栄徳高校女子野球部! 本編 (オリジナル版更新中)

第9章/第12章 四回戦

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あれ、自分、意外に焦ってねえな。
次々打者を討ち取る後輩の豪腕投手、丹波ミサキを見ながら、香坂優は自嘲気味に思った。
今日は午後から、第24回全国女子高校野球選手権大会・宮城大会の準々決勝が、コボスタ宮城で執り行われていた。一昔前とは違い、高校球児たちの体に配慮して、ゲームは夕方から始められる。時計に目をやると6時だった。
スコアボードの栄徳高校の1回裏の欄は、すでに1と表示されている。初回、1本のヒットも許さなかった丹波は、2回になっても相変わらず好調に投げていた。

今日、香坂の出番はなかった。監督からは、完投はないものの、初戦から三回戦まで全試合で登板のあった香坂を休ませるための丹波起用だと説明されていたが、それは疑わしいものだと思っていた。
「丹波すごいよねえ」
香坂の考えを読んだかのように、隣に座る百合丘雅(ゆりおか・まさ)が感嘆した。
「あんなんに入ってこられたら、2軍のうちらは立つ瀬ないよ」
「私だって焦ってるよ。あいつ、打撃もいいしさ。あーいうのをエースの器っていうんだろうなあ。気も強いし。――榛名も私みたいなのより丹波がライバルのほうがいいだろうなあ」
「香ちゃんってもうエースあきらめてたの?」
驚いたように聞く百合丘に、香坂は投げやりにうなずいた。
「もうとっくにあきらめてるよ。私はもともとその器の人間じゃないしさ」
「そっかあ、じゃあうちと同じだね」
百合丘ののんびりした口調に、自然と気持ちが和らいでいった。彼女には人を安心させる能力でもあるのだろうか、と思いながら再び前を向く。高校入学以来、どんなに人に会いたくない日でも隣にいることを許せた相手はこの人物だけだった。
重い打音に、彼女は眼を見開いた。丹波はついにヒットを打たれたようだ。
それでも動じた様子もなく再び構える彼女を眺めながら、隣に座るチームメイト兼、クラスメイトについて思いを巡らせた。
百合丘雅は、身の丈と言うものをよく知っている人間だった。彼女は、普通の高校の野球部では十分通用する実力を持っていたが、特待生制度で他県からも選手を引っ張ってくるような栄徳高校で、自分が1軍になるのは難しい、ということを初めから理解していた。そのため、早い段階で裏方に回ることを決め、それまで投手をやっていた経験を生かし、打撃投手としてチームに貢献していた。
百合丘はもともと野球のために栄徳に入ってきたわけではないらしいからまだしもだが、それでも、1軍より出られる試合数は少ないし、注目されないし、活躍している下級生を見なければならないしで悩むこともあるだろうに、本心を隠すのがうまいのか、たんに能天気なのか、彼女は、思い悩む姿を見せることがなかった。
丹波に“ナイスピッチー!”と叫ぶ百合丘を横目で見ながら、自分みたいな人間は、一生彼女を理解することはできないだろうな、と思った。

理解できないと言えば、現在、金沢と共にチームを支えている2年生の澤一樹のことも今一つ分からなかった。リードはうまいし、肩は強いし、投手を立てるし、名捕手と言えば名捕手なんだろう。
しかし、付き合い始めて1年半がたった今でも、彼女の考えていることが分からなかった。
やる気がないように見えるのに対戦相手のデータを完璧に把握していたり、普段は穏やかなのに時折手がつけられないほど頑固になったり、突然ぷっつり切れたりする――澤一樹という人物像は未だはっきりしてこなかった。
ただ、一つだけ確かなのは、彼女が、幼馴染の榛名玲に依存しているということだった。あんなに性格がねじ曲がっている人間のどこがいいのか知らないが、澤は愛妻弁当を作るほど榛名を“愛しちゃって”いた。そして、榛名が好きすぎるあまり、相手に何をされようと受け入れていた。
香坂は個人的には、澤が“そういう意味”で榛名のことが好きなのだと思っていた。そう考えるとすべてのつじつまがあったからだ。
しかし、榛名の方はといえば、とても澤を好いているようには見えなかった。澤がどんなに尽くしても、いや、尽くすからこそなのか、暴言は日常茶飯事で、ときにそれ以上の仕打ちもした。香坂がはじめて“それ以上の仕打ち”を目撃したのは、去年の10月末のことだった。

秋季大会を、当時2年生だった香坂と、1年生の榛名、それに同じく1年生の投手、飯田夏で投げ抜き、東北地区大会の準決勝まで進出した栄徳高校女子硬式野球部の面々はそのころ、大きな大会を終え、和やかな雰囲気で練習に取り組んでいた。
1つ上の代のエース、横川和海(よこがわ・かずみ)が抜けたのち、1番をもらった香坂は、その日、ブルペンで調子よく投球練習を行っていた。大会の疲れが抜けきった体は驚くほど軽く、球の走りも良かった。
彼女は、正面に座っている1年生のキャッチャー、石神京香に向かって球を投げた。ボールは小気味よい音を立てて相手のミットに収まった。
いつもながら相手のキャッチング技術の高さに感心しつつ、返球されたボールをキャッチして再び投げようと足を上げた瞬間、隣のレーンで榛名の捕球をしていた澤がうずくまった。
香坂は何事かと驚いて動きをとめ、彼女の様子を窺った。どうやら球が腹に当たったらしい。彼女はしばらく動かなかった。
「澤!大丈夫?」
石神が即座にボールを投げだして澤にかけよった。彼女は澤の背中をさすってやりながら、榛名にむかって、半ば抗議するように言った。
「ちょ、ちょっと今の、投げるの早すぎだよ。澤、まだ捕球体勢になってなかった」
石神はどうやら一部始終を見ていたようだ。彼女の口ぶりからすると、球が当たってしまったのは澤の不注意と言うより、榛名に原因があるようだった。
まさかわざと当てたわけではないだろう、と思いつつ榛名の様子をうかがう。彼女は顔色も変えずにゆうゆう歩いていって、謝罪もせずにこう言い放った。
「こいつが気ィ抜いてんのが悪い。集中してないからはじくんだよ」
石神は明らかに納得がいっていない表情だったが、それ以上は何も言わなかった。
「さ、澤、だだだだ大丈夫?」
苦しげに眼を眇めて浅い息を吐く澤に心配そうに石神が言う。澤は、戻ってきた胃液で汚れた唇をぬぐい、やっと体を起こした。
「ちょっと休憩したほうが――」
石神のもっともな助言に、しかし澤は首を振った。そして食いしばった歯の奥から絞り出すような声で叫んだ。
「は、榛名さん……もう1球、お願い……!今度はちゃんと、…とるから!」
香坂は目を見開いて澤を凝視した。石神を見ると、彼女もやはり眉をひそめて澤を見ていたが、何も言わなかった。
わざと当てたとは思いたくなかったが、これまでふたりの歪な主従関係を見せつけられている身としては、その疑いを抱くなと言うほうが無理だった。
 榛名はどういう結果になるか分かっていながら、澤の準備が整う前に投げたのだ。そのことに思い至って愕然とするのと同時に、それでもなお榛名に球を要求する澤にもまた驚いた。
 今のは抗議する場面ではないのか?なぜこちらが捕球体勢になっていないのに投げたのか、と問い詰めるところではないのか?
 香坂はそう思ったし、石神も同様の考えのようだった。しかし澤は、榛名の危険な投球に一言も言及しなかった。
 
再び練習が再開された隣のレーンを横目に、香坂は一瞬、榛名に注意しようかどうか迷った。
 速球派ではないとはいえ、120キロ近い硬球が体に当たったら痛いし、怪我のもとになる。
 香坂は口を開きかけた。しかしその時、持ち前の事なかれ主義が首をもたげてきて彼女の勢いをそいだ。
 もしかしたら、昨日喧嘩でもしたのかもしれない。今までこんなことはなかったのだから、今回の出来事は1回きりだろう。
そもそも榛名がわざとやったかどうかもわからないのに、わざわざ口を出すのはどうなのだろう?余計なお節介かもしれない……。
 香坂はそうやって介入しなくてもよい理由を十分に探し出すと、満足して練習に戻った。

 香坂はその時、榛名の乱暴な投球は偶然の産物だろう、と思っていたが、彼女の希望的観測に反し、“事件”はその後も時たま起こった。次第に榛名の行為に言及しないことは、ブルペンに入る投手たち、及び捕手たちの不文律になった。
 とはいえ、榛名の暴挙に気付いていた者がさほど多くなかったのも事実だった。おそらく知っていたのは当人である澤と、石神と、自分くらいだろう、と香坂は思っていた。遠くのレーンで練習する飯田夏や、入部してまだ日が浅い丹波ミサキは気付いていないようだったからだ。
 香坂は何度か、榛名にそれとなく注意して練習するように言ったが、それ以上のことはしなかった。先輩としてもっと何かすべきなのはわかっていたが、何をどうすればよいのか分からなかったからだ。家のことで大変だったのもある。
 だから、澤にはいつも申し訳なさを感じていた。何か手を打つべきなのに、勇気が出ずに榛名の暴力を看過してしまったことに罪悪感を感じていた。
 香坂はもうすぐ引退する。その前に、接点がなくなってしまう前に、澤に謝らなければならなかった。
ぼんやり物思いにふけっているうち、試合は進んでいた。
やがて丹波に代わって榛名が出てきて、マウンドの土を足でならし始める。
石神に投げ込む榛名を見ながら、頼りない先輩でごめん、澤、と心の中で呟いた。



 3塁側のベンチからこちらを見据える本木若名の鋭い目と視線がかち合った瞬間、全身に震えが走った。足に力が入らなくなり、頭が真っ白になってなんのサインを出せばよいのか分からなくなる。
グラウンドには丹波が立っていて、自分の指示を待っているのに、突然、目の前の打者の討ち取り方が分からなくなった。地面が足元から崩れてゆく感覚と、夕日の残照にほの明るく光る空、球場用の白い夜間照明に、石神は既視感を覚えた。
あの時と同じだ――石神京香は絶望的にそう思った。
長らく“故意に”忘れていた光景が目の前によみがえってきて、思わずうめき声をあげた。彼女の脳裏に、初めて出た大会でミスを繰り返す自分の醜態が、まるで昨日のことのように、鮮やかに蘇る。
リードミス、盗塁阻止の失敗、まったく振るわない打撃――結果は散々だった。
大半のチームメイトは、消沈して肩を落とす石神に優しかったが、当時3年生だった先輩、本木若名だけは違った。彼女は一切、うわべだけの励ましの言葉をかけなかった。
試合を終えて帰る道すがら、ひとりとぼとぼと歩く石神の横に並び立った彼女は、射るような目で石神を見て、こう言い放った。
「やっぱ正捕手がいないとだめだな。チームが締まらない。気づいてたよな?今日みんなのやる気がなかったの」
 真実その通りだったので、石神は消え入るような声で、はい、と答えた。
「どうしてだかわかるか?」
 そう問われて、石神は答えようとした。しかし、どんなにがんばっても、喉の奥に張りついてしまった声は出てきてくれなかった。
本木はその様子を見て、呆れたような表情をした後、さっきよりも突き放すような調子で言った。
「それは、司令塔がグラついていたからだ。指示の内容じゃなくて、仕方が問題だったんだ……あんなに自信なさげに指示されたら、それに従っていいのか不安になるよ。―――まあ、そんなこともわからないようじゃ、先が思いやられるってモンだが――」
 彼女が的を射たことを言っているとわかっているのに、石神は耳をふさぎたくて仕方がなかった。そして、一刻も早くその場を離れたかった。
 黙っていると、本木は次第に苛立っていった。
「つーかお前みたいのが試合出てくんなよ。お前なんて他に捕手経験あるやつがいないからベンチ入りできてるだけなんだからな?調子にのんなよ」
石神は本木が怖くて怖くて、涙をこらえるので精いっぱいだった。同学年のチームメイトたちははるか前方を歩いていて、とても助けを呼べなかった。
――助け?
石神は自嘲気味に思った。
何が助けだ。自分は本木にいびられているわけじゃない。ただ、真実を告げる相手と向き合うのが怖いだけだ。
助けを呼びたいのは、本木のほうだろう。こんな自分みたいな現実と向き合えない人間が試合に出ているのだから。
「ほんとにお前って、練習しても練習してもうまくならないのな。こんなのびしろないやつ初めて見たわ。石神、野球向いてないよ。手遅れになる前に辞めたほうがいい。そのほうがこっちも助かるし……正直、上達しない後輩の面倒見るのは大変なんだよ。君らろくに1年の面倒も見てくれないしさ」
石神はこらえきれずに泣き出した。自分のダメさは自分が一番よくわかっているつもりだったのに、真実を告げられるとこんなにも痛い。一度あふれ出した涙はなかなか止まってくれず、彼女はうつむいてすすり泣いた。
「そーやってすぐ泣く」
本木は舌打ちした。
「そんなふうに泣かれたらこっちも何もいえねーわ」
「……めます」
「は?」
あきれ返って石神に背を向けて歩き出そうとしていた本木が振り返った。
「ぶ、ぶ、ぶ、部活、やめます……み、み、み、みんなに迷惑かかる、から……」
「………ああ、そう。やめたいなら勝手にやめれば」
本木はそれだけ言って今度は本当に歩き去った。
石神はもはや立っていられず、その場にうずくまって滲む視界で地面を見つめた。自己嫌悪に苛まれ、過呼吸気味に息をしながら、もうずっと前にそうするべきだったのだ、と悟った。皆口には出さなかったが、ずっと自分がやめるのを待っていたのだ。
思えば、入部以来、チームメイトには迷惑のかけどおしだった。練習についていけずにみんなの足をひっぱったり、気配りができずに場の空気を乱してしまったり、一度注意されたミスを繰り返して迷惑をかけてしまったりと枚挙に暇がなかった。それを考えると、なぜ、もっと早く辞めなかったのか、そちらの方がギモンだった。
多分、もっと早くにやめるべきだったのだ――そう思い至った彼女は、更にあふれてくる涙をぬぐいながら、決心を固めた。
 
その1週間後、石神は勇気を振り絞って退部届を出した。しかし、誰にも引き留められず、速やかに受理されるだろう、という彼女の予想に反し、部内は大騒ぎになった。主将も、正捕手の八葉美雪(やつは・みゆき)も、他のチームメイトたちも、揃って彼女を引き留めた。
どこか痛めたのか、と心配してくれたり、部に不満があるなら改善するから言ってくれ、と懇願したり、といった彼女らの反応は、石神が全く想定していなかったものだった。
しかしそれらは、自信を喪失しかけていた彼女の心を温めた。石神は、それでもまだ彼女らが社交辞令でそのようなことを言うのだと思っていたが、気にかけてもらえるのはうれしかった。
石神は結局、みんなの勢いに押されて退部を取りやめた。
しかし、それから引退するまで、自分がそこにいるにふさわしいと思えたことは、数えるほどしかなかった。県大会に行けたときは多少誇らしく感じたりもしたが、そのほかは散々な3年間だった。
だから、野球は中学まででやめると決めていた。埼玉の名門高校に野球留学していた姉にかなうわけはなかったし、同じ土俵に乗れるレベルでさえないこともよくわかっていた。
でも、やっぱり球をとるのが好きで、やめられなかった。栄徳高校から来たスカウトに、特待生にならないか、と聞かれたとき、石神は無意識のうちに頷いていた。

硬式の女子高校野球で、宮城県4強のうちの1校に数えられる栄徳高校は、部員数が多く、選手の層が厚いので、並みの者ではベンチにも入れない、とウワサされていた。指導者の質や、充実した設備においては定評のある甲子園常連校だったが、もし、“ほどほどの”才能の選手で、少なくとも3年生になった暁には、表舞台で投げたり打ったりしたい、と考えているならば、入らない方が無難であるとも言われていた。
しかし、石神は特に“表舞台”にこだわっているわけではなかったので、自分の力がそこで通用しないであろうことを知りつつも、入学を決めた。
最初から1軍はあきらめていた。投球練習で球が取れれば十分、もし2軍の試合でたまに使ってもらえればラッキー、くらいに考えて入った。素晴らしい投手を多く抱えるチームで、彼女らの練習相手ができるだけで満足だった。
だから、入部したその年の秋にベンチ入りを告げられた時は、口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。どう逆立ちしてみても自分が菊池よりうまいはずはないのに、なぜ自分が選ばれたのかわからなかった。
彼女の場所を奪ってしまった、という罪悪感に苦しみ、ベンチ入りした日から菊池とまともに目を合わせることができなくなった。
菊池は、石神を責めるような言葉を口にしたことはなかったが、外野手にコンバートしてから明らかに元気がない様子を見れば、自分がしてしまったことの重大さは明確だった。

石神は外野からこちらを見る菊池をできるだけ意識しないようにしながら、凍りついていた手を無理やり動かしてサインを出した。
菊池への罪悪感と、本木への恐怖は、いまや石神を呑みこまんとしていた。



 試合は栄徳高校の勝利で幕を閉じた。
榛名と丹波が好投して相手打線を2点に抑え、8対2で相馬高校に勝った。栄徳高校は準々決勝進出を決めた。

榛名玲はその日の夜、上段の羽生葵のベッドの天板を暗闇の中で見つめながら、石神のリードもなかなかよかったな、と試合を振り返った。
彼女は投手を立てるタイプのキャッチャーだ。相手打者を分析しつつ、投手の事も考えて配球を組み立てる。
リードは割と強気でどんどん勝負を仕掛けていくタイプだったが、博打性の高いプレイはせず、あくまで勝算のある時のみ勝負に出る賢さをもっていた。
投手に発破をかけるのもうまいし、澤みたいに無気力でもない。大半の高校で間違いなく先発の器の捕手だった。
普段は小動物みたいにおどおどビクビクしているが、試合になると豹変するのも面白かった。彼女は、ひとたびグラウンドに上がれば、牽引力があって、かつ細かい気配りができるような、チームの要として申し分のない選手になった。
今朝も、試合の前は顔を真っ青にしてブツブツと何事かをつぶやいていたのに、ゲーム開始のコールが叫ばれた途端に顔つきが変わった。司令塔としての自負に満ちた表情になり、朝、自信喪失の発作に見舞われたことなどおくびにも出さなかった。プレイも堂々としたもので、相手打者の狙い球を読み切って冷静にリードをしていた。
ぼやぼやしてるとレギュラーとられるぞ、澤、と榛名は心の中で呟き、前回の試合の様相を思い起こす。
3回戦のあの日――日中、灼熱の太陽に焦がされたグラウンドが冷え切った時分から開始されたナイトゲームの中盤で、澤は決定的に崩れてしまった。これまで、彼女の病気を隠すために腐心してきた榛名の努力もむなしく、彼女は監督とチームメイトの面前で”発作〟を起こした。――それも、目立たない“意識が飛ぶ”方の発作ではなく、明らかにそれと見てわかるパニック発作を起こしてしまった。
チームメイトは、緊張で少しパニックになったようだ、という適当な言い訳で納得してくれたが、監督の方はそうはいかなかった。榛名と澤は試合の後に呼び出され、澤がどういう問題を抱えているのか、洗いざらい打ち明けることを要求された。
仕方なく、彼女の精神状態が時折不安定になること、どうやらそれには、幼いころ、事故に遭遇してしまったことが関係しているらしいことを告白した。
榛名の説明を聞いた彼女は、しかし、予想に反して、何か指示を出してくることはなかった。彼女はただ、話してくれてありがとう、とだけ言った。そして澤に、辛い時は交代させるから言うように、と優しく声をかけた。
榛名は彼女の対応に驚き、その優しさに救われる一方、現実的な心配もしていた。すなわち、澤が今後、レギュラーから降ろされる可能性が高くなったということである。
桃井の対応は大人だった。それは事実だ。彼女の優しい言葉に感動しなかったと言ったら嘘になる。
しかし彼女は、同時に戦略的な指導者だった。選手の人格攻撃をすることがない代わり、彼女らに同情してポジションを与えることもない人だった。
彼女は、澤に不安要素があれば、レギュラーは石神に任せるのが妥当だと考えるだろう。今のところポジションの変更はないが、夏大が終わる頃には二人の位置が入れ替わっていてもおかしくない、と榛名は思った。

それにしても、なぜ澤が、自分の母親の事を7年も引きずっているのかわからなかった。彼女が事あるごとにあの事故のことを気にするせいで、榛名は嘆く暇もなかった。
榛名は、母親がいなくなった日を思い出す。昨日まで当たり前に隣にいた存在が消えるという経験は、榛名にとって耐えがたいものだった。ずっとそこにいると思っていた者がいなくなるということの絶望は、筆舌に尽くしがたかった。
これから一生、母と話すことも、一緒にご飯を食べることも、野球の試合の後に一緒に帰ることもないのだ、と思うと、とてつもない悲しみが心を覆い尽くし、そのあまりの重量にしばし動けなくなるほどだった。母に聞いてもらった我がままの数々をいちいち思い出し、なぜもっといい娘でなかったのだろう?もしあの時こうしていれば……もしあの時こうしていなければ……と“ifの地獄”に陥って、どうにも身動きが取れなくなった。
誰を恨んだこともないが、神だけは恨まずにはいられなかった。
自分はなぜ、こんなにも早く、母親を奪われなくてはならなかったのか?何故自分は母親に、部活での活躍を見せる権利も、恋人を紹介する権利も、老いゆく彼女を案ずる権利も与えられなかったのか?
何故、なぜ、なぜ、と答えのでない問いだけが、幾年も榛名の頭の中で回りつづけた。
その問いに対する答えが与えられることは、おそらく一生ないであろうことをうっすらと予感しながらも、彼女は未だ問うことをやめられなかった。
 たまに夢を見る。試合中の夢だ。
榛名は憧れの甲子園のマウンドに立っていて、チームは勝っている。榛名の真正面、ホーム側の客席の前列には、応援に来てくれた親戚が並んでいる。祖父母や叔母夫婦、母、そして澤の姉と両親たちがこちらに向かって手を振っている。
しかし気が付くと、榛名の母親だけが忽然と姿を消しているのだ。心配になって客席に走っていって探してもどこにもいない。
会場の外に出ると、とたんに辺りが暗くなって、体が鉛のように重くなり、走ろうとしても走れなくなる。そこにあったはずの並木道や、散歩をしている人々は姿を消して、目の前は突如、一面の荒野と化す。
 荒れ果てた大地と赤い空に息をのんで立ち尽くしていると、やがて遠くの方に人影が現れてくる。多分それが母親なのだが、進んでも進んでも彼女には近づけない。
相手は断崖の淵に向かって歩いてゆく。危険に気付いていないのだ。必死に彼女をとめようと叫ぼうとしても、声は出ずに、彼女はついに絶壁の向こうに落ちてしまう。榛名は絶叫し、目を覚ます―――。
 榛名は何かに行き詰まった時や、悩み事がある時は、大低この夢を見た。そして、その翌日はたいてい気分が最悪だった。
人に当たりそうになるので、極力誰にも近づかないよう心がけていたが、澤は榛名の“近寄るなオーラ”を全く意に介さずにまとわりついてくるので、何度彼女に理不尽な怒りを向けてしまったかしれない。
大体、澤も悪いのだ、と榛名はため息をつく。イヤならやり返せばいいのに、変に受け入れてくれるから甘えてしまう。
榛名は、澤に甘える自分の弱さも、それを許す澤にもつくづくうんざりしていた。どこかで断ち切らねば、と思うのにきっかけがつかめず、何年もずるずると変な関係を続けてしまっていた。
でも、と榛名は自分に言い聞かせる。まさか一生このままということはないだろう。大学は別々だろうし、勤め始めたら互いの事などすぐに忘れる。そして、それぞれ独立した人間として互いの人生を歩きだすことになるに違いない。
榛名は自分にそう言い聞かせて、少しばかり不安が和らいだところで寝る態勢に入った。目をつぶると、澤の顔が瞼の裏に浮かんだ。彼女は、楽しそうにスコアブックを眺めていた。
榛名は、その様子に、わずかに口元に笑みを浮かべ、やがて、打ち寄せてきた睡魔に身を任せた。
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