じ日とは奇遇だよなあ」
「完全にセット扱いだな」
「ハハッ、確かに。これも縁だな。―――怖い?」
一樹の声だ。余裕たっぷりで笑いさえ含んでいるが、どこか張りつめているような気がした。
「怖くないわけないだろ? 最近吐き気がひどくて………」
「マジ?怖いんだ?意外。涼しいカオでサラッとこなしそうなのに」
「………怖くないのか?」
信が聞くと、一樹は何でもないように答えた。
「別にー。みんな通った道だし。目つぶってりゃ終わるだろ」
「そうか………やっぱり一樹はすごいな……私なんてもう……。耐えられるか自信がない」
すると、一樹が慌てたように言った。
「ちょっと、だいじょうぶかよ?泣くなよ?泣くなよ?」
一樹が焦るのも道理だと思った。普段冷静沈着、明鏡止水を体現したような〝あの″信が取り乱しているのだ。
「あっ、そうだ、いいこと教えてやる。客にバレずにほぐしとく方法。コレ環さんに聞いたんだけどさ。お前にも教えてやれって言われたから。こーやって小指をちょっとだけ入れて―――」
「角度は? 垂直?」
「うん。あんま斜めにすると広がるからこう………」
「………なるほど」
少し落ち着いたらしい信の声がした。
「あと、もう知ってるかもしれないが、背中に手回すとちょっとラクになるらしいぞ」
「あー、あのオッサンにか………ヤだな。………痛いよな?ゼッタイ」
「そりゃあ、本来挿入(いれ)るところじゃないんだから痛いだろ………また吐き気が………」
「ちょっ、こんなトコでゲロ吐くなよ? 環さんの部屋だぞっ?」
そこで章介はわざと足音を立てて、たった今到着したフリをし、扉をノックした。
「失礼します。紅妃です」
すると扉がガラッと開いて一樹が出てきた。ほとんどいつも通りの表情だった。
「あ、環さんまだだぜ? おれら、入って待ってたんだ」
「そうか………信、顔色が優れないようだが、だいじょうぶか?」
部屋の隅の方で腹のあたりを押さえて座り込んでいた信は青白い顔をゆがめて首を振った。
「いや、だいじょうぶじゃない………うっ……ちょっとトイレ行ってくる」
「あっ、信! ひとりでヘーキか?」
「だいじょうぶ!」
そう叫んで部屋を飛び出していった信を心配そうに見送ってから、一樹は肩をすくめた。
「体調、良くないのか?」
「ああ………そうみたい」
「………〝アレ″のせいか?」
舌がもつれてどうしてもそれを指すことばが言えない。
一樹は曖昧に頷いた。
「たぶんな」
章介が泣いたあの日以来、ふたりは彼に気を遣って、そういった話題に触れないよう気を回すようになっていた。その延長なのか、一樹ははっきりと明言しない。
章介はもどかしさを感じながら、聞いた。
「一樹は?」
「ヘ?」
相手が虚を突かれたような表情になる。
「一樹は、だいじょうぶなのか?」
「………ああ、ヘーキヘーキ。信ほど繊細じゃねーし」
「………そうか」
そう言われれば、頷くしかなかった。本人が助けを求めてくれなければ、どうしようもない。
一樹は片膝を立てて座った体勢で章介のことをまじまじと見た。
「………何か付いてるか?」
「いや? お揃いになったなーと思って」
一樹がそう言って互いの制服を指した。
「な、三人で写真でも撮らないか?」
「この格好で?」
「そ、記念にさ。おれと信はあと一週間でコレ、着られなくなるから」
章介は最初乗り気ではなかったが、このことばを聞いて頷いた。
しばらく部屋で待っていると、廊下ではち合わせたらしい環と信、それに環の禿たちが入ってきた。
「ワリィワリィ、遅くなって。ちょっと涼さんに捕まっちまってよ。………よーし、椿はだいじょうぶそうだな。問題は菊野か。………ちょっと、布団敷くの手伝って。コイツ今日はダメだわ。横にならせよう」
章介と一樹は即座に立ち上がって、一方は環が押し入れから布団を出すのを手伝い、もう一方は今にも倒れそうな信を支えにいった。
「休み取れるよう話つけてきたから。……菊野~~、だいじょうぶか~~?」
環は部屋の隅の空間に敷かれた布団にぐったり横になった信の枕元に座って、額に手を当てた。
「熱はないみたいだが、夜上がってくるかも………声もちょっとおかしいし、カゼっぽいな」
「マジっすか? おい信、しっかり……コイツ神経意外と細いから………」
「菊野~~、心配ないぞ~~、スグ終わるから。注射みたいなモンだ」
すると信は弱々しい声で言った。
「すみません……ご迷惑かけてしまって………早く、支度始めてください……今日は大切なお客さまが、いらっしゃるんですから………」
「余計な心配すんな。おれのことはいいから……ホラ、とりあえず水分とって」
環がそう言ってペットボトルを差し出すと、信は一樹に助けられてようやく身を起こし、それを口に含んだ。顔面蒼白で、ドラキュラみたいに血の気がなかった。手も震えている。
一樹はそのまま背中に手を回して信の体重を支えてやりながら、案じるような表情で友人を見ていた。
「無理………絶対無理…………!」
信は両腕で自分を抱きしめるようにしてうずくまり、絞り出すような声で言った。
環は一樹と顔を見合わせた。そして呟くように言った。
「無理でも、やんなきゃなんねーんだよ。傾城(おれ)たちは………」
遂に信が泣き出した。彼は環に縋りつくようにして叫んだ。
「何で私がっ………こんなことしなきゃっ、ないんですかっ……!? 前世でっ……悪いことしたからっ……?その罰、ですかっ?!…………神様っ、神様っ、答えてくださいよぉ~~~~ッ! 私がっ……!何をしたって、言うんですか………っ!?……神様ぁ~~~~~っ!!」
悲痛な絶叫に部屋の中の誰もが固まった。沈黙が落ちる。環は苦しげに眉根を寄せ、信を抱き寄せた。
「お前は悪くない。お前は悪くないよ」
信は嗚咽を漏らしながら、呟くように聖書を諳んじ始めた。
「『なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに』」
その絶望した両目からぽろぽろと涙がこぼれてゆく。章介は見ていられなくて目を逸らした。
「『あなたの心に隠しておられたことが今、わたしに分かりました。もし過ちを犯そうものならあなたはそのわたしに目をつけ、悪から清めてはくださらないのです。……わたしが頭をもたげようものならあなたは獅子のように襲いかかり、繰り返し、わたしを圧倒し…新たな苦役をわたしに課せられます。わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを。あたかも存在しなかったかのように、母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。』」
静まり返った室内に、信の嗚咽まじりの声だけが響いていた。
「『不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。私の名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように希望は根こそぎ奪われてしまった。……親族もわたしを見捨てた。……骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。
もはや、わたしは息も絶えんばかり。苦しみの日々がわたしを捕らえた。夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない。……わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった。
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。
人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか。わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。
わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。
どうか、わたしの言うことを聞いてください。』」
ここまで来ると信は項垂れ、口を閉じた。誰も、ことばを発する者はいなかった。ただ絶対的な絶望と闇がその空間を支配していた。
ふたりの水揚げは、残酷にも予定通り行われた。章介はふたりと顔を合わせる勇気がなく、その日から一週間ほど意図的に避けて過ごした。
一樹に捕まったのはちょうどその日から一週間が経過した、4月11日のことだった。
仕事が無いらしい相手は私服姿で――居住区内であれば、どんな格好も許されていた――章介の自室、すなわち新造用の部屋――を訪ねてきた。事情を察したらしい同室者たちが気を利かせて部屋から出ていってくれたために、章介は今最も会いたくない相手とふたり、居室に取り残されることになった。
「よっ、ひさしぶり」
「…………」
「何だよー、傾城サマが来たんだぞ? 茶菓子のひとつくらい出してくれねーの?」
勝手にテーブルの前の座布団にドカッと腰を下ろした相手とできるだけ距離をとりながら、章介はぼそっと、切らしてる、と答えた。
「じゃ買ってきて?」
「!?」
驚いて顔を上げると、相手がしてやったり、と笑った。
「冗談冗談。そんな横暴言いませんよ?」
「…………」
「あのー、耳、聞こえてる?」
章介は頷いた。すると、一樹が仕方なさそうに笑った。そうやって笑うと信とよく似るな、と以前から思っていた笑みだった。
「………信は?」
「あー………ちょっと寝込んでる。カゼ長引いちゃったみたいで。いーよなー、おれは毎日あくせく働いてんのにさ」
あくまで軽い調子で言った一樹の瞳の奥に陰りを見つけて、章介は信があまり良くない状態にあることを悟った。
「熱あるのか?」
「うん。八度五分くらい。朝は下がるんだけど夜がね。ここんとこずっと〝オアシス″にいるよ」
〝オアシス″というのは、柿崎という仏のような医師が常駐している医務室のことだ。
「……見舞いに行っても、だいじょうぶだと思うか?」
「うん。面謝だけど章ならダイジョーブだよ。お前のこと、気にしてたし」
「………おれを?」
一樹は頷いた。
「死ぬほど心配してるだろうって死ぬほど心配してた」
「…………」
「何なら今から行く? おれも今日まだだし」
頷いて立ち上がりかけ、章介はふと聞いた。
「一樹は………平気か?今」
「ウン。ゼンゼンヘーキ。思ったよりたいしたことなかったよ。案ずるより産むが易しってヤツだな」
章介は本心を見抜こうとじっと相手を観察したが、本当のことを言っているのかどうかはイマイチわからなかった。
「そうか………ならいいが………」
しかし〝ヘーキ″なはずがなかった。〝あの日″からまだ一週間だ。この世界では、最初のひと月が最もキツいと言われている。そこで思いつめて精神を病んだり、ひどいときには自殺をするケースが多いからだ。疲れの片鱗も見せない一樹に、章介は逆に違和感を覚えた。
彼は強がっているのではないか――実際にはものすごく苦しいのに、苦しんでいる友人を優先してそれを言わないのではないか――?
章介は不意に寒気を感じて身体を震わせた。たぶん、このままではいけない。放っておいたら恐ろしいことが起こる――悪い予感がした。
章介がどうしたものかと悶々としているうちにふたりは〝オアシス″に到着していた。ノックして中に入り、一番奥のカーテンが引かれたベッドに歩み寄る。一週間ぶりに見た友人の姿に、章介はことばを失った。
苦しげに浅く息をつく彼の顔は赤いのに真っ白で、顎の線が以前より鋭くなっていた。身体も、ひと回り小さくなったような気がする。
章介は、来客に気付いてうっすら目を開けた信の枕元に寄っていった。
「章介………来てくれたんだ」
相手は弱々しい笑みをうかべて、掠れた声で言った。
「遅くなってしまって悪かった」
「いーよ………どうせ最初の頃は寝てばっかだったし………一樹も悪いな、毎日。仕事ある日はいいって言ってるのに」
一樹はとなりの空きベッドのそばにあったイスを持ってきて、自分はそれに腰かけ、章介に枕元に元々あったイスに座るよう指示してから首を振った。
「まだそんな忙しくないし。あと、今日は休みだから」
「そうか………」
「熱が下がらないとか?」
章介が聞くと、信は頷いた。
「検査とか……一度病院に行った方がいいんじゃないか?」
「いや……疲れだって。ここのところ眠れていなかったから………まあ、あまり続きそうなら考えるとは言われてるけど――」
「そうか」
沈黙が落ちる。と、不意に一樹が立ち上がった。そして懐から銀色の四角い物体を取り出した。
「なー、皆で写真撮らねえ?」
「今?」
「そ。信の入院記念」
一樹が手に持ってブラブラさせていたのはデジカメだった。
「退院記念だよな?普通」
「ああ………」
章介と信は顔を見合わせて噴き出した。
「まーまー、細かいコトは気にせずにさ。章、ベッドのむこう側行って」
言われた通りにすると、一樹が寄って寄ってー、と言って、ベッドで身を起こした信に身を寄せた。章介はそれにならってできるだけ中央に寄り、カメラのレンズを見た。
「はい、笑って笑ってー。じゃ、いくよ。はい、チーズ!」
かけ声とともにフラッシュが光った。一樹がカメラを操作して、撮影した画像を確認する。
「何だよー、ピースしてんのおれだけじゃん。しかも章全然笑ってねーし。ダメ、もーいっかい! 全員笑顔でピース! 章、わかった?」
「………だいぶ前から表情筋が死んでるからムリだ」
「もー、しょーがないなー」
一樹はカメラをベッドに置くと、章介を手招いて、近付いてきた顔を捕まえ、両頬をつまんで上に引き上げた。
「ひゃ、ひゃにひゅるんひゃ!」
「ちゃんとできんじゃん。はい、このままキープして」
「ムリだ」
「自分の手でやんの!」
ビシッと言われて、章介は仕方なく自分の頬を手で持ち上げた。すると一樹は満足げに笑って、再びカメラを構えた。
「いくよー。はい、チーズ!」
今度の写真はお気に召したようだった。一樹はニコニコしながら、今度焼き増しして配る、と声高らかに宣言すると、隣のベッドにもぐりこんで寝てしまった。やはり疲れているのに違いなかった。
しばらくことばもなく座っていると、やがて信も寝息を立て始めた。先ほどせがまれてさし出した章介の手を握ったまま。
章介はぼんやり相手の寝顔を見つめながら、自分たちは何と遠くまで来てしまったのだろう、と思った。
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