白銀楼物語 本編 (完結)

白銀楼物語本編~太陽の子~ 第1章 河岸見世屋、ウグイス庵

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          警告:暴力描写、暴力的な性描写、モブ姦あり。18歳以下の方は閲覧しないでください。




            ~愛とは、いかなる欲望からも解放された利他的行為のことである~



 部屋の中に足を踏み入れた相澤秋二は暫時目を見開いた。覚悟はしていたものの、予想以上にひどい光景に身体が固まってしまう。その河岸見世屋、ウグイス庵の内装はその辺の安っぽいラブホテル以下だった。一番上等の部屋のはずなのに、壁の漆喰は剥がれ、窓はひび割れ、薄暗く、じめっぽいそこは、かつて彼がいた、同じ部類に入るはずの場所とは雲泥の差だった。
人間の悪徳という悪徳を集積した場所として悪名高いその、現代に蘇った奴隷小屋街は、表向き、売春宿街として売春防止法撤廃後の世に合法的に存在していたが、その実前近代的な年季奉公を前提とした廓の連なる、東京近郊に半ば公然と設置された花街だった。その花街・玉東の北の外れに、ウグイス庵は同じような見世と共に建っていた。ここを追われればもうあとは、一度入ったら五体満足で帰れぬと言われる非合法の見世――他の見世と違って表向きさえ合法ではない場所――に売り飛ばされる他ないという、最下層の奴隷小屋――それがいわゆる河岸見世だった。
今は江戸ではない。どころか戦前でもない。人権意識が全世界で飛躍的に向上した二十一世紀後半――2084年も暮れようかという時節である。にもかかわらず、人身取引は公然と行われ、取り締まられることもなかった。どころか、かつての〝花街風″の区画を作ろうと、表向き自由意思による契約を結んだ娼婦や男娼がいるとされる売春宿街を作り、そこで人身売買を行う始末――吉原などで使われていた呼称を使って雰囲気を出す、というていで大見世、河岸見世、そして引手茶屋までができたわけだが、そこは実質的にも名前通り、人身売買の犠牲者たちを閉じ込める場所となっていた――。国内外の人権団体の再三の勧告にもかかわらず人身売買問題を放置してきた日本政府がもたらした現代悪が今、秋二の目の前にあった。
 傍らにベッドとちょっとした棚があるだけのその部屋で、秋二を招き入れた男は俯いたまま、どうぞおあがりください、と言った。タタミ一枚ないこの空間でどこへ上がれというのか、と内心思いながらも、相手の変わらなさに第二の衝撃を受けて秋二はそこに立ち尽くした。
 そこでやっと異変に気づいたらしい相手がおずおずと面を上げる。その瞬間、彼は聡明そうな瞳を一瞬見開いた。しかし次の瞬間には平静さを取り戻し、落ち着き払った声であいさつに入った。
「よくぞこんな辺境の地までいらっしゃいました。私、深雪と申します。お茶でも召しあがりませんか?」
「いっ、生きてたっ……! 信さん? 信さんだよね?」
 相手は秋二のことばを無視してしずしずとポットの方へ向かい、茶の準備をし始めた。秋二はツカツカと彼に歩み寄って続けた。
「ねぇ、無視しないでよっ……信さんなんだよねっ?」
「私は深雪です」
「っ………」
 取りつく島もない相手に、一瞬人違いなのでは、という疑問が頭をよぎる。しかしもう一度顔を確認したが、相手はどう見てもかつての友人だった。
「信さんっ……こんなトコで何してんだよっ?」
「見ての通り、商売ですが」
 至近距離まで迫った秋二と目を合わせず、相手――天野信――は顎を引いたまま答えた。
「畠山のトコにいるんじゃなかったのっ?」
「あまり大声を出さないでください……。ココは壁が紙並みに薄くてね……隣の部屋での会話を一言一句漏らさずに聞き取れるほどなんです」
 そのことばに、秋二はグッと大声を出したいのをこらえ、押し殺した声で詰問を続けた。
「だから畠山は? おれっ、実は――」
「あなたには関係のないことです」
「関係なくないっ!」
 秋二はガマンできずに声を荒げた。しかし無表情の相手は、目を合わせることも、何か言うこともなかった。
 秋二は拳を握りしめ、続けた。
「教えてくれるまで帰んないから」
「冷やかしに来たのなら帰ってください。時間は有意義に使いたいので」
 そっけなく言って読みかけの本を手に取った相手に、話をはぐらかされる危険を感じ、秋二は相手の腕をつかんだ。そして、こちらを見ようとしない相手に言った。
「脱いで」
「……そういうの、〝上″ではなんて言うか知ってますか? 無粋っていうんですよ」
 信の言っている〝上″の意味はすぐにわかった。かつてふたりが籍を置いていた大見世のことだ。
「でもココはそうじゃない、だろ?」
「確かに。でも、やる気もないのに挑発なんてするもんじゃありません」
「い、いいだろ、別に。客が言ってんだ、脱げよ」
「イヤです。話し相手がほしいならふさわしい店が他にもありますからそちらに行ってください」
 本から目を上げもせずに言う相手に、秋二は呟くように言った。
「それとも……脱げないワケでもあるの?」
「脱ぐ理由がありません」
「たとえば、全身キズだらけ、とか?」
 そう言った途端に信は本を置いて立ち上がり、逆に秋二の腕を掴んで、出入り口に引っ張っていった。腕から伝わるぬくもりに、相手の芳香に、秋二の心臓が歓喜の声を上げる。
「ホラ、もう帰って。返金はするから」
 そして騒ぎを聞きつけてやってきた支配人らしき人物に、この客はとりません、と言って部屋から押し出そうとした。すると信じられないことにその男はチッと舌打ちをして信の髪をわしづかんだ。
「そんなコト言える立場だと思ってんのか? キリキリ働かんか」
「でも……」
「でももクソもない。さっさと戻ってサービスしろ」
 そう低い声で恫喝したあと、気味の悪い猫なで声になって秋二に言った。
「すみませんねえ、お客さん。お手数おかけしてしまって。ちょっと打ちすえてやってもかまいませんので、ごゆっくり」
 そして二人の目の前で扉をバタンと閉じた。秋二はしばし呆気に取られてそのやりとりを反芻したあと、窓際まで後退して佇んでいる相手を見た。陽光に晒された顔は以前と同じように輝いていた。
「今の……何? アレ遣り手だよな? いつもあんなんなの?」
「今日はちょっとご機嫌ナナメですかね」
 信じられなかった。かつて同じ玉東にある男専門の廓、白銀楼にいたときに、見世を回す遣り手が、男妓にあんな扱いをしているのなんて見たことも聞いたことも、体験したこともなかったからだ。
「打つって、なに?」
「――とにかく、あなたとどうこうする気はありませんから。外からカギをかけられてしまったから三時間は出られないですけど、お金は返しますし、お茶もお菓子も……」
「金なんてどうでもいいよ! ただ何でこんなトコにいるのかってことを知りたいんだよっ」
「春をひさぐのが好きなんです。皆さんに夢を与える仕事ですから」
「何なのその敬語っ。やめてよっ!」
「あーハイハイ」
 信は仕方なさそうに笑った。その顔がかつての顔と重なって胸が苦しくなる。
「この仕事が好きだから続けてるんだよ」
「アイツに落とされたんだろ?……いくら、残ってるの?」
「いや、ココへは自分の意志で来たんですよ」
「ウソだ!」
 いちいち声を張り上げてしまう自分を抑えようとしたが、どうやらその試みは成功していなかった。信を絶対に説得しなければ、という焦りが動揺とパニックを生んでいた。
「マジメな信さんがそんなことするはずない」
「本当か? 君はどれくらい私のことを知っているんだ?――それに性産業に従事する方々に失礼だ、売春が不真面目な仕事だなんて言ったら。結構マジメに仕事してるんだぞ?お客様の好む話題、好む遊びにお付き合いできるように教養を深めたりな」
 信はそう言ってテーブルの上に鎮座ましている文庫本を指した。
「それは……〝上″での話だろ……ここに来る客層にそんな会話の通じる相手なんているかよ……」
「そう思うでしょう?――ところがどっこい」
 信はここでニコリと笑って初めて目を合わせた。
「思慮深い方もおられるんだよ。それに、みなさんいつもおもしろい話を聞かせてくれる……白銀じゃとても聞けなかったような、俗な笑い話をね」
 心底楽しそうにそう言う信に、秋二の胸の奥がさっきとは違う感じで痛くなった。ギリギリ締めつけられて、苦しい。
「じゃあまあまあ楽しくやってるってこと?」
「ええ。楽しいですよ」
「っ……納得するワケないだろっ!」
 秋二は信との距離を詰めた。
「いくらか言って。今のおれなら払ってやれるから」
「じゃあ、十億?」
「え――?」ことばを失っていると、信が艶やかに微笑んだ。
「そのくらいふっかけると思いますよ、浩二さんは」
「浩二って……まさか畠山にまだ……」
「ええ、切れてません」
「じゃあ何でこんな……」秋二は周りを見回しながら聞いた。かつて、玉東の男専門の廓の中では随一といわれた大見世、白銀楼でお職を張り続けていた――すなわち、ずっと売り上げトップだった――相手と、みすぼらしい部屋との落差に愕然としてうまくことばを紡げない。
 信は表情ひとつ変えずにさらりと言った。「ゲームなのです」
「ゲーム?」
「ええ。私がココでどれだけ生き延びられるか、どれだけトップを張れるかを賭けたゲームなんです。たまに様子を見にいらっしゃいますよ。だからかち合いたくなかったらもうここには――」
「やっぱサイテーだな、アイツ……自分の色子が苦しんでるの見て楽しむなんて、ヘンタイのゲスめ」
「まあまあ、そう悪し様に言わないで」
 秋二はドッカリとベッドに腰を下ろし、相手にも隣に座るよう指示した。信は一瞬躊躇したが、結局言われた通りにした。しかし、一向に目を合わせようとはしなかった。
「何であんなことしたんだよ……」
「……ダブル身請けの件ですか?」相手はあくまでことば遣いを改めないようだった。秋二は訂正を諦め、頷いた。
「おれに言わずに話を進めただろ……実を言うとおれあのとき、ちょっとワクワクしてたんだよ、信さんと一緒の家に住めるって……それなのに結局……」
「それはすみませんでした。結果的に出し抜いた形になってしまって……私があることないこと吹聴しなければお大尽暮らしできたかもしれないのに」
「でも……どうしてもフに落ちないことがあるんだよ……何でおれは売り飛ばされなかった? 莫大な身請け代を払って手に入れたのに一回もヤらずにポイ? オカシイよ」
「そうですかね? 浩二さまは結構頻繁に色子を替えますよ。気まぐれな方ですから」
「信さんが……頼んだんじゃないの? おれと一緒に引き取ってくれって……で、おれだけ解放させて……だってヤツは身請けされたいような相手じゃなかったろ?金はあるかもしれないけど、品はないし、シュミ悪いし、いい評判なんて聞かなかった。それなのにアイツを登楼らせ続けて、挙句身請け話まで受け入れて……あれは、おれのため……だったんじゃないの?」
 秋二はわずかな表情の変化も見逃すまいと信の横顔を凝視していたが、感情の揺らぎは認められなかった。
「熱いなあ……そんなに見られると顔に穴が開きますよ」
「こっち見て。目見て言って、マジで」
 そこで彼はようやく向き直った。そして眩しいものでも見るかのように目を細め、秋二と視線を合わせた。
「……それはうぬぼれというものですよ、青年。お話が上がったのは向こう側からです。まあ正直、君がロクにお仕事もせずにポイされたときはちょっと嫉妬しましたけどね。……ああ、君の眼はやはり透きとおるような琥珀色だ――男ぶりも上がりましたね。恰好から推測するに、政治家さんとでもいったところですか?」
「まぁ……」
「そうですか。ではこんなところなどへ来ずにもっといい廓へ行くべきです。接待は、そうですねえ、林華楼がオススメですが――」
「話逸らさないで。信さんは本当に昔からのらりくらりと話の核心を逸らすのがうまいんだから……」
「では、何が聞きたいんですか?もう充分に答えていると思いますが」
 秋二は唾を呑みこみ、覚悟を決めて質問を口にした。
「本当に……信さんが頼んだんじゃないの……?」
「ええ」信はアッサリ頷いた。
「全部浩二さんの気まぐれですよ。まあ、あの方も一応政財界に名を連ねているから、名を売る目的もあったんでしょうがね。人身売買の犠牲者を無償で解放してあげるなんて、人権団体にいいアピールになるでしょう? そういえば当時チャリティーに凝ってたなあ……」
 遠くを見るような目でそう言った信に、秋二はなけなしの勇気を振り絞って最後の質問をした。
「じゃあ信さんは……あのとき……あそこにいたとき、おれのこと………ちょっとでも好きだった?」
「? 好きでしたよ。型破りで、いつもエネルギーに満ちていて、自分を持っていて、まるで野生のトラみたいな君を見ているのはいつも楽しかった」
「そうじゃなくてッ……! そのっ……ヒトとしてとか、後輩としてとかじゃなくて、もっと………だっておれはずっとアンタのこと――好き、だったからさ。〝そーゆーイミ″で」
 秋二が勇気を振り絞ってそう言うと、信は驚いたように目を見開いた。そして二、三秒沈黙していたが、やがて面から今先一瞬見せた隙のある表情を消し去って首を振った。
「恋愛感情というイミでおっしゃっているのなら、答えはノーです。そういったモノを感じたことは一度もありません」
 そのひと言は秋二を奈落の底に突き落とした。
「友人とか、同僚としては好きでしたが」
「今……そういうひとは、いるの?」愚かな質問だと知りながら、そう問わずにはいられなかった。
「もちろん浩二さまです。感情がなければ一生を預けたりしません」
「こんなトコに落とされても?」
 それでも信は飄々と笑っていた。「ええ。まあ、少々歪んでいるのは認めますが」
「わかった」秋二は俯きがちに頷いた。
「そこまで言うなら、口出しできないか………じゃあお茶飲んだら相手してくれる?」
 そう言って立ち上がると、相手は固まった。「いいよね?」
「本がありますよ?」
「また読み聞かせでもしてくれるの? わー懐かしい。じゃあ最後の三十分はそのために残しとこう」
 秋二は緑茶を淹れながら、やっと我に返ったらしい相手を見てニヤッと笑った。
「賭け、してるんだよね? 帰さない方がトクだと思うよ?」
「生憎ですが間に合って―――」
「あのひと、そうカンタンにこなせる課題出すひとじゃなかったよね?」
「最近は甘いんですよ。情でも移ったんでしょうかね?」
「っ……いいから、来て」そう言っても信は動かなかった。
「元同僚を欲望の捌け口にするんですか? 良いご趣味をしてますね。そんなに恨み買うようなこと、しましたっけ?」
「っ……! そういうんじゃねえよっ、とにかく脱いで」
 このまま問答を続けていても埒が明かないと判断した秋二は、タンスの前にいた相手との距離をつめた。扉の方に逃げようとする信の腕を何とかつかみ、引き戻す。その瞬間、そのひと回り細くなった腕に息を呑んだ。
「なに、するんですかっ、放してっ……放してくださいっ!」
 そして、驚くほどに弱々しい抵抗にも。
まるで完全に調伏された者のように、相手の力は弱かった。これまで見たこともないほど愛する男が小さく見えて、秋二は大いに動揺した。しかしこの機を逃すわけにはいかないと思い、一旦そのことを頭から追い出し、相手の服を剥ぎにかかった。できればベッドのようなクッション性のあるものの上でやってやりたかったが、途中から余裕がなくなってきたので堅いフローリングの床に押し倒すハメになった。
 秋二は心の中で相手に謝りつつ、白いシャツをめくり上げた。そして息を呑んだ。
「……ンだよ、コレ……」
 服の下には予想以上の光景が広がっていた。顔や手など、見える部分以外の状態は惨憺たるものだった。手首には縄目の痕、腹には鞭打ちの痕、鎖骨付近には焼きごてを押しつけたようなヤケドの痕があり、そして極めつけに乳首と臍で金色のピアスが光っていた。
 信の居所を突きとめたそのときから、ある程度の覚悟はしていたつもりだったが、秋二は動揺と怒りを隠しきれなかった。
「ひでェ……畠山か? そうなんだろ? あの最低のヘンタイ野郎がっ……!」
 信の肩をつかんで声を震わせつつ聞く秋二に、信は答えずサッと服を直した。そして自分に乗っている秋二を思いきり突き飛ばし、立ち上がって、背を向けた。
「信さんっ、無視すんなよっ! なあ畠山なんだろっ? あのクズがその傷付けやがったんだろっ?」
「……私は、夫がクズ呼ばわりされるのは好みません」
 冷え冷えした声で言った信のことばに、秋二は頭を思いきり殴られたような衝撃を受けた。
「………夫?」
「ええ」信はこともなげに頷くと、ベッド脇の小ぶりの棚の引き出しから光るものを取り出した。そして左手の薬指にはめてみせた。
「生涯の伴侶なんですよ、彼は」
「け、結婚、したの? いつ?」
「一年前ですよ。アメリカに旅行に行ったときにね、プロポーズされて。夕暮れどきのロングアイランドは最高だった」
 心底幸せそうに微笑む信に一瞬呑まれかけ、秋二は首を振った。決して言っていることをマトモに受け取ってはいけない人物――それが信なのだ。なかなか本音や真実を吐露してくれない相手の真意を見抜くためには、行動を観察しなければならない、と教えてくれたのは、かつて信の親友だった男だった。
「その〝最高の夫″がこんなトコでボロボロになる〝生涯の伴侶″を放置してるワケね?」
「〝許してくれている″が正しいですかね」
 信はそう言ってから意味ありげな視線を秋二に送った。その流し目は、今まで一度も秋二が見たことのないような類の、あからさまに性的な匂いを漂わせたものだった。彼は、命じられて秋二と色事に及んだときでさえ、そんな顔をしたことはなかった。
「あんなトコロで長年働いていたものだから、身体が疼いて仕方ないのですよ。その点、浩二さんには感謝してるんです。まぁなかなかあんなひとはいないでしょうね」
 しかしこのくらいで退くつもりは、秋二にはさらさらなかった。
「こんな場末の見世で満足できるわけ? 客層良くないよな? フツーに考えておれが〝生涯の伴侶″だったらもうちっといいトコ用意してやるけどなあ。さすがに白銀みたいなトコはムリでも、少なくともこんなトコでは働かせないね」
そこで信はやっと黙った。今がチャンスだ。
「ホントに愛されてる?」
「たぶん、浩二さんは――」
「だったら言っといてよ、良い買い手がいますって。ウグイス(コ)庵(コ)にいたってたいした稼ぎになんないだろ? おれに譲ってもらえないか聞いて? さっき言われたくらいの額なら、用意できると思うし」
「何をおっしゃっているのかまったく――」
「畠山にとっても悪い話じゃないハズだ」秋二は信をぴしゃりと遮って断言した。
「ハイコレ名刺。アイツに渡しといて」
 しかし信は受け取らなかった。そしてその唇にイヤな感じの笑みを刻んでいった。
「ずっと君は友人だと思っていたが、どうやら私の勘違いだったようだ。一応、私にも選ぶ権利というものがあるんですがね」
「じゃあ、試してみよっか?」
 それでも秋二は怯まなかった。もう、信に騙されるのはコリゴリだったのだ。
かつて共にこの花街の南東地区にいた時代に、客に何度も信と〝共上げ″――ふたり以上の男妓を一緒に寝所に上げることを、白銀楼ではそう言った――された経験があった秋二は、相手が何だかんだ言いながら、一度もそれを拒まなかったことを覚えていた。
 行動を見ろ、と自分に言い聞かせつつ、秋二は相手に一歩近付いた。
「気が変わるかもよ?」
「変わるわけないでしょう?」
 じりじりと後退していた相手はついに窓側の壁――部屋の奥側だ――を背に、それ以上一歩も退けなくなった。秋二が髪に触ろうと手を伸ばした瞬間、相手の身体がビクッと震えた。日常的に暴力を振るわれているのに違いなかった。
 秋二は胸の痛みを感じつつ、一旦止めた手をもう少し伸ばし、その髪に触れた。
「短いのも似合うね。さっき会ったとき、一瞬だれかわかんなかったよ」
 かつて背中まであった豊かな亜麻色の髪はうなじのところでバッサリ切られ、地色の黒に戻っていた。畠山の意図でこうしたのにちがいなかった。秋二はもがき始めた相手の身体を押さえつけ、その首筋に顔を埋めた。さすがに舐めたらかわいそうだと思って手足を壁に磔にしたまま唇を這わせてゆく。相手の抵抗が強くなった。
「やめろっ! 秋二っ、頼むからっ!」
 相手の口調から他人行儀な敬語が消える。これは良い兆候だぞ、と思いつつ、秋二はぴしゃりと言った。
「やめない。これ、仕返しも兼ねてるから」
「?」相手の動きが止まった。
「約束、破ったでしょ、バイバイ言わずに行かないっておれとの約束、破った」
「………」
「六年も経って利子だいぶ膨れ上がっちゃってるけど、コツコツ返してくれればいいから」
「……あのときは、悪かったと思っている……まさかあんなことになるとは思わなくて……」
「まさか、ねえ」秋二は呟いて相手の服を脱がしにかかった。
「そのことについてはっ、申し訳なく思っているがっ……とにかくっ、できないっ! クリーンじゃないかもしれないからっ」
 秋二は手を止めた。信は深刻そうな面持ちになって続けた。
「ウグイス庵(ココ)ではセーフセックスが徹底されていない。定期的に検査はしているが、少し時間が経たないと結果が出ないものもある。リスクが大きすぎるんだ」
 自分が以前いた場所とは比べものにならぬ管理のずさんさに、秋二は一瞬ことばを失った。その隙をついてするりと壁と秋二の隙間から抜け出すと、信は続けた。
「わかったらバカな考えは捨てて元いた場所に戻りなさい」
 しかし退くわけにはいかなかった。秋二は喉に張りついた舌をムリヤリ動かし、反駁した。
「フーン、じゃあ畠山は危険な見世に〝大事な生涯の伴侶″がいることに何も言わないワケだ?」
「いや、心配はしてくれたよもちろん。だが――」
「もう、〝だが″と〝でも″と〝しかし″禁止! というか話すの禁止!」
 しびれを切らした秋二はそう叫ぶように言ってまた自分と距離を取ろうとしていた相手の腕をつかんで引き寄せ、その身体を抱きしめた。そして気持ち下にある信の肩に顎を乗せて呟くように言った。
「ずっと諦めてた……探して探して探して、やっと見つけたと思ったらアイツに……畠山にもう諦めろって、信さんはもういないんだって言われて………あのときおれがどれだけ絶望したか、自棄になったか、信さんにはきっとわかんない……畠山を恨んで恨んで、危うく手にかけそうになったんだからな」
 信が息を呑む。彼はもうすっかり他人行儀な口調で秋二を遠ざけるという当初の戦略も忘れて、驚いたような声音で聞いてきた。
「浩二さんと……会っていたのか?」
「義(お)両親(や)の扶養じゃなくなった日から探して探して、突き止めたよ」
 秋二は鼻をすすった。自分の顔面が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている自信があった。
「塀ン中にぶち込まれてもいいからアイツんとこ乗り込んでやりたいって思って、それを実行に移しかけたことも、正直、あった……でもそんなコトしたら、信さんに申し訳が立たないと思って何とか踏みとどまって、それからは合法的に信さんを取り返すためだけに生きてきた……それなのに突然、信さんはもう誰の手も届かないところに行ったって言われて……証拠まで見せられて………。ねえ信さん、実はおれ、今でもコレが夢か幻覚なんじゃないかと疑ってるんだけど……夢じゃ、ないよね? おれ、オカしくなったんじゃ、ないよね?」
「まったく君は――前々から行動力があるとは思っていたが、まさかこれほどとはね。君の顔を新聞で見ることにならなくてよかったよ」
「現実だ――リアルだ――! だって信さんはこんなに存在してて、あったかい………いつから? いつからココにいるの?」
 信は答えなかったが、秋二は答えを知っていた。楼主に――こんな掘っ立て小屋を〝妓楼″と呼べるとしたらの話だが――すでに聞いていたからだ。
「ねえ信さん、おれんトコに来てよ……何もイヤなことはしなくていいから。おれのこと、そんなにキライじゃなかっただろ? 〝トクベツ″じゃなくても別にいいし、何も要求しないからさ。初めはハシャいじゃってちょっとウザいかもしんないけど、でもココよりは良いだろ?」
「……行けるわけ、ないだろ……」
 そこで初めて信は秋二のことばにマトモに応答した。
「一生分の恩があるんだから。……あのひとが私にいくらかけてくださったか、いくらで大門をくぐらせてくださったかを知ったら、そんなことは言えなくなる。私は行けない。諦めてくれ」
 秋二は相手のことばにイラッとして身体を離し、その顔を見据えた。
「金積みゃ何したって許されるってのかよ? そんなん認めない。それを認めちゃったら人間じゃいられない。それに、どうしても負ってるモノ――正確には負ってるって信さんが思い込んでるモノだけど――が忘れられないってんなら、おれ、一生かけてでもアイツにその借り返すから。もうちっと出世したらたぶん、不可能じゃなくなると思うから。だからお願いだから――」
「やめてくれ!」
 信の悲鳴じみた声に、秋二は思わず口を噤んだ。相手は見たこともないような苦しげな表情で秋二に懇願した。
「頼むから、それ以上言わないでくれ。君のやさしさは残酷すぎる。私は行けないんだ」
 ぽろり、と涙の粒が右目からこぼれ落ちた。そのとき初めて、常に泰然自若としていて何ごとにも動じず、自分を含む多くの人間をその翼の下で庇護し続けていた相手が泣くのを見た秋二は大いに動揺し、信を解放すべく練ってきた計画や戦略の数々を一瞬忘れかけた。
「戻れなくなる。戻りたくなくなる」
「戻んなくていいんだよ。この手をつかむだけで、頷いてくれるだけでいいんだ。ホラ」
 秋二はそう言って右手を差し出した。信はこの上なく悲しげな表情でそれを見てから、首を振った。
「帰ってくれ。そしてもう二度と来ないでくれ」
 そして背を向け、扉をガンガン叩いて遣り手を呼びつけるとカギを開けさせた。先ほどは居丈高な態度で、キリキリ働かんか、とか言っていた遣り手も、信が畠山の名前を出した途端に大人しくなり、解錠に同意した。そして、信に命じられるまま部屋から秋二を、見世の用心棒二人と三人がかりで引きずりだした。
「信さんっ、信さんっ……!」
 廊下の絨毯の上に這わせられた秋二は必死で手を伸ばしたが、手も、そして声も、届かなかった。ドア枠のところに腕組みをして立った信は、既に冷静さを取り戻していた。さきほどの悲愴な表情など跡形もなく、彼は無表情で突き放すように言った。
「もし私に報いたいというのなら、君は、自分のいるべきところでやるべきことをやれ。それが一番の恩返しだ」
「あっ、待って、信さ――」
 最愛の男は秋二の返事を聞かずに背を向け、ドアを閉め、内側から施錠した。
「信さんっ! 話、聞いてよっ! 信さんっ!」
 薄汚い廊下には、信が遣り手や用心棒ともみ合う音と、秋二の叫び声だけがその後もしばらく虚しく響いていた。



「あッ……ぐぅ……あ゛ぁ゛~~~~!!」
 廓内に悲痛な叫び声が響き渡るが、まるでそれが日常であるかのように男妓や世話人たちは立ち働いていた。時刻は午後十時半。最も上等な部屋に囲われた者への虐待がまだ続くことを、この頃、店のほとんどの者は了解していた。
「マジ、毎度毎度エゲツねーよなあ」
「天井から逆さ吊りにされてムチとかフツーにあるらしいよ」
「畠山の旦那ってこえー。どんな大金積まれてもおれは行きたくないね」
「しっ!声が大きい……でも本当に深雪さんは何だってあんなひとに……」
「もっと良い身請け先も山とあったろうに……あの白銀でお職だったんだろ?」
 休憩室で色子たちがヒソヒソ話しているのもここ半年、日常の風景と化していた。
 半年前に、東京玉東の中でも場末に店を構える、最下層の男専用の見世――ウグイス庵――を突然珍客が見舞った。彼は大手金融会社の有力株主であり、自分の会社の取締役であり、政財界に大きなパイプを持つ大富豪、畠山浩二だった。朝鮮戦争、ベトナム戦争で富を築いた新興財閥の長のいとこの直系の子孫であり、その資金を利用して自分の会社を成功させたビジネスマンとして有名な人物だった。
 その彼が連れてきたのは、男専用の大見世のひとつである白銀楼から身請けしたとウワサの男妓だった。かつてナンバーワン売れっ子の座を意味するお職に何度もなったというこの囲われ人は、物腰柔らかで、品と教養があり、立ち居振る舞い美しく、気立て良く、整った造形の、文句のつけようのない人物だった。廓の中でしのぎを削っていたわりにはノンビリしていて読書を好み、優しく、他人への配慮を常に忘れぬ人物だった。
 なぜそのような〝ザ★仏″みたいなひとが悪魔じみた加虐趣味の男と一緒になってしまったのかは廓連中の中でもナゾだった。彼はただ畠山が好きだったからとしか言わなかった。しかし、日ごろの扱いを見るにつけその言は怪しく思われてくるのだった。
 畠山は一、二週に一度程度顔を見せるが、そのときは皆にとって緊張の時間だった。なんせほとんど社会の下層階級の者しか訪れないところだから畠山ほどの太客にお目にかかること自体がとても少ないのである。加えて、彼に目をつけられたら人生終了、という暗黙の了解もあって、彼が登楼する可能性のある土曜日は、一同、朝からソワソワと落ち着かないのだった。
「深雪さん、だいじょうぶかなあ」
 先ほどまでの絶叫に近い悲鳴は、哀願するような調子に変わっていた。客取り専用の部屋の区画から離れた休憩室までさえ聞こえてくるのだ、今日もまた相当痛めつけられているに違いなかった。
「これじゃ両隣は仕事にならんな」
「ああ……だから今日は早めに引けたよ。深雪さんの声、耳にこびりつくんだよなあ」
「わかるわかる。土曜はいつも寝つきが悪いのはそのせい」
 目のくりっとした青年がうなずくと、横でジュースをすすっていた同年代くらいの若い男が嗜めるように言った。
「コラッ、一番辛いのは深雪さんなんだから! そんなこと言うな」
「そうだよな、ゴメン……」
「なんとかしてあげられたらいいんだけど、何にもできないしなあ……」
「そうだよな、身体を拭いて手当てしてさしあげるぐらいしか……」
 そんなふうに後輩たちに心配されているとも知らず、信はすぎた快楽と痛みのはざまで苦悶していた。媚薬を入れられ、ペニスと両手両足を縛られて宙吊りにされて、まず鞭で打たれた。……違う、まず張り型だ……それを入れられて、それから鞭、蝋燭、バイブ、ローター、クリップ、たまに張り手とスタンガン……不能になるんじゃないかというくらいアソコが圧迫されて苦しい。
 言いたくないことを言わされるのも、侮辱されるのも苦しい。忘れた頃にやってくるスタンガンも怖い。もう許しを請うことばしか出てこない。謝罪と懇願しかできない。
「こ、浩二、さん……許し……、許してっ……! 痛い、痛いですッ! 浩二さん、お願いだからっ……!」
「私のことが好きか?」
「………」
 これはトリッキーな質問だ。イエスと答えて許してもらえるときとそうでないときがある。今日はどっち……。
「ホラ、好きか、愛してるかって聞いてんだよ、〝ピロートークの菊野″さん? 私を喜ばせるようなことを言ってみろ」
「わ、わかりません」
「何だと!? 貴様、囲われてる分際でほざくか!」
 間違った――!
「も、申し訳ありません、申し訳……あぁッ!」
 鋭い打擲音と共に右太腿に焼けるような痛みが走る―――もう、いいや。どうせどっちにしろダメな日はある。
「私を愛しているか!?」
 打擲。
「お、お慕いしています」
「……本当に思ってもいないことを簡単に口にするな、お前は。ああ、でも」
 そう言って畠山は薄く笑った。
「身体は満足しているか。だから一緒になったのか? 私のテクが気に入っからか? お前は生粋の淫乱だからな、身体が疼いて仕方なかったんだろう。……ホラ、こんなに強く握っても」
「あ゛ぁ゛ッ!」
「蜜をダラダラ垂らしてやがる……まったくお前は名器だよ。嬲っていて飽きない」
「ぐッ……あ゛ーーーーッ!……ムリ、もうムリですッ! そんなに入らなッ!」
 後孔が限界まで拡張されているのがわかる。いつか直腸が破れて死にそうだとずっと思っていたが、不思議なことにまだ生きていた。ぼんやりした頭で、人間の身体というのは予想外に強靭だな、と考えていると、乳首のピアスを強く引かれた。
「あッ!……くッくぅッ……」
 ついで尻を叩かれる。もう限界だった。ペニスが爆発しそうだ。
「浩二さんッ! もう……もうムリッ!……イかせてください、イかせてッ!」
 もはや自分が何を口走っているのかもわからなかった。我ながら近所迷惑だな、と思いながらそれでも耐えきれなくて懇願し続ける。
「お願いしますッ! もう、ムリですッ! 浩二さんッ! あ~~~~~~!!」
「やっと堕ちてきたな、気高い聖職者が――」
「ギャアッ……グッアァ~~~~~!」
 ペニスを握り潰されるのと同時に空イキしたらしい。全身が痙攣して瞼の裏がハレーションを起こす。
「クッ……アァ、ハァ、ハァ、ハァ」
 ゼイゼイ息をついていると、相手が再び一物を握った。強く。
「ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ーーーーーー!……はッ、うッ、うッ……」
 今日こそ本当に潰されて、もう一生誰のことも抱けなくなるかも……秋二も。そう思った途端、無性に悲しくなってきて、嗚咽が漏れた。三日前の天国を思い出しながら、地獄の責め苦に耐える。
神さま、私はこのような仕打ちをされるために生まれてきたのでしょうか?
「お前の涙は格別だ。どんな酒よりも美味い」
 私はこうされて当然の人間なのでしょうか?
「お前が、責められて責められて責められて最後に耐えきれず崩れる瞬間には最高に興奮する。コラ、聞いてるのか? 褒めてるんだぞ」
 だとしたら私はいったいどのような罪を犯したのでしょうか? 教えてください。
「ああ、少しやり過ぎたか……おい、下ろせ」
 神さま、教えて。直します、悔い改めますから。
「これは……ご自宅に連れ帰って医師に診せた方が良いかと……我々の方では手に余ります。こちらにはロクな医者がおりませんので」
「そうだな。では手配の車を――」
 そこで意識が途切れた。

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