栄徳高校女子野球部! スピンオフ (更新停滞中)

23.過ちを犯した日

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                                  ※R18 

 澤一樹がはじめて幼馴染みと一線を越えたのは、二〇六四年になって間もない、雪降るある日曜日のことだった。
 澤はその日、球団をやめて方向性を見失い、既に地に落ちていた自尊心を、まるで人生の落後者でも見るかのような両親の冷たい眼差しにより、更にズタボロに傷付けられた最悪の状態で、サンライズ退団以来会っていなかった友人、榛名玲と再会していた。
 澤の決断について未だ納得していないはずの榛名は、それでも、コンパスを失った航海士のようにフラフラしている澤を責めることもなく、むしろ心配そうな面持ちで自分の部屋に迎え入れた。
大学進学を機にひとり暮らしを始めた榛名のアパートには、澤の他には誰も呼ばれていなかった。そしてそのことが、実家を出て以来、例年、多くはないが何人かの友人を招いて正月を祝う榛名がいかに自分を気遣ってくれているかの証左に思えて、澤は、自分の冷え切って固まっていた心が、わずかに温まり、ゆっくり溶け出したのを感じた。
「座って」
 榛名は、彼女に続いて台所についていこうとする澤を制して言った。澤は言われた通り、おせちが入った重箱と、食器一式が並んだこたつ机の、ベッド側の場所に腰を下ろした。左手の窓に目をやると、大ぶりの湿った雪が降り続けていた。
 澤は、正面の机に山と積まれている、大学で使っているらしい書籍や論文を見て、軽く息をついた。
 榛名はもう、先に進み始めているのだな、と思った。それに引き換え、自分は―――。
 澤がネガティブな考えに引きずり込まれる直前に、榛名が土鍋を掲げ持ってやってきた。そして、それをカセットコンロの上に置くと、横にあったチャッカマンを指し示し、日をつけるよう澤に言った。
 澤は、暗い思考の渦に影響されて固まりかけていた右手をむりやり動かし、コンロに火をつけた。沸騰直前にまで温められていた土鍋の中身――焼き豆腐や、ネギや、キノコ類や、薄切り肉など――がすぐにぐつぐつと音を立てて煮え始める。そしてそれと同時に、食欲をそそる香りが漂ってきて鼻腔をくすぐった。
「さ、食べるか。いただきます」
 榛名は両手を合わせてから箸を取って、鍋の中身を小皿に取り分け始めた。
「何してんだ?遠慮せずに取れよ」
 まだ箸に手をつけずにいる澤を見て榛名が言った。
「………」
 澤が黙っていると、榛名は箸を動かす手を止めた。
「何だ、何か言いたいことでもあるのか?」
 榛名にまっすぐ見つめられてたじろぎながらも、澤は何とか言葉を絞り出した。
「……他の人は?」
「ああ、皆スキーやら何やら用事があって忙しいみたいだ」
「……ホント?」
「ホント」
 たぶんウソだな、と思った。しかし、榛名がそれ以上会話を続ける気が無いらしいのを見てとった澤はそれ以上追及しなかった。そしておずおずと鍋をつつき始める。
「おせちの方も食べろよ。おれが作ったワケじゃないけど……何か昆布巻きに失敗したとか言って騒いでたが」
 榛名は、例年彼女の父親が作ってくれているらしいおせちの重箱を澤の方に押しやって言った。
「ありがと……あとコレ、どうぞ」
 澤はそこで、親から渡すよう言いつかっていた手土産の存在を思い出し、脇にあった紙袋を榛名に手渡した。
「いつも悪いな。お、薄皮饅頭じゃん。やった」
 榛名は紙袋を覗き込み、中身を確かめると、心底嬉しそうに言った。その笑顔に、ここ最近感性を失ったかのように、何ごとが起きても微動だにしなかった心が再び呼吸をし出したような気がした。榛名の投手生命が断ち切られたことを知ったその日から、ずっと澤を責め苛んでいた息苦しさが消失し、昔のように息が吸えるようになったのだ。
 澤は目を伏せ気味に食事を再開した。ここ二、三カ月で初めて食べ物の味を感じることができた。
「いつぐらいまでこっちにいるの?」
「十日までかな……和海さんのトレーニングがあるから」
「また沖縄に?」
 澤はうなずいた。
 彼女の伴侶であるプロ野球選手の横川和海は、毎年沖縄で冬季トレーニング――シーズンオフ中の選手たちが筋力や瞬発力の維持のためにやる鍛錬――をしていた。現役時代――といってもたった三年間だが――は澤も彼女と共に冬はそこで身体を鍛えていた。しかし、今年からは付き添いだった。
「そうか……」
 榛名はそう言ったのち、すこし間を空けてから再び口を開いた。
「いつでも、戻ってきていいからな」
 澤がその言葉の意味を理解するまでには十数秒を要した。
「ホラ、東京(むこう)だと記者やら何やらに追いかけまわされて大変だろ?電話一本くれれば、ウチ来ていいから。どーせヒマな大学生だし」
 澤はしばし言葉を失って、真剣な、そして案じるような表情でこちらを見すえる榛名と見つめ合った。
「あ、あり、がとう……でも私、大丈夫だから」
 本当は、〝大丈夫″などではなかった。しかしそれ以上に、榛名にもう迷惑をかけたくないという思いが大きくて、とても好意に甘えることなどできなかった。
「〝大丈夫″そうには見えないが……お前ヤセたよ。自分で気付いてる?」
「運動しなくなったから……」
「それだけじゃないだろ。ちゃんと食ってんのか?」
 榛名は目を細めて、澤の真意を推し量るかのようにこちらを見た。澤はその視線に耐えきれずに目を逸らした。
 榛名は吐息をつき、お前はそうやっていつもすぐ抱え込むから、と呟くように言って、食事を再開した。
 澤は自分を案じてくれている幼馴染みに申し訳なさを感じつつも、それでも自分の心の内を曝け出すことができなかった。榛名に迷惑をかけたくなかったからだ。もし本当のことを言えば、榛名が思い悩むことは目に見えていた。
 澤が口を閉ざしたまま語ろうとしないのを見てとったらしい榛名はその後、もうその話題に触れなかった。代わりに、他愛のない話を、傍目にもわかるほどムリヤリ絞り出して会話を繋げた。
普段、あまり口数の多くない榛名と、一般大衆に対してはそうだが、榛名に対してのみ舌の動きがなめらかになる澤が顔を合わせると、大抵澤の方が何か話題を振り、榛名がそれに応じる、という形になるのだが、今日、澤は全く喋る気になれず黙り込みがちであったため、二人の役割は逆転していた。そしてそのことが、榛名がいかに澤に気を遣っているかを示していた。
 澤は、榛名に気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思いつつも、野球を奪われた幼馴染みを見るたびに悲しみがこみ上げてきて、とても明るく振る舞うことができずにいた。そのため、必然的に酒量が増え、気付けば空きビン・空き缶が部屋中に散乱するに至っていたのだった。
 どんなに飲んでも酒に呑まれることのない、いわゆる〝ザル″の澤の脳はまだ冴えわたっていたが、珍しく許容量をオーバーしてしまったらしい榛名は、頬を赤らめ、とろりとした目で手元のおしぼりをいじくり回していた。その手がグラスに再び伸びかけたのを見て、さすがにもうこれ以上は飲ませない方が良いだろう、と判断し、澤はグラスを取り上げた。
その瞬間、榛名と視線がかち合い、澤は息を呑んだ。榛名は、横川が自分を触ってくるときと同じ目をしていた。熱を孕んだ、焦がれるようなその目つきに射抜かれて、身体が動かなくなった。それに次いで熱い血潮が全身を駆け巡って、身体が火照り出す。
 澤は、榛名から取り上げたグラスをこたつ机の上に静かに置くと、青と黄の格子縞模様のシャツのボタンに手をかけた。
 こんなことは間違っている、するべきではない、と警告する声は遠く、澤は榛名の目を見すえながら、ボタンをひとつ、またひとつと外していった。
 榛名の喉が動いて、彼女がつばを呑みこんだのがわかる。澤はボタンをすべて外し終えると、立ち上がって、自分に目がクギ付けになっている榛名のそばに腰を下ろした。そして、意図的に身体をちぢこめて、下から榛名を見上げ、その身を擦りよせた。その瞬間、それまで凍りついたように動かなかった榛名がはじかれたように手を伸ばしてきた。そして澤の首、鎖骨、肩へ順繰りに指を這わせたのち、性急な動作でシャツを剥いで背中に手を回してきた。
 榛名の顔がすごい勢いで近付いてきて、唇に温かく湿ったモノが押しつけられ、視界が反転した。気がつけば床に押し倒されていた。澤は据わりきった目で自分の服を脱がしにかかる幼なじみを、深い満足と共に見つめた。
 榛名はいつもそうだ、と珍しく酔いが回ったのか火照りはじめた体と、それに伴って靄がかかりはじめた頭で思った。
 彼女は人への配慮を忘れない――酒に呑まれた状態でさえも。
 その証拠に、澤を床に押し倒すとき、その背に座布団をあてがうのを忘れなかった。とても手慣れていたから――ほとんど無意識でやっているように見えた――きっと前にもこういう状況になったことがあったに違いない。多分何回も。
 相手は誰だったのだろう。榛名はバイセクシュアルだと誰かに聞いた覚えがあるから、相手は男かもしれない――そういえばゼミで気の合う相手を見つけたとか何とか言っていたような気がする……その、東海林とかいう男だろうか?じゃあその前は?
 まだ野球をやっていた頃、榛名には熱烈な追っかけがいた。わりと大柄で、決して万人受けするような容姿はしていなかったが、その全身から滲み出るエネルギーと闊達とした性格を、榛名は嫌っていなかった。いやむしろ、好ましく思っていたようだった。
 榛名は元来、人の見た目を気にするタイプではない。自分は王子然とした風貌をしているのに、人の容姿とか体型について言及している姿を見たことがなかった。
 それは澤に対しても同じで、よく人が〝美形″と称する顔を、そんなふうに言ってきたことは長い付き合いの中で一度もなかった。ただ、自分と顔の系統が似ている、とは言っていたが。
 そして、榛名のそういう所が澤は好きだった。容姿に限らず、見えるものだけで相手を測らない彼女の知性を尊敬し、憧れていた。彼女の〝トクベツ″になれる人はさぞかし幸せだろうな、と何度思ったかしれない。
 その、澤が長らく渇望し、そして手に入れることのできなかった〝トクベツ″の地位を、平井はおそらく勝ち取っていた。彼女は、野球部に入っていなかったにもかかわらず、部員と共に特等席で応援することを許されていたし、他のファンと違って差し入れも許されたし、時に、スコアをつけるのを手伝うことさえ許されていたのだから。彼女――平井詠歌は間違いなく、榛名の〝特別″だった。
その上、性格も良かったな、と澤は相手との邂逅を思い出した――……平井は、澤が榛名の応援に行っても嫌な顔をしなかった。部の人間でないどころか完全に外部の人間の自分が休みのたびに榛名のストーカーをしているのを見ても、気にしたようすを見せなかった。――それどころか、慕ってきさえしたのだ。彼女は本当に懐の深いひとだった。榛名を特別に思い、また、特別に思われたいのは明らかなのに、同じように思い、そして榛名と自分を隔てるすべてのものを排除しようとした自分と違って、彼女は排他的になることがなかった。人と榛名を共有することを嫌がらなかったのだ。そのあたりが榛名に気に入られた理由だったに違いない、と澤はあたりをつけていた。
 では榛名は、その気に入った追っかけの平井ともこんなふうに肌を合わせて、誰よりも近い距離で、身体も本音も曝け出し合ったのだろうか――?
 澤はそこまで考えて、意図的に思考を停止させた。胸の奥に不意についた、イヤな名を持つ感情の炎を直視したくなかったからだ。首を振って、一瞬自分を捕らえかけた怪物を振り払うと、榛名の背中に手を回した。すると、首筋のあたりを貪るように舐めたり食んだりしていた榛名が顔を上げ、彼女の目を捕らえた。
 榛名の、うるみ、情欲にギラついた目が放つ圧倒的な色気に、澤はグラッとした。そして無意識的に相手のうなじに手をかけて自分の方へ引き寄せ、キスをした。歯と歯が当たりそうになるほど強引で性急なキスだった。普段恋人には絶対にやらない――というか、誰に対してもどんな状況下でもやってはならないと澤が個人的に思っている類の、抑制されていない口づけだった。
 ただ己の欲望を相手にぶつけるだけの、相手への配慮なき行為。澤はこの類のやり方を最も敬遠していた。けれど、どうやら思った以上に酔いが回っていたらしく、この瞬間、彼女はまったく自分をコントロールすることができなかった。
 相手の唇をこじ開け、苦しげに眉を寄せるのもお構いなしで腔内を蹂躙する。頬の内側、上あごのウラ、歯、舌を隅から隅までねぶった。自分の粘膜と相手のそれとをすり合わせ、注がれる唾液を飲み下した。
 技巧的には恋人である横川よりもはるかに拙いはずの榛名――ポジションは下だったが、行為をリードしていたのは澤の側だった――との行為がなぜこんなにも自分を精神的にも身体的にも満足させるのかを、澤はほとんど一瞬のうちに理解した――それが長らく自分が求めていたモノだったからだ。何かわからないままずっと求めていたモノの正体を、澤はついにこの日、掴んだのだ。
 ショックではあったが、同時に、ああやっぱり、と納得している自分がいたのも確かだった。どんな人間に対しても、どんな状況にあっても、何かや誰かに――横川にさえも――ほとんど性的な反応をすることがなかった自分が、同じロッカールームで着がえる幼馴染みを直視できなかったり、薄着の季節に何となく近寄りがたくなったり、何度も榛名の夢を見てしまったりする――それらの、深く考えると何かマズい結論をもたらしそうな出来事の数々を、澤はこれまで意識的に頭の中から閉め出していた。大事な友人を性の対象としてみるなど赦されないと思ったからだ。
 榛名は心の底から善良で思いやりのある人間だった。ぶっきらぼうで直截な物言いをするがゆえに敬遠されることもあるが、あえて人を傷つけるようなことなんて絶対に言わない、芯から優しく清らかなひとだった。
 だからもし、自分が邪な思いを抱いてしまったら、汚してしまうと思った。それになぜかはわからないが自分に対して負い目を抱いているらしい榛名は、好意を打ち明けたら拒絶できないだろうと思った。
 ヘンなところで自分に甘い榛名はたぶん、最終的には――受け入れてくれる。
 中学で投手を潰したことや、高校で丹波をイビり抜いたり甲子園でチームを意図的に負けさせたことを、なんだかんだ言いながらも結局は許してくれたのと同じように。
 榛名はたぶん受け入れてくれる。
 付き合ってほしいと言ったらそうしてくれるだろうし、心も体も明け渡せと要求したら、従うだろう。
 だけどそうしたら榛名の人生はどうなる?――澤は榛名の身体をまさぐりながら考えた。
 研究者になって世界を股にかける夢はどうなる?
 好きなひとと添い遂げたいという思いはどうなる?
 もし自分がすべて奪ってしまったら、榛名を不幸にしてしまう。
 澤は、自分の榛名への独占欲が並でないことを自覚していた。もし今この瞬間やっと気づいた自分の〝欲望″に従って動けば、自分は怪物になってしまうであろうこともわかっていた。
 だから、榛名とは真剣に付き合ってはならないのだ。もし運よく彼女が自分に興味を持ってくれたとしても、踏みこんではいけない。そうでもしたら最後、泥沼にハマッて抜け出せなくなるだろう。
 だから、コレが最初で最後だ――澤は胸に痛みを覚えながら、その胸に顔を埋める榛名の後頭部に手をやって、髪の毛を梳いた。そうして相手の舌や手が与えてくる刺激にと息をつきながら、澤は出会ったころのことを思い出していた。

 快活で、明るくて、誰にでも分け隔てなく接する子だった。遠方から引っ越してきて、何となく遠巻きにされていた澤に一番に声をかけてくれたのは、他ならぬ彼女だった。
『一緒にあそぼ?』
 確かそれが一番最初に話しかけられたときに言われたセリフだったように思う。
 澤は今でもありありと、未知の共同体に榛名が自分を引き入れてくれたときの安心感を思い出すことができた。そして榛名のイキイキした瞳も。

「う……はッ……」
「気持ちいい?澤」
「うん……名前……名前で呼んで」
 成長した榛名が口元に笑みを刻み、一樹、と澤の耳元で囁いた。澤はそれだけでもう感極まり、ほとんど達しそうだった。
「玲さん……」
「こんなときまでさん付け?」
 榛名は苦笑し、左手で澤の乳首をいじりながら耳に口もとを寄せたまま言った。
「玲、でしょ。ホラ呼んでごらん」
 左耳に流し込まれる相手の囁き声はビロードのように艶があって、セクシーで、澤の腰を直撃した。
 彼女は喘ぎながら、きれぎれに言われた通りのことを口にした。とんでもない快感と幸福感に、意識がぼんやりしてくる。澤はこの時点で自分が酒に酔っているわけではないことを自覚していた。飲み過ぎたときはこれまで辿ったような過程を、通常辿らないからだ。こんなに明瞭に物事を考えられないし――澤は今、意識が混濁しつつあったが、頭の芯はさえわたっていて論理的にモノを考え、過去の記憶を容易に思い起こすことができる状態だった――、セックスをしてもほとんど快楽を感じない。淡い幸福感と浮遊感はあるが、どちらかというと五感がマヒしているカンジだ。
 それに対して今は、ちょっと囁かれただけで背筋にビリビリ電流は走るわ、昔のことを走馬灯のように思いだすわでめまぐるしく、血中アルコール濃度がさほど――というか全然高くないのは明らかだった。
 自分は酒に酔っているのではない、〝榛名に″酔っているのだ、と澤は思った。
 このどうしようもなく魅力的なヒーローに、自分は酔わされている。ほとんど正常な判断がくだせぬ有様になるほどに。
「そういえばお前って……」
 下半身への刺激を開始しながら榛名が口を開いた。
「何であんな他人行儀な呼び方するようになったんだっけ?」
「それは……習慣で……」
「習慣?……ああ、一樹って結構お嬢さまだもんな」
 澤は黙って頷いた。
「こっちに来るまでは私立に通ってたんだっけ?」
「そう。だから玲さ……玲以外のこともそうやって呼んでたでしょ?」
 それはウソではないにしろ、完全な真実というわけでもなかった。澤は確かに埼玉では私大付属の幼稚園と小学校に通っていて、友人とは丁寧に名前を呼び合う習慣があり、宮城に越してきてからもしばらくはそうしていた。
 だが、公立の小学校のクラスメイトにそういう言葉遣いをする子はほとんどいなかった。さん付けで人を呼ぶという行為はむしろよそよそしさの象徴として受け止められ、あまりいい印象を持たれていなかった。
 だから澤はまもなく、クラスメイトにさん付けをするのをやめた。榛名のことも、小学二年の終わりごろからは、はるちゃん、と周りの子と同じように呼び出した。
 それがもとの呼び名に戻ったのは、小学四年の秋の、あの〝事故″が起こった日だった。榛名のもっとも大切な人を殺したも同然の自分が、なれなれしく彼女を呼ぶなど、赦されないと思ったから、呼び名を〝はるちゃん″から〝榛名さん″に戻した。
 本当は一緒に所属していた少年野球のチームも辞めて、かねがね親から言われていた通り、私立の学校に転校すべきだったのだが、榛名がチームを辞めさせてくれず、自分も転校を決意できなかった。その時点でもう、榛名の元から離れがたくなっていたからだ。
 榛名のそばにいる権利など自分に無いことは承知していたし、自分の存在が彼女を苦しめていることもわかっていた。それでも離れられなかった。
 それで罪を償うという口実を作って彼女に付きまとい続けた。
 中学も親の反対を押し切って公立に進み、高校も、親のお眼鏡にはとても適わぬ栄徳高校に行った。――母親は栄徳のことを〝ロクな教育をせず、スポーツで名を上げることばかりにかまけている三流校″とか〝脳まで筋肉に侵されている人種の集まり″とか言って厳しく批判していた。そして、その〝人類よりはむしろ霊長類に近い″生徒たちの中で上位五パーセントをキープできなければ即〝より文明的な″学校に転校させる、と常々澤を脅していた――。……榛名のそばにいたかったから。
 共通の趣味である野球は良い口実だった。野球が面白くなかったとは言わないが、澤にとってのプライオリティはあくまで榛名だった。だから榛名が辞めれば辞めただろうし、それで後悔することもなかったろうと思う。高校で横川に出会うまで、野球が心底愉しいと思ったことは一度もなかった。リードなどには興味をそそられ、いろいろと戦法を考えたものだったが、それよりむしろ重圧を感じることの方が多くて、練習にも榛名が行くから行っているようなものだった。

 出会ってから十余年――澤の世界は榛名を軸として回ってきた。榛名がそれを望まないときでもそうであることを強い、辛いときに寄りかかる樹にならせた。
 だからもう、自分は榛名を解放するべきなのだ、と澤は高みに上りつめながら思った。――榛名を自分という鎖から解き放って自由にしてやらなければ――。
 でも、今日だけ……今日だけ、榛名を独占させてください……今日だけ彼女と、最も深いところで繋がらせてください――澤は曇った窓の外に拡がっているであろう天を仰ぎ、神に赦しを請うた。
 舞い降りてくる切片はより大粒に、より頻繁になって、世界に降り注いでいた。
 
                                   *

「一樹……おれ、いったいお前に何を……」
 翌朝になっても雪はまだ降り続いていた。
 澤は顔を真っ青にして自分を見る榛名の声で目覚め、ベッドの上で身を起こした。そして室内に視線を走らせた。
 床に散乱した二人分の衣服、素っ裸で同衾しているふたり――誰がどう解釈しても同じ答えに行きつく他ない光景だった。
「一樹、教えてくれ……おれ、酔っててほとんど覚えてなくて……」
 最初から最後までハッキリくっきり覚えている澤に対し、榛名はどうやら断片的な記憶しかないようだった。
 澤は胸中でため息をつき、口を開いた。
「何もしてない……襲ったのは私の方」
「ウソこくな」
 榛名は即座に否定した。
「お前からのハズない。だってお前は………。最初に動いたのはおれだろ?」
「私が初めに誘って……」
 しかし澤が話を終える前に榛名が割り込み、断言口調で言った。
「おれだ……おれが酔ってやらかしちまったんだ。悪かった、赦してくれ!」
「そんな、謝る必要なんて……」
「おれは最低だ……!よりによって一樹が大変なこの時期に弱みに付け込むようなマネを……!」
 取り乱した榛名は、ベッドから飛び降りて服を身につけ、部屋を行ったり来たりし出した。
「一樹、本当に、誓ってあんなことするつもりはなかった……信じてくれ」
 澤はそれを聞いて、昨夜一度は良い状態になったはずの気分が再び降下してゆくのを感じた。
 〝あんなことするつもりじゃなかった″――榛名はそう言った。つまり彼女は訳も分からず、その場の勢いで自分と身体を合わせただけだったのだ。
 相手は誰でもよかった。澤である必要などなかった。
「後悔……してるの?」
 澤がおずおずと聞くと、榛名は盛大に頷いた。あまりにも振りが大きいので、首がもげるかと思うくらいだった。
「してる、すごくしてる。もう絶対にやらない!だから……!だから、友達やめないでくれ!」
「そう……」
 澤は呟くようにそう言うと、ベッドから降りて、相手と同じように衣服を身に着けた。そして、片付けしよっか、と言って榛名を振り返った。
 榛名は暫時、何か言いたそうに口をパクパク開閉させていたが、結局一言も口にせずに頷いた。この瞬間、昨夜の出来事はなかったことにする、という暗黙の合意が二人の間でなされたのだった。

 榛名が大学の同級生と付き合いだしたのは、それからいくらもしないうちのことだった。



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