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白銀楼物語~太陽の子~ 第16章 あっち側

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 着物が、目の前で揺れている。秋二は水戸黄門の紋処のようにそれを片手にじわじわ迫ってきた。
「ねえ、どうしてウソついたのかなー? いろんなひとからの贈り物を取ってあるとか、わざわざ言ったのかなー?」
「……環さんからもらったものは、たまたま干してたんだ、自宅で」
「靴下もかんざしも干すの?」
「………」
「いーかげん認めろよ。おれのこと好きだって。コレでオナニーとか、した?」
「ッ………!」
 薄く笑って追及してくる秋二に、信は息を呑んだ。
「おっ、図星? マジかぁ、想像するとコーフンするな」
「……やらされたんだ。それ以外では、してない。誓う」
「フーン。で、どーだった? イった?」
「誰だって刺激されたら達するだろう」
「コレは関係ないと?」
「……君、自分が何やってるかわかってるのか? これ、監禁だぞ? 私が訴えたら何年食らうと思う?……今なら警察には言わないでやるから、出してくれ……」
 どうしても、自分の気持ちを伝えることはできなかった。もし両想いだと知れば、相手は絶対に自分を放さない。畠山と刺し違えてでも守ろうとするであろうという予感があったからだ。
「ったく……信さんってさー、その口のうまさによって不幸になってるよね。もっと素直に、ストレートに自分を表現すれば諸々のゴタゴタは起きなかったのに。才能ってのも考えモンだな。時に人を不幸にしちまう……じゃ、しばらく休んで気を落ち着けて。夜にまた来るから」
「ふざけるなっ! 出せっ!」
 信はドアに飛びついて外に出た。この門番さえ突破すれば――。
 しかし門番の男がいるのとは反対方向に走り出そうとしたとき、後ろから首根っこをひっつかまれ、そのまま羽交い絞めにされて部屋の中にひきずり込まれた。そしてベッドに放られ、ふたりがかりで押さえつけられた上で、口に錠剤と水を流し込まれて鼻と口を手で塞がれる。明らかに飲んではいけない薬を飲みこむまいと目を見開いてジタバタ抵抗したが、息苦しさに負けて嚥下してしまった。それを確認すると、ふたりは信を解放した。チャンスだと思って身を起こした途端に秋二が覆いかぶさってきた。そして思いつめたような瞳でじっとこちらを見下ろしてくる相手の下でもがきつつ、信は叫んだ。
「放せっ……! 放してくれっ……!」
 その身体を自分の身体全体で、まるで抱きしめるように押さえ込んで、相手は信の耳元で言った。
「もうどこにも行かないで」
 そのことばに信は一瞬動きを止めたが、すぐに抵抗を再開した。
「秋二っ……! こんなことが許されるとっ、思ってるのかっ……!?」
 しかしどんなにもがいても相手の拘束は解けなかった。動いているうちに薬が回ってきたのか瞼が落ちてきて手足が動かなくなる。強烈な眠気に抗えず、信は目を閉じた。



 夢の中で、信は支度部屋にいた。今日もまた一日が始まる。鏡台の前で化粧を整えていると、廊下からハデな物音が聞こえてきた。いったい何事かとようすを見に出ると、自分に向かって突進してくるまだあどけない青年と、それを追いかける傾城の姿が見えた。
「廊下は走るなと言ってるだろうが! それから盗み食いをするなー!」
 饅頭片手に疾走してきた青年は、戸が開いているのをいいことに信の部屋へ転がり込んで、その背に隠れた。
「助けてくださあ~い。オニババが怒るんです」
「誰がオニババだ! 菊野、そこをどけろ!」
 鬼の形相でやってきたのは二歳年上の傾城、津田だった。
「まあまあ。まだ若いんだから」
「若いっつったって巷じゃ高校生だぞ!?……もう~~堪忍ならん! 来い、思い知らせてやる!」
 どうやら後ろに隠れているのは彼――津田秀隆の部屋付きの禿のようだった。入楼早々いろいろやらかして注目の的になっていたから名前は知っている――相澤秋二。源氏名は……確か立花だ。遠目から見たことはあるが、実際に顔を合わせて話すのはこれが初めてだった。
「私たちだってそうだったでしょう?」
 信が宥めるように言うと、津田は叫び返した。
「断じてコイツほどではない! それは言える! いろいろやったが!……コイツときたら仕事はサボるわ、勝手に建物中を徘徊するわ、座敷にホイホイ入ってくるわ、客にタメ口使うわ、白昼堂々厨房から食いモンくすねてくるわ……もうウンザリだ! 水揚げ間近の子の世話だってあるのに毎日毎日毎日……! もうほっぽってやるぞ!」
「そんなこと言わずに。良い目をしてるじゃないですか。長所を伸ばしてあげればよく育ちますよ、こういう子は」
「そんなに言うならお前がやってみろよ!」
「いいですよ」
「えっ?」
 驚いて素っ頓狂な声を上げた津田に、信は頷いてみせた。
「ちょうど最近ひとり手を離れたところだったので空きがあります。もし……秋二君、だっけ?…が良ければだけど」
 振り返ると、その青年――秋二――は饅頭片手に信の顔をじっと見てきた。
「あっ、もしかして菊野さんですか?」
「知ってるの?」
「ウン。後輩に優しいって評判だから」
 そのことばに、拗ねた津田が言う。
「優しくなくて悪かったなっ!」
「おれ、ココの子になる」
「そうか」
「いいのか菊野? 後悔しても知らねぇぞ?」
「するわけありません。素直で良い子そうですから。後悔するのはどちらか……」
「フンッ! もう知るか、勝手にしろッ! 報告はしておく!」
 そう言い捨てて憤然と去ってゆく先輩の後ろ姿に苦笑して眺めていると、不意に手を引っぱられた。
「ど、どうした?」
 派手な着物姿のままズルズル引きずられていったのは見世の外だった。そして大門の外、五百メートルほど向こうにある表通りの方を指さし、彼は声高らかに宣言した。
「いつか、連れてってやるよ、〝あっち側″に! マトモな世界に、一緒に戻ろーなっ!」
「そうか。楽しみにしているよ」
 信は相手の手の温もりに、遥か彼方のオフィス街を仰いだ。なぜかこの青年となら、どこにでも行けるような気がした。

                    *

 目を開けると、見覚えのない無機質な白い天井が目に入った。
「あ、起きた?」
 左側から記憶より少し低い声がして目を向けると、パーカー姿の男が自分を見つめていた。その右手は自分の左手に重ねられている。信はサッと手をひっこめた。
「あ、ごめん……」
 罪悪感を滲ませた顔で謝る相手に、今日の日付を聞く。
「十二月二十七日。暮れだよ。天気見るととてもそーは思えねえけどな」
「二十七……もう二日も?!」
 信はガバッと跳び起きた。途端に眩暈に襲われてこめかみを押さえる。
「信さんっ、ちゃんと横になってないとっ」
 相手が腰を浮かすのを横目に、信は自分が思いの外長い時間寝こけていたことにショックを受け、日数を計算した。秋二はここがニュージーランドだと言っていた。それが本当だとするならば、日本との時差は四時間ほどしかない……とすると、日本時間でも同様に――時計を見ると午前十一時少し前だから、見世から攫われたのが秋二の相手をしていた時間、二十五日の三時前後だったとすると、約四十時間――二日弱経過していることになる。
 帰らなければ、一刻も早く。早ければ早いだけいい。昨日は正攻法で失敗したから、今度は別の方法でいくべきだ――つまり、油断させて、隙をついて逃げる。あまり好きなやり方ではなかったが、秋二の命が懸かっている以上、もう四の五の言っていられなかった。
「お腹が空いたんだが」
 そう訴えると、秋二は少し表情を明るくして、ちょっと待って、持ってくるから、と言って部屋を出ていった。嵌め殺しの窓を見ながら、こういう部屋ばっかりだな、と思っていると、間もなく秋二がプレートにロールパンとスクランブルエッグとミネストローネスープとオレンジジュースとヨーグルトを載せてやってきた。そして窓際の、イスとセットになっている白いテーブルにそれらを置きながら、ゴメン、卵しょっぱくなっちゃった、と謝ってきた。
「味見してたらわかんなくなっちゃって。さ、どーぞ」
「そんなことしなくていい」
 イスを引いた相手にわずかに眉をひそめて、信は着席した。
「いただきます」
 信が食べ始めると、秋二は、テレビ見てくんね、と言って部屋のベッドと反対側にあるソファに腰掛け、壁際に置かれた薄型テレビのスイッチを入れた。案の定、英語だった。秋二はトークショーを見て声を上げて笑っている。
 そうか、秋二は自分とはまったく違う人生を歩んできたのだな、と思って、うれしくなる。おこがましい言い方かもしれないが、マトモな人生をプレゼントすることができたことが無性にうれしい。彼はこの先もきっと陽のもとを歩いてゆくだろう。
 窓の外に目を移すと、遠くに灯台が見えた。寄せては返す波の音が聞こえないのが残念だ。グラデーションがかった透き通った海が、涙が出るほど美しかった。ボンヤリしていると、番組がCМに切り替わったらしい。秋二がやってきて言った。
「アレ、まだ食ってたの? 口に合わなかった?」
「いや……そんなことない……ただ、胃がビックリして入っていかない」
 食べられたのはヨーグルトとスープ、スクランブルエッグ半分、そしてジュースだけだった。二日何も食べていないのだから当たり前だ。
「そっか……何か食べたいモノある?って言っても日本じゃないから調達できるかわかんねーけど」
「……特にない。……仕事は?」
 信はここで踏み込んだ問いを口にした。信と出会ってすぐに身軽にニュージーランドに飛んだり、軽く違法行為をしてその手配をしたりと、とても将来ある若手政治家の行動だとは思えないことの数々をやってのけているあたり、有力政治家の家に引き取られた相手がどうやら〝レール″から外れてしまっているらしいことは明らかだった。そうさせてしまったのは自分に違いなく、答えを聞くのが恐ろしかったが、それでも、その問答を避けて通ることはできなかった。
 秋二は向かいの席に腰を下ろすと、含みのある目つきで信を見てからゆっくりと、言葉を選ぶように言った。
「今は、会社員やってるよ」
「〝今は″?」
「うん」
 秋二は頷いた。
「昔は義両親(おや)の事務所手伝ったりしてたんだけど、仕事があんまり肌に合わなくてさ」
「事務所?」
「そ。あれ、知らなかった? おれが引き取られたの、議員さんとこだったんだよね。てっきり畠山が話したかと思ってたけど」
 相手はそう言って、量るように信の目を見つめてきた。あえて秋二の引き取られ先について知らないフリをしたことが裏目に出ただろうか、と内心後悔しつつ、信は首を振った。
「いや、そういう話は聞いていなかった」
「じゃあ何て言ってたの?おれの行き先について。まさか言わなかったなんてこと、ないよね? 信さんが簡単に引き下がるはずないし」
「……懇意にしていた経営者に引き渡した、とおっしゃっていた」
「へぇー、どこのひと?」
 食い下がってくる秋二に困り果てながら、信は苦し紛れに嘘を重ねた。
「神奈川だったかな……」
「だった〝かな″? 信さん、おれちょっと悲しいよ、信さんにとっておれってその程度の存在だったんだね……結構可愛がってもらってると思ってたのになあ……勘違いだったのかなあ……」
 ひとの言葉尻をしっかり捉えるようになった相手に、信は、彼がある時期までは議員になるために修行していたであろうことを確信した。ただの会社員に、こういう腹の探り合いはできない。
「ずいぶん昔のことで記憶が薄れてしまってね。申し訳ない」
「いいよ。確かにもうだいぶ経つもんねぇ。五年?六年?」
「六年だ。君はずいぶん雰囲気が変わったな」
 秋二は別れたときよりも一回り体格が良くなって背も伸びていた。少年らしさが完全に抜け切った、完成された大人の男として、相手は信の目の前に出現したのだ。
「あー、そうそう、じぃちゃんの血が濃く出たみたいで、あの後結構背伸びたんだよねぇ。昔の方がよかった?」
 秋二の祖父は白人だった。少し不安げに聞いてくる相手に、信は首を振った。
「いいや。どちらでも変わらない。秋二は秋二だ。再会したときは少し驚いたけれどね」
「よかったぁー」
 将来を約束されていたはずだが、途中ですべてをフイにした――自分のためにフイにしたに違いない男は、以前より少し鋭い印象になった顔をくしゃりと歪めて笑った。生きて再び見えることはないだろうと思っていた笑顔を前に、信は、自分の決意が揺らぎそうになるのを感じた。そこで、彼は急いで相手との間に再びバリアを張り、話題を変えた。
「今日、仕事は?」
「や、あるけど家でできるから。IT関係だからWi-Fiありゃどこでもできるし」
「そうか。英語も、できるんだな」
「まーね。結構ちゃんと留学してたし。実はこの辺の大学行ってたんだよ」
「………」
「あっ、ゴメン、こんなこと……信さんは……」
 沈黙を別の意味に取ったらしい秋二が慌てて謝ってくる。信は首を振った。
「違う。うれしいんだ。かわいい後輩が成長して」
「……信さん、何かヘン……何か企んでる?」
 少し性急過ぎたらしい。信はスロットルを戻した。
「帰りたいと言ってもどうせ出してくれないんだろう? それに……昨日は興奮していたから混乱していたけど、もしかしたら君の言うとおりなのかもしれない、と思いだしてな」
「言う通りって?」
「つまり……浩二さんはこんなトコロまで来れないってことだよ……」
 すると秋二はニコニコしながらサラッと爆弾を投下した。
「信さんが何言っても一年は出さないから」
「なんッ……?」
 秋二は両手で頬杖をついて信の顔を覗き込んだ。
「だいぶ騙されてますから。信さんの言うことは信用できませーん」
「ひと聞きが悪いことを言うな。私がいつ騙した?」
「そりゃー数えきれないけどーー、代表的なのを挙げるとすればー、一回目はおれの新造出しの時。笠原さんの相手務めるっつって時期延ばしてくれたんだよな? 当時は笠原さんのことも遣り手のことも口止めして教えてくれなかったけど、最近再会した笠原さんが時効だって全部話してくれたんだよ」
「ッ………!」
「二回目はー、信さんがおれの目の前でおっちゃんとセックスしたとき――。おれの水揚げに付き添うために賭けに乗ったんだって?」
「それはッ…ダマしたとかいうんじゃないだろ。ウソは言ってない」
「うん。でも真実も言わなかった。――それってさ、消極的なウソだと思うよ?」
 信は何も言い返せなかった。本人に直接事実関係を確かめられたのでは反論のしようがない。
「で、極めつけは三回目。おれに畠山からの身請け話持って来たとき。あのとき、おれが一緒に囲われることはないと知りながらそのフリをしたよね」
「違う。あのときは本当に知らなかった……」
「義父(オヤジ)から聞いたんだよ、畠山が最初はふたり請け出すつもりなんてなかったって言ってるのを聞いたって。じゃあ何でおれの話が決まったか? 信さんの身請けの交換条件以外に何があんの?」
「それは、売名のために……」
「あいつがあの時期チャリティーに参加した記録は一切ない。養子を取ったことも、寄付したことも、人権団体の後援に回ったことも無かった。どう?予習バッチリでしょ?」
 もう逃げられないな、と思って信は両手を上げた。
「……私の負けだ……認める。私は秋二のために浩二さまの話を受けた」
「おれを……白銀楼(アソコ)から解放するために?」
 秋二は息を呑んで真剣な瞳で問うてきた。信は首肯した。
「承諾すれば、何でもひとつだけ望みを叶えてくださるという約束だった……」
「そんなっ……!」
 秋二は悲痛な声を上げて拳を握りしめた。
「おれのっ、おれのためにっ、信さんの人生がっっ!!」
 秋二は派手な音を立てて椅子から立ち上がり、壁を拳でダンッと叩いた。何度も何度も、骨が砕けそうな勢いで打ち付ける。
「信さんの身体がっ! 大事なモンがっ! 全部おれのせいでっ!」
 信は慌てて立ち上がり、傍に行って赤くなった拳を両手で包みこんだ。
「手が傷付くだろう」
「ごめんッ! ごめんッ! 尻ぬぐいさせて、身代わりをさせてゴメンッ! こんなにも長い間助けに行けなくて、いや行かなくて、ゴメンッ! おれだけ良い人生送って、ゴメンッ!」
 秋二は涙を浮かべ、肩を震わせながら叫んだ。
「何で秋二が謝るんだ。私が勝手にやったことだ、責任を感じる必要なんてこれっぽっちも無い」
 なだめるように肩をポンポン、と叩くと、秋二が抱きついてきた。しかし身体の傷に障らぬようにあくまで包むだけの抱擁だった。
 しばらく互いの温もりを味わったあとに、秋二は身体を引き離し、信の両肩を持って相手を見つめ、静かに聞いた。
「信さん、おれ、信さんのことが好きだ。大好きなんだ、ずっと……! 信さんは?……おれのこと、好き?」
 どうやら観念するしかなさそうだった。信は頷いて、私も好きだ、と返した。その途端、秋二の顔がみるみる歪み、泣き笑いのような表情になる。彼は言った。
「キス、してもいい?」
「ああ」
 ゆっくりと、ふたりの顔が近づいてゆく。互いに右に首を傾け、唇を触れ合わせた。さすがに歯は当たってこないな、と思いながら、触れるだけのキスをした。かつてあんなにも遠かった場所が今、手の中にあった。
秋二はそのまま肌を合わせようとしたが信が押しとどめた。秋二は病気の心配なんて今はいい、と言ったが、この一回で取り返しのつかない事態になったら困ると思った信はきっぱり、検査結果が出るまではそういう行為はしない、と宣言した。 
 秋二は名残惜し気な表情でしばし黙考していたが、最終的には信に従って引き下がった。

 翌日は出勤日のようで、朝、仕事に行く前に朝食と共に昼・夜は冷蔵庫の中のモノを食べるよう指示されたメモが届けられた。そのとき、信はまだ眠っていたので秋二と顔を合わせることはなかった。
 冷蔵庫にはフルーツやヨーグルトなど、食べやすいモノから惣菜やサラダ、そして近くの木の戸棚にはパンとレトルトご飯やカップ麺や菓子類が詰め込まれていた。相変わらずやたらポテトチップスとチョコレート菓子が多いことに笑い声を漏らし、自分が自然に笑えるようになっていることに驚く。ここに来てからたった三日でマヒしていた心がこれほど再生するとは思わなかったからだ。
 元の世界に戻る前に、少しでも人間らしい情緒を取り戻したい、と望んでいるあさましい自分に、信は失笑した。ここで順応したら、向こうで耐えられなくなるという確信があった。信は首を振って感情を抑制し、戸棚を閉じた。

 朝食を食べると、信は再び眠りに落ちた。ここ最近過酷な生活が続いていたせいで疲れ切っていたらしい。次に目が覚めたときにはすでに夕方だった。信は起き出して日が暮れゆくのを満ち足りた気持ちで眺めてから、空腹を癒すために夕食を摂った。箸と容器を片付けてリビングに戻る頃、辺りは本格的に暗くなり始めていた。ひとの気配がまったくしない海岸の向こうの灯台に明かりが灯り、船舶に居場所を主張し出す。窓際のイスに座ってしばらくそれをボンヤリ眺めていると、不意に扉の解錠音がした。
「はー、ただいまー」
「お疲れさまです」
 信はいつものクセで入ってきた相手を出迎えに行こうとして途中で立ち止まった。そんな信を秋二は一瞬悲しげな目で見てから表情を戻し、明るい声で食事を摂ったか聞いてきた。信は頷いた。
「秋二は?」
「食ってきた。ハイ、おみやげ」
 そう言って信に手渡した布袋の中に入っていたのは本だった。バーコードが貼り付けられているところを見ると、図書館から借りてきたらしい。すべて日本語の、外人作家の本だった。
「何が良いかよくわかんねーからてきとーにいろんな棚から取ってきた。読みたいのあったら言って?」
「フィッツジェラルド……」
「あ、あるよ。信さん好きだったよな、金色帽子がなんちゃらってやつ」
 秋二はそう言うと、袋の中から小説『偉大なギャッツビー』を取り出して信に渡した。信は目を細めて、小説冒頭に付されたトーマス・パークの詩を諳んじた。
「『金色帽子をかぶってみろ、それで彼女がなびくなら 青空高く飛んでみろ 彼女のために 飛んでみろ』………私には金色帽子も高く飛べる足もなかったけれど、それでも君を羽ばたかせることができた、という自負は、実はずっとあったんだよ」
 信は本の表紙を撫でながら、呟くように言った。
「あのときほど、自分の容姿に感謝したことはない」
 すると秋二は即座に首を振った。
「違うよ……そりゃ信さんは綺麗だけど、でもみんながより惹かれるのはその内面――美しい心根なんだよ。誰のことを批判することも、恨むことも、妬むこともない、そのひたすらまっすぐで美しい魂が、みんなを惹きつけるんだよ」
「買い被りすぎだ」
「事実だよ。……信さん、あのね、」
 秋二はソファにドカッと座りながら言った。
「おれさー、〝善人ほど神様に好かれるから早死にする″って聞いてから、ちょーっと不安になっちゃったんだよねぇ。信さんって〝ザ・仏″みたいな人だし。だからいろいろ辛酸舐めさせられてちょっと性格歪んでたらいいなーとか思ってたのにそのまんまだし。そのまんまどころかもっと善い人になってるし」
 秋二はシャンプーの香りを振りまきながらポンポン、と自分の隣のシート部分を叩き、信に座るよう促した。信は指示された通り、ソファに腰かけた。
「ねぇ、もう置いてかないでよ。約束?」
 秋二が差し出した小指に、信は自分の指を絡めなかった。
「年齢からして、どう考えても先に逝くのは私だろう? 約束はできない」
「じゃあ、〝バイバイ言わずに行かない″って約束でもいいから。これでもダメ?」
 ハナから帰国する気でいた信は、それくらいならいいか、と思い小指を差し出した。すると秋二が安心したように表情を和らげて、言った。
「ゆーびきーりげーんまーん、ウーソつーいたら、はーりせんぼん、のーます。ゆーびきった! 信さん、約束だからねっ?」
「わかった」
 小指と小指とが離れる。信は秋二の感触を十分に肌と記憶に刻み付けてから気持ちを切り替えて聞いた。
「お茶でも淹れようか? ノンカフェインのを」
 すると、秋二は首を振って、立ち上がった。
「おれが淹れるねー。あーダメダメ、座ってて。あっち」
 手伝おうと近付いていった信にソファを指差して、秋二は急須にほうじ茶の茶葉を入れた。
「でも、疲れてるのに……」
「いいからいいから。負傷者はおとなしくしてて」
「負傷者って……」
「ホラ、しっしっ。信さんは、ここでは何もしなくていいんだよ」
〝何もしなくていい″というそのことばがやけに象徴的に響いた。指示通りソファに坐して待っていると、やがて秋二がやってきて目の前に湯呑みをコトリ、と置いた。そしてテレビ台のガラス戸を開けて中に並んでいるDVDのケースを数枚引き抜いた。
「さ、映画観よーぜ。あ、この辺の観ていいからね? テレビ番組は英語ばっかだし」
 彼はそう言ってDVDをテーブルの上に広げてみせた。
「どれがいい?」
 見ると、動物番組からSFまでさまざまなジャンルの作品が並んでいた。
「……どれでも」
「うーん、じゃあ〝プラネット・アース″でも観よっか」
 秋二は一枚を手に取り、腰を上げてDVDプレイヤーに差し込んだ。テレビをつけると、海の中を悠々と泳ぐイルカの映像が流れ始めた。信は画面を食い入るように見た。
「イルカって頭良いんだよなー。連携して漁すんだよね」
「超音波で交信するんだっけ」
「結構複雑な会話してるらしーよ。あとね、映像で見るよりデカイ」
「体長2~4メートルだったか? 4メートル以上がクジラだっけ?」
「そー。一緒に泳いだらメッチャビビるよ。今度、行こうな?」
 秋二はくるっと信の方を見て小首を傾げた。
「信さんの逃走願望が無くなったら」
「………」
 信は相手から目を逸らし、テレビに視線を戻した。しかし秋二はかまわずに続けた。
「不自由な思いさせてごめんな?……けど、必要だから。……あ、それから来週あたり医者に来てもらおうかと思ってんだけど、どうかな?」
「だいじょうぶだ。いろいろ悪いな」
 信は頷き、病院に行く途中に逃げる作戦は計画倒れになったな、と思った。外に出る機会を、とにかく作らなければならない。信は秋二とさまざまな地域に散らばるイルカの生態の違いについて論じながら、頭の中では、部屋を出る別の方法について考えていた。
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