店内は喧騒に包まれていた。その片隅のボックス席で、丹波ミサキは敬愛する先輩の肩にしなだれかかっていた。アルコールは一滴も入っていなかったが、そのフリをして肩を借りる。相手――澤一樹――は拒絶しなかった。
「もおー、今日は先輩とふたりっきりで焼き肉パーティのハズだったのに、何でこのひとが来るんですかあー」
丹波はそう言って、木目のテーブルの向かいに座る長嶺という名の邪魔者をねめつけた。
「いいじゃん、多い方が楽しいでしょ」
「良くない」
丹波はピシャリと言った。
「このひと帰らせて下さいよー」
「“このひと”って……それに前から気になってたんだけどさー、何であたしにはタメ口なの? 敬語が安定しないよねえ」
「うちは、尊敬した相手にしか敬語使わないの」
すると澤が苦笑して、そんなこと言わないの、と軽くたしなめた。
「ホント、もう帰ってよ」
「昨日のこと、まだ怒ってんの?」
丹波は間髪入れずに返した。
「怒ってるよ!――だって、鼻で笑ったじゃん、うちの組み立て。……一生懸命考えたのに一蹴しくさって……」
「笑ってない。被害妄想だよ。被・害・妄・想」
「絶対笑った! ハッ、て笑ったもん!」
丹波は人差し指を長嶺に突きつけた。
「もう言った通り投げてやんないからな」
頬を膨らませてプイと横をむく丹波に、彼女は肩をすくめた。
「お好きにどーぞ。打たれても記録つくのミサキだけだし」
澤はしばらく口もとに笑みを浮かべてふたりのやり取りを傍観していたが、やがて言った。
「まあまあ、菜月ちゃんも色々考えてくれてるんだからそう怒らないで……3回で変化球主体にしたのは良かったと思うよ。相手は明らかにストレート狙いだったからね」
「でも……そんな、パワーヒッターいなかったんだから押してもよかったんじゃ」
「そうかもしれないけど、結局打たれなかったんだからよかったでしょ? 結果オーライだよ」
「まっすぐで行きたいって、何回も言ったのに~~!」
ムキーッとハンカチでも噛み出しそうな勢いの丹波に、長嶺がサラッと言った。
「ペース配分ってことばのイミ、わかる?」
「帰れ」
楽しいはずの焼き肉パーティが台なしだ、と落胆しつつ、丹波は機械的にカルビの焼け具合を確認し、食べごろの肉を澤と自分に取り分けた。
丹波は今日、まだ一度も長嶺のために肉を焼いていなかった。ついでに酌もしていない。しかし長嶺はたいして気にしたそぶりもみせず、肉を自分の皿によそってから口を開いた。
「ミサキはもうすこし緩急つけられるといいよね?」
それは澤に対しての言葉だった。彼女はうなずいた。
「たまに変化球の制球があやしくなるからね」
「打ち気を逸らしたいときに不安なく決まるようになると、リード面ももっといろいろ冒険できる。広尾さん相手にストライクをどんどん入れてみるとか……」
広尾というのは、東部リーグで首位打者争いに食い込んでいるバッターだった。エリア東京に所属しており、対戦機会の多い相手だ。
「まあ、彼女打つからねえ……」
澤が考え深げに言う。
「力は五分ってとこかな。だけど賭けに出る気にはなれんよなあ」
長嶺が悩ましげに首をふった。その様子にカチンときて、丹波は言った。
「だって勝負させてくれたことないじゃん。先輩だったらさせてくれるのに~~。ね、先輩?」
「させないよな?」
ふたりに詰め寄られて、澤は困ったように笑った。ゴマかそうという意図がミエミエだ。丹波はそれを許さなかった。
「勝負、させてくれますよね?――うち、去年、真っ向勝負して勝ったんですよ! 覚えてますよね?」
すかさず長嶺が、たまたまでしょ、とつっ込む。彼女も丹波と同様、澤の答えを待っていた。
ふたりが引くようすがないのを見てとった彼女は、観念したように口を開いた。
「……私だったらたぶん……好きなように投げてもらったかな……」
その言葉に、丹波はよし、とガッツポーズをした。長嶺は少し驚いたような表情をした後、先を促した。
澤は、手に持っていた金属製の箸を皿の上に置き、くちびるを舐めてしめらせてから再び口を開いた。
「……私は基本的に、捕手は引き立て役だと思ってる。だから投手が気持ちよく投げられればそれでいいと思う。投げたいように投げて、勝負したいように勝負して負けた方が悔いが少ないと思うから……」
それみたことか、と長嶺を見る丹波に、彼女は少し不満げに口をとがらせた。
「だけど、ピッチャーに任せっぱにしてたら、リードメチャクチャになるじゃん。特に勢いで投げてるようなタイプは後先考えないで前半飛ばすんだから、こっちで手綱引いてやんないと」
「勢いで投げるタイプで悪かったね」
丹波はやけっぱちに、カルビを包んだサンチュを口の中に放り込んだ。
「それも経験、なんじゃない?」
澤の言葉に、てなぐさみにグラスを回していた長嶺の手が止まった。
「飛ばしすぎて失速したら、今度はセーブしようって思うだろうし、勝負して負けたら、勝負しちゃいけない相手なんだってわかる。私たちが言わなくても、投手はわかってるよ」
「そうかなあ……」
長嶺の手が再び動き出した。
「――わかってなさそうなのもいるような気がするけど……」
「何でこっちみて言うんだよ!?」
「また出た、ヒガイモウソウ」
「ゼッタイ見てた! 先輩、見ましたよね?!」
同意を得ようと横を向いた先、澤はなぜか笑っていた。
「何がおかしいんですか……」
「いや、仲良いなあ、と思って」
「「どこが!?」」
丹波は長嶺と顔を見合わせて、同時に言った。
「そういうところが」
澤はウーロン茶が入ったグラスの中身を回しながら、長嶺と丹波を交互に見て穏やかに笑った。丹波はその手元を見て一瞬、彼女が追った傷を思い出し、心臓のあたりに痛みを覚える。
澤は、4年前に急性アルコール中毒で命を落としかけた。往年のパートナーである横川和海の話によると、一時は呼吸が止まって非常に危険な状態だったらしい。
そのことがあって以来、澤は断酒していた。球団の飲み会でも、個人的な会食でも、酒には一切手をつけなかった。そのことが、彼女がいかに深く暗い苦しみを経験してきたかを如実に表していた。酒に頼って、その酒に食われる結末をむかえるまでに深い闇を抱え、それと闘っていたのだ。
丹波は、それに気づいてやれなかった自分を何度も責めたし、澤が辞めると言ったときに強く引き留めなかったことを幾度となく後悔した。あのときああ言っていればその手を掴めたんじゃないかとか、榛名に相談していれば退団を未然に防げたんじゃないかとか、“もしもの地獄”に陥って、かなり悩み、人生二度目の不眠症になった。その背を追って入団したはずの澤がいなくなってしまったことに気落ちし、戦績も振るわなくなった。
けれど、いつか戻ってきてくれるだろう、と信じていたから踏んばることができた。時おり無力感に見舞われながらも、毎日やるべきことをこなすことができた。報われたのは、それから3年後のことだった。
今から半年前――2066年の10月、ゼネラルマネージャー、如月夕貴の尽力により、澤はサンライズに再び入団した。二軍からのスタートだったが、それでも復帰してくれただけで十分だった。
外からは見えないが確実に存在する、彼女についた傷はたぶん、一生消えない。けれど、その痕を少しでも小さく、薄くできるなら、できるだけのことをしてあげたい、と丹波は思っていた。
「――カンちがいも甚だしいですよ……長嶺とは、相性最悪なんです!」
「あさってもがんばろーなー」
飄々とうそぶく相手を睨みつけ、丹波はウーロン茶をあおった。
結局、会食は、長嶺とのバトルに終始して終わった。丹波は、タクシーで走り去った長嶺を店の前で見送り、軽く息をついた。やっと解放された、とホッとするのと同時に、澤との時間をジャマされたという思いが胸の内でくすぶっていた。
こんなことなら家に呼べばよかったかな、と思いつつ、そばの石ころを蹴る。思いのほか勢いよく跳んでいったそれは、歩道に植えられた木の根元に当たって止まった。
丹波と澤は、どちらともなく駅へ向かって歩き出した。時刻は午後八時半を回ったところだった。
大通りを避けて住宅街の路地をゆくふたりのゆく手を、橙の街灯が淡くてらし出す。喧騒は遠く、静まり返った家々の間に、ふたりの靴音だけが響いた。
初めに口火を切ったのは澤の方だった。
「ごはん、おいしかったね」
「ハイ。あそこ、冷麺がおいしいですよね」
ふたりが行った店は個人経営の焼肉屋だった。初めに丹波が発掘した、サンライズ一軍の本拠地球場――相模原スタジアム――と自宅のちょうどまんなかあたりにあるこの店には、澤が球団をやめる以前から、よく一緒に来ていた。しかし、彼女が辞めてしまってからは行く機会がなくなってしまっていた。
だから丹波は、澤と再びこの店に来れることがこの上なくうれしかったし、また、その時間を大切にしたいと思っていた。
それで、その店――金華焼肉店――は特別な場所という思いが強く、ふだんはそれほど排他的でない丹波も、ことこの店のことになると一気に心が狭くなり、第三者の介入を拒むような態度になってしまうのだった。そしてその第三者が、ふだんからそりの合わない長嶺だったから、余計に不快指数が上がったわけだった。
丹波は、店の食事についての会話が途切れたときに、さきほどから聞きたかったことを話題に上らせた。
「――話は変わるんですけど、ちょっと聞いてもいいですか? さっき長嶺と話してたことについてなんですけど……」
「長嶺
さんね」
澤のやんわりとした訂正にうなずき返し、丹波は相手をチラチラ横目で見ながら続けた。
「広尾さんの話になったとき、先輩は、勝負させてくれるって言ったじゃないですか。経験から、それがその場しのぎで言ったことじゃないこともわかってます。でも――どうしてですか? どうしてそんなに任せてくれるんですか?
そりゃ、キャッチャーに防御率とか自責点とかはないけど、組んでた投手が打たれたら、やっぱ評価に響くじゃないですか。それなのに何でやりたいようにさせてくれるんですか?」
それは、丹波が長らく抱いてきた疑問だった。初めて組んでから8年、プロに入って5年――澤の、投手に対するスタンスは、高2の夏、甲子園で負けて荒れていた時期を除いて、一貫していた――投手の意志優先だ。
澤は、組み立てにケチをつけられても気にせず、すぐに新しい案を提示する、主張しないタイプの捕手だった。ひと当たりは良いがどちらかというと寡黙で、時折、付き合いの長い丹波でも何を考えているのかわからないことがあった。
それで、彼女が何を思って投手を尊重してくれるのか、機会があったら聞きたいと思っていたのだった。
丹波の問いに、澤は深く考え込むことなく答えた。
「さっきもちょっと言ったと思うけど、私は投手をすごく尊敬してるんだ。……球場のど真ん中で、期待も敵意も一番ふりかかってくるその場所で投げられるって、すごいと思う。本当、すごいと思ってるよ。私には絶対できないから。
言ったっけ、私、中1までは投手だったんだ。だけど、とてもじゃないけど耐えられなかった……自分の失投一つで勝敗が決してしまうような場面で、それでもマウンドに立ち続けることができなかった。ビビリだからね」
澤は自嘲気味に笑った。
「だから、色々なモノを一身に背負って投げられるひとたちを、私は心の底から尊敬してるんだ。その強さにはいつも驚かされてるよ」
その言葉に、丹波は笑った。
「うちはそこまでイロイロ考えてないですけどね。ただ投げたいってだけで、期待とか、そーゆーモノはあんまり背負ってないです。だから個人主義って言われるのかなあ?」
澤に尊敬されるような投手になる日はまだまだ遠いな、と思っていると、彼女は首をふった。
「――それでも、全く無いわけがないよ。にもかかわらずマウンドに立ち続けられるって、本当にすごいことだと思う。だから、どんな試合も悔いが残らないよう、最善を尽くしてフォローしたいって思うんだよ」
そう静かに言い切った澤の目は、街灯の光を受けて煌々と輝いていた。丹波はその美しさに魅入られ、思わず相手の顔をまじまじと見た。
「……買い被りすぎじゃないですか? 先輩が言うような責任感ある立派な投手もいるのかもしれないけど、すくなくともうちは、そんな高尚なこと考えて投げてません……」
「丹波ちゃんの球を初めて受けたとき……私が何て思ったか、わかる?」
「なんだろう……? コントロールがイマイチだな、とか?」
「違うよ」
澤は笑って首を振った。
「何て素直でまっすぐなんだろうって思った、迷いも虚勢も恐れもなくて、のびのびしてる球だと思った。速さとか、関係なく、純粋に投げるのを愉しんでいるひとが投げる球だと思った」
「それ、当たってます。うち、投げるとき何も考えてないから」
「飾らない、美しい球筋だと思ったし、それは今でもそうだよ。そんな、魅力的な球投げる相手がバッターと真っ向勝負勝負したいって言ったら、聞いてあげたくなるでしょ?」
「まあそれは……そうかもしれないですね」
丹波は内心、周りが暗くて良かった、と思いながら、熱を持った頬をそっとおさえた。尊敬し、その背を追い続けてきた澤からこれほど直球の賛辞を受けたのは、高校2年の春、そのときまで約半年間続いていたスパルタ指導について謝られたとき以来だった。
「そういうこと。ナットク?」
澤は、丹波が赤面していることに気付いたようすもなく、そう言った。
「ハイ……」
その後交わした会話の内容を、丹波はほとんど覚えていない。帰り道、彼女の頭の中では、『素直でまっすぐな球』『虚勢も迷いもない美しい球筋』が反響しつづけていた。
それはその日、家に帰りついた後も、翌日も、3日後も、1週間後も、1か月後も、1年後も、10年後も、30年後も、丹波の記憶から消えることはなかった。そして、やがて丹波の心には、その言葉が深く、大きく刻まれた一生の記念碑が建ったのだった。
- 関連記事
-
~ Comment ~