※R15 琴の音が静謐な座敷内に響き渡る。白銀楼で最も大きな座敷の上座に、秋二と畠山と信は坐していた。身請けされる傾城を送り出す〝別れの宴″が間もなく始まろうとしていた。
秋二はお気に入りの、朱地に吉祥文様が絢爛豪華にあしらわれた仕掛けに薄紅色のかんざしを挿し、畠山は三つ揃いの黒のスーツを着、そして信はグラデーションがかった紺地に紫陽花模様の仕掛けに薄紫の花かんざしを合わせていた。秋二のポニーテールの付け根で色を添えているのは、信がかつてせがまれてプレゼントした髪飾りだった。
信は大広間に居並んだ同胞たちに目を走らせた。年季明け後も居残る唯一の傾城で遣り手の右腕として皆をまとめていた伊沢や、入楼の時期が同じでよく一緒に厨房に忍び込んだ大輔や、禿の頃から面倒をみてきた可愛い後輩の伊織、夏樹、敦也、そして八年来の朋友である章介――。
水浅葱の長着にほぼ同色の羽織を着た相手は怒り半分、諦め半分といった顔でこちらをじっと見据えていた。この友人は最後まで信が身請けされることを望まなかった。畠山の登楼に終始反対していた彼は、あんなサディストのところへ行くなどとんでもない、と憤慨し、しまいには口をきいてくれなくなった。だから身請けを決めてからつい昨日まで、彼とはマトモな会話ができていなかった。しかしさすがに喧嘩別れはしたくなかったのか、昨日、章介はここ最近で初めて、自分の部屋を訪れた信を中に入れ、話に応じてくれた。そう多くを話せたわけではなかったが、とにかく和解じみたことができてホッとしている信に、章介は諦めの滲んだ口調で、身体を大事にするようにと、ただそれだけを繰り返した。
大事な相手を裏切ってしまったことに良心の呵責を覚えつつも、信は自分の決断を後悔していなかった。最愛の人を、かつて彼が言っていた〝あっち側″に自分が連れ出せるほどの幸福はなかったからだ。彼が外界で自由に羽ばたき、天に舞い上がってゆくのを想像しただけで歓喜に身体が震えるほどだった。
――さあ秋二。
信は遣り手の祝辞を聞きながら心の中で愛する男に語りかけた。
――君の人生は今、始まる。どこまでも、羽ばたいてゆけ。力の限り、地平線のかなたまで、太陽まで羽ばたいてゆけ。君にはその力がある。過去は今ここにすべて捨ておいて、輝ける未来へ、走ってゆけ。駆けてゆけ、陽光降り注ぐ明るい場所まで。
小竹への返礼に短い口上を述べた畠山が盃を掲げ、乾杯の音頭をとると、広間にいた従業員や傾城たちが口々に乾杯、と言って自分たちの盃を軽くぶつけ合った。
宴が始まった。相好を崩した参列者たちが三人に近付いて来て口々に祝いのことばを述べてゆく。秋二が友人と楽しげに談笑するのを目の端で捉えながら、信は近付いてきた遣り手の小竹に会釈をした。彼は畠山の前で膝をつき、頭を下げた。
「このたびはおめでとうございます」
「ありがとう。両手に花とはまさにこのことだ。稼ぎ頭を引き抜いてしまって悪いな」
「いいえ。菊野も立花もきっと畠山さまのもとでなら幸せになれるでしょう。元々仲も良いですしね。ご存知でしょうが、立花は菊野の禿だったのですよ」
「ほう」
畠山は横目でジロッと信を見た。信はヒヤヒヤしながらことのなりゆきを見守っていた。
「良い関係でしたよ。ですので同じ家に住まわせても問題ないと思います。立花は菊野によく懐いていますからね」
「特別、立花だけに目をかけていたわけでは……」
そろそろ口を挟まないとマズそうだと思って遠慮がちにそう言うと、小竹が頷いてくれた。
「確かに。特別あの子というのではありませんでしたね。総じて後輩には優しい子でしたから。まあ、甘すぎるのが玉にキズといえば玉にキズでしたが」
「そうですか」
畠山が納得したようなのを見てとって、信はホッと安堵の息をついた。
「では、ふたりをよろしくお願いします。菊野、立花、幸せになるんだぞ」
心にもないことばを並べ立てて、小竹は去っていった。信は畠山の酌をしながら別れを言いに来た禿や新造たちとことばを交わした。そのまましばらく信の周りに群がっていた彼らをかき分けるようにして傾城がやってくる。同期の大輔だった。
「寂しくなるなぁ。お前、抜け駆けもいいとこだぞ、一緒に年季明けまでがんばろうとか言ってたくせに」
彼の目尻は少し赤かった。信は笑って返した。
「ハハッ、明ける時期はそもそもバラバラだったろ? お茶挽きさん」
「このっ……!」
大輔は信を殴るマネをしてから、また神妙な顔つきになって言った。
「ホント、寂しくなるよ。でもよかったな、信、ホント幸せそうだもん。おれも笑顔で、送り出さなきゃ、な……」
じわり、と目のふちに涙が盛り上がるのが見えた。
「いろいろありがとう。大輔の明るさに、いつも救われていたよ。あと少し踏ん張れば外界(そと)、出られるからな?」
「うん」
大輔は眼をこすって頷いた。その面に影が落ちる。いつの間にか章介が来ていた。彼は大輔が空けてくれた場所――信の正面に正座をし、静かに言った。
「身体だけは大事にするようにな」
「それは私への当てこすりか?」
そこでそれまで黙っていた畠山が急に口を開いた。信は急いで否定したが、何と章介は頷いてみせた。
「信は過去に大怪我を負っています。大事に扱ってください。信が許すままにやっていたら、取り返しのつかないことになりますよ」
信は畠山が怒り出すのではないかとヒヤヒヤしながら見守っていたが、彼は意外にも自分をねめつけてくる章介に向かって頷いた。
「そうだな。忘れるところだった。菊野は懐が〝底なし沼″なんだったな」
畠山が信のアダ名に言及してそう返すと、章介は相手の方を向いて畳に手をつき、頭を下げた。
「お願いします」
すると畠山は軽く笑って、人望があるな、と呟くように言った。章介は顔を上げると、今度は信の方を向き、激情を抑えているかのような震える声で言った。
「信……達者でな」
泣いてはいなかったが、信には泣き顔そのものに見える表情だった。信は相手の顔に、一気に感情が揺さぶられ、胸の奥から何かがこみあげてくるのを感じた。章介とともに乗り越えた廓での苦難の数々、ともに経験した歓楽の数々が走馬灯のように脳裏をよぎった。同時に視界がぼやけてくる。信は相手の手を取って言った。
「覚えてるか、私たちがどうやって出会ったか」
「こんな最後の最後までからかうのか……性格が悪いな。……トイレだよ。そこでおれが戻していた」
信は泣きながら笑い、頷いた。
「男の唸り声が聞こえるからなんだと思って行ったら、章介だった。最初に行こうと言い出したのは一樹だったんだぞ」
「一樹か」
章介は昔を懐かしむように目を細めた。
「彼のおかげでいろいろと酷い目に遭ったな……叱られるときはだいたい一樹絡みだった。覚えてるか?」
「ああ。でも楽しかった。ああいう型破りなタイプ、好きなんだ。章介はずっと誤解してるみたいだったけど、最初に一樹に声をかけたのは私なんだ」
案の定、相手は驚いたように目を見張った。
「そう、だったのか……?」
「うん。友達になったらおもしろそうだと思ってな」
そう言うと章介はほおを緩めた。
「確かに、イベントは尽きなかったな」
「だろ? 一樹がいなかったらたぶん日がな一日将棋して終わってたよ、月曜日は」
「そうだな。実際、いなくなってからはそうなったしな」
章介はここで表情を引き締めて続けた。
「信、ありがとう。おかげでここまで来れた……会えて、よかった」
「先に抜けてごめん」
「いい」
章介はそこで身を乗り出して、信の身体を抱きしめた。後々畠山に何か言われそうだったが、今は章介との別れの方が大事だった。これが今生の別れになる可能性があると思ったからだ。
まるで壊れ物を扱うようにやさしく抱きしめてくる相手の温もりを味わっていると、不意に章介が耳元で囁いた。
「必ず、助けてやるからな」
「っ!?」
驚いて思わず身体を離そうとした信を腕の中に閉じ込めたまま、章介は続けて言った。
「どんなに時間がかかっても助け出してやる。だから待っていろ」
「いい、章介、そんなことを――」
「それまで生きてろ」
章介は一方的にそう言うと、信から身体を離し、立ち上がって敦也と同様座敷から出て行った。そして間髪入れずに同僚たちが別れを言いにやってきたので、結局宴が終わるまで信は章介を探しに行くことができなかった。
盛大に執り行われた宴が終わるころには、辺りはすっかり暗くなっていた。参加者たちはそのまま建物の外に出て、あらかじめ詰めておいた荷物一式を携えた禿たちと共に、紅玉通りをぞろぞろ歩き始めた。ここで信はやっと章介の姿を発見したが、遠く隔たったところにいたために会話をすることはできなかった。急速に心拍数が上がるのを感じつつ、信は相手とコンタクトをとる機会を窺ったが、結局ことばを交わすことができぬまま大門に到着してしまった。
付き添ってきた遣り手が検問所の係員とやり取りをしている間、信は必死に章介に近くに来るよう合図を送ったが相手はそれを無視した。しかし畠山の手前、はるか後方にいる友人のところへ飛んで行くわけにもいかず、信はじりじりしながら相手を見ていた。
そして結局、章介の衝撃発言以降一度もことばを交わすことのできぬまま、信は大門をくぐった。口々に祝福される中、信は向こうから強い意志を秘めた瞳でじっと自分を注視する男だけを見ていた。
軽くパニックになりながら、それでも信は玉東に背を向けて歩き出さざるをえなかった。禿たちから信と秋二の荷物を受け取った畠山の側近たちはのろのろ進む信たちに構わずスタスタと歩いていって大通りから一本入ったところに止めてあった黒光りする車の後ろのワゴン車にそれらをしまった。
「意外と距離がありますよね、ここ」
何となく沈黙が気づまりで畠山に向かってそう言うと、相手は正面を見たまま平坦な口調で返した。
「人力車が必要ならば最初に言えばよかろう」
「いえ、そういうことではなく……あ、アレですか?」
見えてきた黒塗りのダックスフントみたいな縦長の車に秋二が歓声を上げた。
「スゲー! ロールスロイス? ロールスロイスっすか、アレ!?」
「そうだが」
「おぉー! でっけぇ~~~! やっぱソファみたいな後部座席でシャンパン飲むんスかっ?」
畠山は眉をしかめたが、君が望むなら用意はあるが、とだけ答えるに留めた。
そこまで付き添ってきた楼主や遣り手と二言、三言ことばを交わしてから、畠山は二人に車に乗るよう促した。秋二と信は楼主たちに挨拶をしてから車の後部座席に乗り込んだ。ドアを開けて待機していた運転手は最後に畠山が乗るのを認めると驚くほど静かにドアを閉め、運転席に座った。
「発車させてもよろしいでしょうか?」
振り返って伺いを立てた彼に畠山が頷いてみせると、車がゆっくり発進した。信は深々と腰を折って見送る楼主と遣り手、若衆がだんだん遠ざかってゆくのを見てから、視線を後ろに移し、張り巡らされた三メートルの塀越しでも見える、玉東の大見世街を眺めたが、同じ通りに並ぶ他の見世の陰に隠れて白銀楼はほとんど見えなかった。
十六から八年――長いようで短かったな、と思いながら窓の外を眺めていると、手元に冷たい物が押しつけられた。視線を戻すと、秋二がニコニコしながらシャンパングラスを差し出していた。
「ハイ、信さんの分」
「浩二さまに先にお出ししろ」
「いらないってー。ハイ、どーぞ」
信は左隣に座る畠山の方を向いて聞いた。
「よろしいのですか?」
「……どうも立花はお前の隣に行きたいようだ。さ、ココに座って良いぞ」
そう言って畠山は左側にひとつシートをずれた。信はイヤな予感に秋二を制止しようとしたが、時既に遅く、秋二が左隣、元は畠山が座っていた位置に腰を下ろした後だった。信が恐怖して畠山を見ると、相手は意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「シャンパンの口移しのやりっこでもしてみたらどうだ?」
そのことばに秋二がハッと畠山を振り返る。
「やれ」
「でっ、でもっ!」
「飼い主の言うことがきけないのかっ?」
「か、飼い主って……」
秋二が呆然としたように呟くと、畠山は笑みを深めて頷いた。
「そうだ。私はお前たちの身体、人格、人生を丸ごと買い取ったんだぞ? 逆らえると思うのか?」
「じ――!」
信は何か叫びかけた秋二の口を咄嗟に塞ぎ、素早くふたりの間に割って入り、畠山の腿に片手を置き、上目遣いで言った。
「浩二さま、つれないことをおっしゃらないでください。こんな原生林に住んでいそうな野生児とそんなことをしてもおもしろくも何ともありませんよ。私は……浩二さまとしたい……」
「いいかわし方を思いついたな。良かろう、その機転に免じて許してやる」
「乗ってもよろしいですか?」
移動の瞬間、ギロッと秋二を目で牽制し、信はシャンパンを口に含むと近くのテーブルに置き、少し仕掛けをはだけさせて畠山の両足の脇のシート部分に膝を広げてつき、畠山の肩にそっと両手を置いて、ゆっくり唇を近付けていった。そして首を傾げて口づけをし、唇を開いてシャンパンを中に少しずつ流し入れていった。左手が腰の後ろに回されて、右手が股間にいきなり突っ込まれる。
「うッ……」
信はビクリと身体を引きつらせてくぐもった呻き声をあげた。まさぐられているうち、イヤでも身体が火照ってくる。
信は、秋二ともっとマシな別れ方をしたかった、でも考えようによっては好きなひとに見られるというシチュエーションも悪くないな、などと思いながら畠山とキスをしたままその胸板に手を伸ばした。隆起した胸とチョコレートみたいに均等に割れている腹をまさぐり、次いでスラックスの上に手を這わせる。すると畠山が信の身体を引き離し、しゃぶれ、と命じた。
「なっ!?」
秋二の今にもブチ切れそうな声に焦ってそちらに目をやる。
「アンタ何様だよっ!そんな……」
「立花! やめなさい」
信が様子を窺うと、畠山は怒っていなかった――まだ。
「じゃあお前がしゃぶるか? 私は別にどちらでもいいのだがな。……ただし、下手だった場合にはイラマチオに切り替えさせてもらうが」
「てめえッ……!」
今にも畠山に殴りかかりそうな秋二と畠山の間に慌てて割って入る。そして秋二の方を向いて声を押し殺して言った。
「そういうプレイなんだよっ! 前に言っただろっ?」
「でもっ……!」
「ムリヤリっぽくされると感じるんだ。SMって、わかるだろ? ジャマするな」
「ッ……!」
信は秋二を向かい側のソファに突き飛ばし、振りかえりざまに言った。
「そこで見物でもしてろ。参加したかったらもっと閨房術を学んで出直してこい!」
そして再び畠山の方を向き、さ、浩二さま、続きを、と甘えるような声で言って黒い革製のベルトを外し、スラックスのチャックを下ろし、下着を下げて姿を現したペニスを右手で持って口に含んだ。
大人しくなった秋二にホッとしながら丹念にそれを舐めしゃぶる。刺激に、畠山の腿がピクリと揺れた。とりあえず怒らせずに済んでよかった、と思いながら上目遣いで表情を窺うと、わずかに眉間に皺を寄せた相手と目が合った。
信は努めて淫靡な表情をし、誘うように相手を見ながら舌と口と手を動かした。やがて小さく呻いて畠山が達する。信は液体をすべて飲み下すと、ごちそうさまです、と言って、唇を手の甲で拭った。避妊具を着けるヒマがなかったが、この場合仕方がなかった。
信は立ち上がり、近くのテーブルに置かれたグラスを手に取り、おろおろとこちらを見守っている未来ある青年の将来に思いを馳せつつシャンパンで口をゆすいだ。そして、固まっている秋二の方には一瞥もくれずに、シャンパン、おあがりになりますか、と畠山に聞いた。しかし相手は支度を整えながら首を振った。
「いや、もう着く」
「さようですか……雰囲気の良いところですね」
信が車外を眺めつつ言うと、畠山は頷いた。
「ああ。都内の郊外と言われている地域だからな。……さあ、着いたぞ」
車が横付けしたのは、路地の奥まった場所にある、派手ではないが明らかに敷地面積の広い二階建ての日本家屋の前だった。背の高い門から中に入ると、奥の玄関まで舗装された石畳があり、両脇には松やししおどしなどが優美に配されている。
後から着いてきた荷物係の男たちは三人を追い越すとすばやく家の中に荷物を運び入れた。そして玄関で待機していたが、到着した畠山がごくろう、と声をかけると一礼して去っていった。
家の中はしんと静まり返っていて人の気配がなかった。信はできるだけ秋二と畠山を遠ざけようと終始畠山に引っ付いていたので、後ろを歩く秋二がどんな表情をしているのかはわからなかった。
永遠に続くかに思われた廊下をしばらく行ったところの一室の前で畠山が足を止めた。
「立花、お前はここだ」
青白い顔の秋二が力無く頷き、中に入っていった。
「さっさとその装飾過多の衣装を脱げ。和装でも洋装でもいいから普段着に着替えて待っていろ」
「ハイ……」
秋二はうなだれたまま部屋の扉の取っ手に手をかけた。その悄然とした背中に何かひと言かけてやりたかったが、結局タイミングを逸して何も言えないままに扉が閉まった。
まだチャンスはある、食事のときに話せるはずだ、とそのときは思い込んでいたが、予想に反して膳が部屋に運ばれてきたのでその機会は無かった。その後、コッソリ部屋に行ってみようかと画策してもみたが、見計らったかのように畠山が部屋にやってきて、秋二を引き取り先に手配する段取りについて説明し始め、その後もずっと部屋にいたので結局彼とひと言もことばを交わすことができないまま夜を迎えてしまった。
屋敷の二階の最奥の、嵌め殺しの天窓しか採光するところのない、四十畳ほどの広大な部屋が信に与えられた部屋だった。ウォークインクローゼットには膨大な収納能力があったが、十年経っても埋まるとは思えなかった。見世に勤めていた時代に客から貰った仕掛けや着物、洋服、私物のコートやブーツ、装飾品、宝石類などを全部入れても半分にもならなかった。
バスタブ付きのシャワーとトイレ、冷蔵庫、水場が完備されているところを見ると、しばらくこの部屋から外へは出られなさそうだった。閉じ込める気マンマンの部屋だ。圧迫感を感じながら荷解きをしていると、衣装ケースの中から置いてきたはずの着物が出てきて、信は手を止めた。畠山と目が合う。信は慌ててそれを放り出した。
「す、すみません! 捨てたはずなのに――」
確かに厳重に梱包して廃棄したはずなのにいったいナゼ、と焦っていると、畠山が落ち着いた声音で言った。
「それは私が入れた」
「え――?」
「……早々にヘバられちゃ困るからな。忘れ形見のひとつくらい許してやる」
「浩二、さま――」
信は手を宙に浮かせたまま、信じられぬ思いで相手と着物とを交互に見た。それにはいつも以上に光沢があるように見えた――陽光なんて差してないのに。
「ありがとう、ございますッ……」
信は着物を握りしめ、俯いて血を吐くような声で礼を言った。
これで、生きてゆける、と思った。命尽きるその日まで、希望を捨てずに生きてゆける、と。
畠山は何も言わずに立ち上がり、部屋を出ていった。施錠音が響く。信はその後もしばらく着物を抱きしめたまま身を震わせ、離別の悲しみに暮れていた。
翌朝起きたときには、もう秋二はいなかった。彼は北海道の一地方の有力議員、若本辰夫の養子としてすでに北の地へと発った後だった。夕食に何か入っていたらしく、午後になるまで目を覚まさなかった信は結局、秋二と会うことも、話すことも、彼を一目見ることさえもできなかった。
その日の夜、畠山から解放された信はクローゼットの奥の奥にしまった例の着物をコッソリ出して指先で撫でながら、結局、最後のことばは閨房術うんぬんの叱責になってしまったな、と思い、苦笑いをした。普段から小言ばかり言っていたからバチが当たったのかもしれない。
信は着物に顔を埋め、嗚咽混じりに、ゴメン、秋二、と呟いた。
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