茶屋を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。時計を見ると七時少し前。信は店ののれんをくぐり、人工的な光で彩られた通りに足を踏み出した。
飲食店の並んだ横丁を見世に向かって流していると、秋二があっ、と声を上げた。
「キレーなかんざしっ!」
そう言って装飾品を陳列している露店に駆け寄っていった秋二を追って歩み寄り、背後から覗きこむと、色とりどりの髪飾りが並べてあった。この辺りの見世に勤務する者たち行きつけの店だ。信自身も、ひとりでも、客に伴われて来たこともあったが、仕事以外で立ち寄りたい場所ではなかった。
かつて、そして今も自分を着せ替え人形のように扱うことを好むとある客の顔が浮かんでわずかに眉をひそめる。昨日も相手をしたからだろうか、胃の辺りが不快になってくる。しかし彼は年も近く、どちらかといえば、というかかなり自分をよく扱ってくれる相手だったはずだ。嫌悪感を抱くことなどほとんどなかった。そうなったのは――。
信は楽しげに品物を端から端まで見ている信に目を向けた――そうなったのは、この子のせいだ。この子があまりにも清浄で、明るく、美しいから、自分が失っていないと思っていたはずの自尊心や人間性を本当は失っていることに気付かされてしまうのだ。
どんなに性産業に従事する者たちを社会がいかに蔑視するようになったかを紐解いた社会学の本を読んでみても、どんなに現行の人身売買をがいかに非人道的で違法かを説明する本を読んでみても、どんなに職業に貴賤はない、と自分に言い聞かせみても、どんなに客も傾城も同じ人間なのだと思い込もうとしても、やっぱりどうしても自尊心がズタボロになるときはある。自分を同じ人間だと思わない人間と毎日接さなければならない仕事なのだ、性産業というのは。
人間性を否定されて、快楽の道具にされて、嘲笑されて、蔑まれて、レッテルを貼られて、貶されて、意に沿わないことをさせられて、言わせられて、そういう繰り返しの中で自分でも気付かないうちに失われていった人間としての誇りとか自尊心とか自由な精神とかを、秋二はすべて持っているのだ。彼にはまだ翼がある。だからできるだけ長くそれが無傷でいられるようにしてあげたい、と信は常々思っていた。
もう自分に自由に飛べる羽根は無い。守っていたはずだったのにいつの間にか根こそぎ引き抜かれて跡形もなくなっていた。玉東に沈んでから経験し、させられた数々のことが、信の精神と心を完全に作り変えたのだ。もう戻せないところまで。
かつて、それほど幸福ではなかった少年時代にさえ抱いていた世界への信頼が完全に破壊されたとき、信は、世界に期待することをやめた。人間の醜さと世の中の暗部をこれでもかというほど見せつけられて、失望し、諦めたのだ。その代わりに、自分の世界を大切にすることにした。世界と距離を置き、ヒトがどれほど搾取してこようと、理不尽であろうと、何をしようと、自分は、自分がなりたい人間になることに決めた。勤勉で、勇敢で、善い人間になろうとした。自分に誇れる人間になることが、人生の意義だと思ったからだ。
地獄を経験してのこの人生の方針転換は結果的に功を奏し、信は、彼のような境遇にある者にしてはかなり心穏やかに日々を過ごすことができていた。折に触れてはニーバーの〝平穏の祈り″を思い出し、変えられぬものを変えようとしないようにしてきた。そのことによって、そして人間の自由意志を信じることによって、信は心の平穏を保ってきた。
しかし時折、秋二のように無邪気に生きている人間が羨ましくなるのもまた事実だった。同じような苦境に立たされているはずなのに、人間や世界への信頼をいまだ失わずにいられる精神の強さに憧れずにはいられなかったから。
信がそんなことを考えながらわずかに目を細めて秋二を見ていると、初老のメガネをかけた店主が出てきた。そして、これはお美しい、と秋二に賛辞を送った後に、信に向かってお綺麗な彼女をお持ちで、と世辞を言った。
「ねぇ信さんっ! 似合うの選んでっ!」
そう言って着物の袖をひっぱってくる秋二に信は返した。
「とか言って君、かんざし着けないでしょう」
信は妓楼で秋二がかんざしを挿しているのを見たことがなかった。どころか光りもののピンすらほとんど着けることがない。
「着けるっ、着けるよっ、信さんが選んでくれたのなら」
「本当か?……う~~ん、コレは?」
信はそう言って薄紅のグラデーションがかったダリアの花びらに金と銀のビーズを散りばめた一品を指した。
「どうぞ、こちらでお試しになってください」
店主がすかさず鏡を指し示す。秋二はニコニコしてそれまで着けていたかんざしを抜き、それをそっと挿した。そして鏡で確認してから振り向いて、どう?どう?と聞いてきた。
「いいな。顔が明るくなる」「マジッ?」
信は頷き、他に欲しい物はないか聞いた。
「ううん、コレだけでいい」
散財させるとか豪語したわりには控えめだな、と思いながら信は代金を払い、受け取った桜色のかんざしを秋二に渡した。
「ありがとっ! 大事にする」
信は笑って相手の頭をポン、と叩くと歩き出した。
やがて街の中でも特に目立つ廓、白銀楼が見えてくる。五階建てのその建物には煌々と明かりが灯り、軒先にぶらさがった提灯や、ベランダに飾られた桃色の花の存在も相まって淫靡な雰囲気を醸し出していた。
暖簾をくぐって上がり框に足をかけた途端、いらっしゃいませ、と受付係や近くにいた傾城たちが声を揃えて言った。信が弁明する前に秋二が声を張りあげて、おひとりさまごあんなーい、と言った。館中に響き渡るような声で叫んだので、上階の傾城たちも何ごとかと吹き抜けの手すりからこちらを見下ろす始末だった。
受付の戸田は一瞬台帳に手を伸ばしかけて引っ込めた。
「何だ、菊野さんじゃないですか。おかえりなさい」
「ただいま」
笠原の専属同然となったはずの秋二が違う客を連れているのはいったいどういうわけかを探るために集まってきていた傾城たちの大半は同じく正体不明の客が同僚であったことを突き止めると、すぐに散っていった。しかし、玄関口に居合わせたやることのない数人の禿たちはその場にとどまってなにやらひそひそと囁き交わしていた。
「黒い着物をお召しの姿なんて初めて見た……かっこいいね」
「ウン……いつもの衣装も素敵だけど、こんな風にしてるといかにも旦那さまみたい」
「こんな人がお客だったらなぁ」
本人に聞こえる声量でことばを交わす禿たちに向かって秋二が低い声で言った。
「信さんは、おれの、旦那さまなの、ホラッ!かんざしも買ってもらったんだよ。いーだろー!」
「えー、いいなあ、一緒に出かけたかったあ」
「今度な。……秋二、おとなげないぞ」
信が嗜めても秋二は素知らぬ顔で腕にひっ付いていた。
「まさか、この袋の中も?!」
「いやいや、コレは私の衣装。今日は写真撮ってきたんだ。それでその帰りに着物をな……」
「どこの呉服屋ですか?」
「仲の町通りの角のところの……」
なかなか散らない後輩たちにしびれを切らしたらしい秋二が強引に信の腕を引いて輪の中から引きずり出した。
「このひと、おれの旦那だから」
そして信が何か言う前にぐいぐい腕をひっぱって階段を上らせた。そして膳を運んだり、立ち働いている色子たちの好奇の視線に曝されながら、居住区の方向に向かっていると、口笛が聞こえた。
「立花ちゃん、浮気かい? 笠原さんに怒られるんじゃない?」
勘違いしてそう言ってきたのは傾城仲間のひとり、長浜大輔だった。
その隣にいたのは古株で年季明け後も白銀楼に残っている伊沢尚之と、信の友人である鶴見章介だった。
「まァねー」
「あらあら、随分見目良い旦那をお連れで」
完全にからかっている口調の伊沢に、章介が頷く。
「……イケメン、だな」
「からかわないでくれ」
信は明らかに面白がっているようすの章介に顔をしかめた。
「えっ? 信? 信なのかっ?」
そこでやっと信の正体に気付いたらしい大輔が驚愕の表情でこちらをまじまじと見た。信が苦笑して頷くと、相手は目をこれ以上できないくらい丸くした。
「そういうカッコしてんの初めてみたわ。客かと思った」
そのことばに乗じて、章介がらしくもなくふざけ出す。
「酌してやろうか?」
「面白そうだな。そこの座敷八時まで空いてるはずだから連れ込もうぜ」
「いーですねー。接待してやるよ、ダンナ♪ あと一時間はどーせヒマだし」
すると伊沢と大輔までのってきて、信は抗議する間もなく近くの座敷に連れ込まれた。彼らは面白半分に信を小卓の前の座椅子に座らせると、どこからか調達してきた酒を注いで勧め始めた。
「旦那さまあ、さ、どうぞ」
「こちらもどうぞ。美味しいですよ、だし巻き卵」
「ちょっと、やめてください」
両脇を章介と大輔にがっちり固められて口元にお猪口を押し付けられる。身体をベタベタ触られて息を呑むと、大輔が笑う気配がした。
差し出された酒を何とか飲み干すと、今度は艶やかな仕掛けを身に纏った大輔と、同じく接客用の、渋い灰緑色のお召を着た章介が、どちらがお好みですか、とかフザけたことを聞いてくる。斜向かいに座ってじっとこちらを観察している秋二に助けを求めたが、相手は応じなかった。
「ただの遊びだろ。付き合ってやれば?」
「秋二っ!……伊沢さんっ!助けてくださいよ」
立ち上がろうとしてもふたりがかりで押さえつけられて動けない。秋二の横に坐した伊沢は完全に高みの見物を決め込んでいた。
「今日は、どちらをお召しになります? おれですか? 吉野ですか?」
「当然私ですよねえ。自慢じゃないけど二週間先まで予約でイッパイなんです。今夜を逃したらもうチャンスはありませんよ?」
「ったく…………悪ノリが過ぎるぞ、大輔」
「吉野です、旦那さま。さあ、どちらかお選びになって」
信はため息をついて、乗るしかないか、と両手をふたりの肩にかけて抱き寄せた。
「両方、というのはダメかな?」
「お、スイッチ入ったよー」
秋二を無視してことばを続ける。
「こんなに美しい花がふたつも咲いていては、どちらか選ぶことなんでできないよ。アマリリスのように華やかに光輝く吉野と、スズランのように楚々として控えめで、まるで新妻のように男を惹きつけずにはおかない紅妃――選べるわけがない」
「まあ、信さまったら、お上手ですこと」
口元に笑みを浮かべて自分を見る大輔に微笑み返して少し顔を近付ける。
「本当だよ。ホラ、頬なんてこんなにすべすべで、髪はしなやかでやわらかく、唇はもぎたての木苺みたいにおいしそうだ。その濡れた目で見つめられると脳髄が痺れるな。……もっと君のことを知りたいんだ。ダメ、かな?」
「し、信……ストップ、ストーップ!」
相手の後頭部に指を差し入れて更に顔を近づけた瞬間に、大輔はそう叫んで彼を両手で突き飛ばした。
「っ……! 何をする」
「それはこっちのセリフだっ!」
勢いよく立ち上がった大輔は、着物の袷を掻き合わせながら後ずさった。信は肩をすくめた。
「ご所望の演技をしてやっただけだろ」
「そこまでしろなんて言ってないっ! お、お前には貞操観念がないのかっ!?」
すると伊沢が口元を袖で隠してくつくつと笑った。
「ミイラ取りがミイラになったな。何だお前、知らなかったのか、菊野の通り名」
「〝傾城殺し(けいせいキラー)″っすか? いや知ってましたけど根も葉もない噂だと……」
座敷の入り口のところまで逃げた大輔は怯えた顔で信を見つつ答えた。
「火のないところに煙は立たぬ、だ、この場合。とって食われないように気をつけろよ?」
完全に面白がっているようすの伊沢のことばに、章介は何かを思い出したかのように眉根を寄せた。それを見て取った信は急いで言った。
「ではそろそろ戻りますので――」
「次おれね」
しかし信は最後まで言えなかった。それまでおとなしくしていた秋二が立ち上がり、重そうな着物を引きずって横にドカッと座ったからだ。
「戻るぞ」
「ンでだよ!? 大輔はよくておれはダメなのかよ?」
「疲れただろう? 着替えて少し休んだ方がいい」
信はそう言って立ち上がろうとしたが、秋二の手に阻まれた。
「何でイヤなのか理由聞いてない」
「友人とそういうことをする趣味は無い」
「大輔とはしてたじゃんか…」
「君とはダメなんだ」
「何だよ、いつもやってることだろ?」
信はそのことばに絶句して窓際に坐した伊沢と入り口付近に立っている大輔、それに隣にいる章介を見た。しかし三人共特に動揺しているようすはなかった。
「今更驚くことでもない。セットでよく呼ばれるお前たちが何やってるかなんて誰でも想像がつく。しかしその言い草だと結構ガッツリ絡まされてるみたいだな?」
傾城のまとめ役的な存在の伊沢は、同情的な声音で言った。
「………」
「………」
「しかし仕事なんだろう? 皆理解しているよ。むしろよくやっていると思う。そういうことをやらされても今までと変わらずに付き合ってるんだからな――菊野が仕事に私情を持ち込まないタイプで良かったな、立花」「ハイ……」
「でも菊野もその関係性を維持するためにがんばってるんだぞ? 立花も協力しないとダメだ」
「……わかりました」
静まり返った座敷に、秋二の消え入るような声が響いた。
「よし、よろしい。それから菊野」「はい」
「今度綿貫さまか氷室さまがいらっしゃったときにその格好で出てみろ」
「でもコレは……」
言いかけた信を秋二が首を振って制す。伊沢は続けた。
「確かに妓楼の華は花魁だ。美しく着飾った男を好んで来る客は多い。だが男装を好む客も一定数いるんだ。今まで男物を着て接客していたのは全体の3割くらいだったかな?」
「だいたいそのくらいです」
嫌な予感がした。
「しかしあまり濃い色の着物は着たことがなかっただろう」
「………」
やっぱりそうきたか、と信は内心ため息をついた。
「初めて見たがなかなか似合っている。どうして今までやたら薄い色のばっかり着させてたのか不思議になるくらいだ。中性的だが女顔じゃなかったんだな、気付かなかった。ついては、今後の参考のためにそれで接客してほしい」
「コレでなくてはいけないのですか?――私物なんですけど……」
「何か着たくない理由でも?」
「それは―――」
「だいじょうぶです。ねっ、信さん?」
秋二に促され、信は瞳を揺らめかせながら渋々頷いた。
「傾城が衣装を自腹で買うなんて、当たり前だろ。お前は少し衣装代をケチりすぎだ。それに、そう悪い話でもないはずだ。顧客の幅が広がるぞ。じゃあ頼んだ」
「わかりました……」
伊沢は頷き、踵を返して座敷を出ていった。
信は唇を噛みしめて、絞り出すように言った。
「秋二、ごめん……せっかく貰ったのに仕事で使うことになってしまって……」
「いや全然!……むしろうれしいっていうか……とにかく、着なきゃイミないでしょ? 何か信さん、タンスの奥にしまって着なさそうな感じだったし」
「でも………」
「いいって! 汚れたらクリーニングに出しゃいいじゃん? タンスの肥やしよりよっぽどいいよ」「ごめん……」
うなだれた信に、秋二は明るく言った。
「でもおれはうれしいよ? 何か信さん守ってあげられるカンジがして」
「……戻るか。いい加減その衣装脱がないとな」
「うん! さ、行きましょう、ダンナ♪」
秋二はそう言うと信の腕に自分の腕を絡ませた。ふたりがそのまま出入り口の襖の方へ行くと、近くに立っていた章介が黙って戸を開けてくれた。
「悪い」
「あ、すみません――」
章介は頷くと、ふたりに続いて部屋を出た。南階段の方に向かいつつ、章介が秋二に問いかけた。
「出かけていたのか?」
「うん。記念撮影してきたっ」
その言いように、信は思わず笑った。
「信と?」よくわからない、といった顔をしている友人に、信は説明してやった。
「彼は飛び入り参加をしたんだよ、私との一枚を撮るために。私のこと好きだもんな?」
冗談めかして言い、秋二の頭をポンと叩くと、相手はその手を払ってそっぽを向いた。
「べ、べつにっ……そういうんじゃねぇよっ……!」
「公式より安い値段では売るなよ? 小竹さんが怒り狂うからな?」
大方焼き増しをして受付よりちょっと安く売りさばくために撮ったのだろうと当たりをつけていた信が忠告してやると、秋二は目を見開いた。そして何か言おうとしたが、ちょうどそのとき階段に着き、章介がぼそぼそと、階下(した)に行く、また明日な、と言ったので、タイミングを逃してしまったようだった。
信は章介に近づき、整っていた短髪を手でぐしゃっと乱してやると、その背をポンポン、と叩いて、また明日、と返した。沈んだ様子で格子、すなわち張り見世に向かう友人と代わってやりたい、と思いながら、信は相手を見送った。
相手が階下に消えるのを見届けると、信は秋二と共に階段を上り始めた。
「明日ってナニ?」
間髪入れずにぶつけられた問いに、信は答えた。
「一局打つんだ」「将棋かあ。おれも見に行っていー?」
「君は仕事だろう」
「ダイジョーブ、ちょっとくらい抜けても」
信は首を振って後輩を窘めた。
「ダメだ。お客さまは大事にしないと。――いくら優しいからといって甘えてはダメだ。親しき仲にも、だぞ」
「あーハイハイ、わかりましたよ、お母さん。……信さんって小言多いのが玉にキズなんだよなー」
「小言って……常識的なことを言ってるだけだぞ?」
「信さんは客に腰低すぎんだよ。もっとワガママ言ってやれよ、それでもアンタならトップだから」
そこでふたりは三階に着いた。左手に本部屋がずらっと並ぶ廊下を西に向かって直進する。営業中の見世は見習いたちに指示を飛ばす従業員や、客の登楼を告げる声や、宴会をしている座敷から漏れ聞こえる歓声などで騒々しかった。白銀楼の設計士が一体何を思って見世の部分を五階まで吹き抜けにしたのか、信にはさっぱりわからなかった。
建物の防音性についてつらつら考えていた信は秋二の声でハッと我に返った。
「まあ、今のやり方でうまくいってて、年季も縮んでんだから、おれがどーこー言える話でもないけどさ……信さんは早くココ、出たいんだもんな?」
「下手に出たほうがラクだからな。駆け引きは苦手だ」
「ここ出たら、どうするの?」
「まだ考えていない。――しかし学校に行きたいとは思っている」
「大学?」「ああ」
廊下の端まで来たふたりは、突き当りにある、居住区画と見世とを隔てる扉を開け、暖簾をくぐってすぐのところにある階段を再び上った。四階に着くと、秋二の部屋はすぐだった。
「信さんってココ来たの……」
彼が部屋の鍵を開けつつ聞いてくる。信は秋二に続いて部屋に入って、答えた。
「高校二年のときだ。君と同じだよ」
「何で来たかって、聞いてもいい?」
電気のついていない、廊下の光が差し込むだけの部屋で振り返って聞く秋二に信は説明した。
「――家出した。詳しくは言えないが、家庭環境にあまり恵まれなかったんだ。フラフラしてたら運悪く捕まってな。初めはこんな人身売買、違法だと思って色々法律関係の書籍を当たってみた。思った通り、合法ではなかったが、残念ながらそれを取り締まるべき機関の怠慢で放置されている……おかしいだろ、こんなに大々的に人身売買が横行しているのに、玉東は自由意志に基づく契約によって働く〝娼婦″や〝男娼″しかいない売春宿街、ということになってるんだ、建前上は」
「おかしい……ホント、おかしいよね……」
「ああ。だから白銀楼(ココ)を出たら、そういう問題に取り組みたいかな。ひとりでも、我々のような境遇にある者を減らしたいんだ」
「そう、だったんだ……勉強するために、がんばってるんだ……スゴいね……おれなんか何もないよ、将来どうしようとか……だからモチベーションも上がらないし……てかぶっちゃっけ、こんな仕事でモチベーション上げてどーすんの、とか思っちゃうし……おれ全然ダメだね」
「正論だと思う」「え?」
驚いて秋二が顔を上げると信は廊下の光を背に、じっと相手を見て真剣に言った。
「秋二の言い分は、完全に正しいと思う。君はまっとうなんだよ。――その通りだ、人権を無視された環境でモチベーションなんて上がるワケがない。……ただ性分でね。動いていないと落ち着かないんだ。だから、それぞれでいいんだよ。それぞれが自分の考えに従って動けばいい」
「……信さん、本当にだいじょうぶなんだよね? カラダ……」
「ああ、心配してくれてありがとう」
「カラダが資本なんだからね? ここ出る前に壊れちゃったら意味ないんだかんね?」
秋二は入り口付近に佇む信のそばにやってきて、確かめるようにその背に手を回し、肩に顎を乗せた。
「勝手にどっか行っちゃ、ヤだよ。……ちゃんとバイバイ言ってから行ってよ?」
「こんなに優しい後輩を持てて私は幸せ者だよ。わかった、ちゃんと別れは言いにくる。……まあ、まだまだ先の話だけどな。二年もある」
「ン……」
秋二は信の身体をギュッと抱きしめ、頷いた。
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