栄徳高校女子野球部! 本編 (完結)

第8章 三回戦2

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金沢悠木は、澤一樹をなるべく隠すように体で庇って試合会場の廊下を歩きながら、内心ため息をついた。
 正直、澤がここまでもろいとは思っていなかった。金沢は基本的に、澤をダメ捕手でかわいげのない後輩だと思っていたが、賞賛にも批判にも揺れない芯の強さには以前から一目置いていたからだ。
 試合でランナーが三塁にいようと、予想外のスクイズでホームに突っ込んでこられようと、彼女が顔色を変えたのを見たことがなかった。幼馴染の榛名玲に対してだけはたまに目を白黒させたりするが、それも長く続くことはなく、すぐにいつもの調子に戻る。監督から賛辞を受けようが、金沢にいびられようが、ベンチでいさかいが起きようが、彼女はいつも通りの顔をしていた。
 ときどき、本当に心があるのか疑う一方、感心させられることが数多いのも事実だった。彼女は捕手としての自覚には欠けていたが、その何事にも動じないずぶとい神経で、チームの精神的支柱の役割だけはまっとうに果たしていた。
主将の菊池東亜は気が弱いし、俊足の一番、沖一沙もいまいち覇気が足りない。自分や榛名は時たま己を見失う。クリーンナップの栄口笑子(さかえぐち・しょうこ)は割と落ち着いているが、チームメイトとの付き合い方があっさりしているので、いざとなった時にはチームをまとめられない。
 その一方で、澤は有能な上、あたりが柔らかいので意外と人望があり、投手陣だけでなくチームの心のよりどころになっていた。だから彼女が崩れたとき、チーム栄徳に危機が訪れるであろうことは明らかだった。
 金沢は二年生バッテリーを人気のないトイレに押し込み、二人の前で腕組みをした。彼女は、幼馴染みに取りすがってすすり泣く澤から、困ったように頭をかく榛名に目を移し、できるだけ穏やかな口調でたずねた。
「何かトラブルでもあったのか?」
「いや、トラブルと言うか……」
 榛名は口ごもった。
「さっき、心当たりがあると言ったが、それは前に話してくれたことと関係があるのか?」
「はい」
 自分より長身の澤に抱きつかれた状態のまま、榛名が頷いた。
「そうか……」
 だとすれば自分にできることはほとんど何もない、と金沢は、以前榛名と交わした会話を思い起こしながら思った。
「おれ、こいつと話してみます」
「うん、そうしてくれ。澤、時間のこと気にしなくていいからな。おれたち、お前たちいなくてもどうってことねーし。心ゆくまで榛名と抱きあってろ」
 金沢はそう言ってこちらに背を向けて震える澤の肩を軽くたたき、榛名に向かってあとはよろしく頼む、と頷きかけてからトイレを出た。それから見張りも兼ねてその出入り口付近の壁に背を預けて腕組みをし、榛名が、かつて彼女とその幼馴染みの人生に大きな傷跡を残した〝事故″のことを初めて打ち明けてくれた日のことを考えた。それは、今年の春の出来事だった。
 
 二人が入部してきたとき、金沢は、活躍を期待される一年生として名の挙がっていた榛名玲と澤一樹がかつてバッテリーだったことに気付かなかった。同じ中学出身だということは知っていたが、同じチームで活動していたとは夢にも思わなかった。二人の間には会話らしい会話もなく、榛名が澤にキレているところとか、榛名が澤を使いっぱしっているところとかしか見かけたことがなかったからだ。金沢は当初、二人は、あまり折り合いが良くないのだろう、と思っていた。
 二人がかつて組んでいたことを、彼らと同じ中学出身の月島絵梨奈から聞いたのはそれから半年あまりが経った、その年の冬のことだった。
 その頃、榛名の澤への暴言が目に余るようになってきていたので、金沢は折をみて二人と話してみようとひそかに思っていた。人の仲を取り持つのは得意な方ではないが、いずれチームを引っ張ってゆくことになると思われる二人には良好な関係を築いてほしかったから、介入することを決めた。
 しかし、予備知識がないまま、安易に口をはさむのは危険だと思い、榛名たちと同じ春日中学から入ってきた月島に事情を聞くことにした。
 そして、彼女の話を聞いた金沢は仰天した。榛名と澤は中学時代、丸々一年半バッテリーだった、と彼女が言ったからだ。それどころか、二人は近所に住んでいる幼馴染で、小学生のころから同じチームでプレイしていた、とのことだった。
 その話は、にわかには信じられなかった。あの二人が元バッテリーなんてありえない、思った。あんなに折り合いの悪い二人が組んでいるところなど想像できなかった。
 バッテリー間の力関係は必ずしも対等ではないとはいえ、お互いある程度は相手に敬意を払っていなければともに戦うことはできない。彼らがどうやって試合をこなしてきたのか疑問だった。
 理由はわからないが、榛名は心底澤を嫌っているようだった。
 澤のほうもまた何を考えているのか底知れず、ボロクソ言われようとも、荷物持ちをさせられようとも、掃除を押しつけられようとも、榛名に寄っていって投球練習の相手をさせてくれと懇願した。
 割とはっきりした物言いをする榛名に比べ、あたりが柔らかい澤は、一年生の大半とすぐに打ち解けたのに、なぜか自分を最も足蹴にする榛名に執着していた。
 入部からひと月半たっても二人の様子が変わらないのを見て、金沢は次第にこの不思議な関係が二人にとって普通の状態なのかもしれない、と思い始めた。彼女らと付き合いの長い月島が、金沢の考えを裏付けたために、その確信はますます強くなった。
 金沢は今まであまりそういった友人関係を見たことがなかったが、そういうのもありなのかもしれない、と思った。一見一方的な関係に見えるが、榛名もなんだかんだでまとわりついてくる澤を拒絶することがない。たがいに依存しているようにみえなくもなかった。
 金沢は基本的に明らかな、一方的な虐待がなければ、多少のいざこざは本人同士で解決するのが一番いいと思っていた。もし、榛名と澤がただのクラスメイトならば、金沢は口をさしはさまなかっただろう。
 しかし、チームメイトとなると話は別だった。いずれチームの主軸となるような二人がそんなんでは困る。榛名の短気と澤の気の弱さが、いずれチームに害を及ぼすことになるのではないか、と金沢は憂慮していた。
 冬合宿は二人と向き合ういい機会だった。彼女はそれぞれと個別に話をし、榛名には澤への言動を改善するように、また、澤にはやられっぱなしでいないように指導した。
 しかし、二人の反応はあまり芳しくなかった。
 二人とも、中学時代に相手と何かあったのか、という金沢の問いにまともに答えてくれず、彼女の指導も話半分に聞いているようだった。

 更に、合宿が終わりに近づくころに、二人はひと騒動起こしてくれた。澤と同室に割り当てられていた榛名が、うざいから、という理由で澤を部屋から追い出そうとしたために、ほかの二人の一年生が澤をかばってひと悶着起きたのだ。榛名はもともと同学年のチームメイトから覚えがあまりめでたくなく、同室者の一人、飯田夏は特に澤と親しかったために、榛名の所業に憤慨し、つかみ合いになりかけたらしい。騒ぎを聞きつけた二年生が仲裁に入ったため事なきを得たが、二人に反省の色は見られず、金沢の心労は増すばかりだった。
 その後もチーム内の一年生で何か起こる時には、必ずと言っていいほど榛名か澤が関わっていた。
 
 付き合いを深めるうち、金沢は榛名よりも澤のほうに問題を感じるようになった。澤が、榛名と対峙するのを避けているように見えたのだ。
 榛名の態度が気に入らないならそう言えばいい。何か言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、それをしないで唯々諾々と榛名のサンドバッグになっている彼女の気が知れなかった。現状を変えるには自分が動かなくてはならないのだ、と金沢が何度言っても、澤は曖昧な返事で茶を濁すばかりで動こうとしなかった。
 いつか、澤が、〝私は現状で満足してますから″と言ってきたのを金沢は苦々しく思い起こした。彼女が言っていることが全く理解できぬ上、澤が満足でもこちらは不満だった。
 榛名が澤に当たり散らすたび飯田はいきり立つし、チーム全体の雰囲気が悪くなる。榛名に抗議しない澤をチームメイトが見くびるようになれば、捕手としてチームをまとめるのが難しくなる。だから二人にはうまくやってほしいのに、いっかな改善の様子は見られなかった。
 その上、金沢の不安はここのところ次第に現実味を帯びるようになっていた。部内の二年生の間で、澤に肩入れする者と、榛名につく者とで派閥ができてしまったのだ。榛名側の者たちは試合で澤の指示をあまり聞かなくなり、逆に、澤側につく者たちは、榛名がマウンドに立った途端に守りが甘くなった。
 当の本人たちは、弁当のやり取りをしたり、週末一緒に過ごしたりしているのだから傍目に見るよりは仲は悪くないはずだったが、部内に亀裂が入るのは望ましくなかった。
 
 金沢はまた、なぜ榛名のようなタイプが澤を構うのかもわからなかった。口は悪いが、人一倍責任感が強くチームを勝利に導くことに力を惜しまない彼女は、金沢と同じく勝利に執着しない澤をよく思っていないはずだ。その証拠に、大事な場面で思い出したようにミスをする澤を、チームメイトの面前で非難している。
 それなのに、投球を請われれば断らないし、話しかけられれば、無愛想ではあるが応じる。彼女は文句を垂れ、澤を目の敵にしながらその実、相手を拒絶したことはなかった。
 選手としては一流だから、アドバイスを求めたり、バッテリーとして一緒に戦略を練ったり、チームメイトとして避けられない接触はもちろんある。そういうやり取りはやらざるを得ないとしても、それ以外の部分では関わらなくてもよいはずなのに、榛名はなぜ澤にしょっちゅう突っかかるのか。気に入らなければ放っておけばいいのになぜ反応するのか――?二人が入ってきてからそのことがずっと疑問だった。
 その疑問が氷解したのは、今年の春に行われた合宿中のことだった。
 金沢は、そのころには、後輩二人の変な関係を改善させようとするのをほとんどあきらめていた。長年そういう関係で来たのなら、人がどうこうできるわけ がない。とにかく榛名は暴力まではふるっていないわけだし、放っておくしかない、と金沢はある程度割り切っていた。
 前年の冬合宿で起きた騒動を踏まえて、今年は榛名と澤を別々の部屋に割り当てることになった。そのため、部屋での悶着はなかったが、残念ながら二日目に再び事件が起こった。

 その日、投手陣は、午後から投球練習を行っていた。その練習中に榛名がぶち切れたのだ。
 困り果てた様子の石神に呼ばれてブルペンに行くと、怒り心頭の榛名が腕組みをして澤と対峙していた。何があったのかと聞く金沢に、榛名はこう答えた。
――普段から投球練習は澤と組んでやっている。今度の大会――夏大――でもバッテリーを組むことになるだろうからそれについて異存はない。しかし、いずれ石神とも組むことになるだろうから、彼女とも練習をしておきたい。それなのに、澤が自分が捕ると言ってきかないので腹が立って彼女につかみかかってしまった……。
 榛名のもっともな言い分に頷きつつ、澤に言いたいことはあるか、と聞くと〝榛名さんの球をとりたい〟という返答が返ってきて、金沢は呆れかえった。〝榛名の球をとるのは自分″一点張りで、小学生みたいにダダをこねる相手を怒鳴りつけたいのをこらえ、彼女は極力穏やかにいった。
「お前たちが投球練習をするのは、いいと思う。これから何度も試合で組むことになるだろうからな。だけど、監督は投手や捕手の入れ替えを頻繁に行う人だ。だから今回の夏大でも、お前が香坂と、そして榛名が石神と組むことが多くなるだろう」
「そんな……」
「澤が榛名の球に惚れてるのはわかるが、石神だって多少なりとも榛名の球を捕っておかないと感覚がつかめないだろう? お前だって香坂との打ち合わせがある」
 金沢は腕組みして成り行きを見守っている二番手投手の香坂を一瞥した。彼女は興味なさそうにボールを弄びつつ、醒めた目でこちらを見ていた。そのカオには〝どうでもいい″とハッキリ書いてあった。
 それを見て、一瞬、またコレだ、と怒りが湧き上がりかけたが、自制して続けた。
「自分のことだけじゃなく、全体のことも考えてくれ。野球はチームスポーツなんだぞ? 自分のやりたいことだけやってりゃいい個人競技とは違う。自分の行動が全体にどう影響するかをよく考えてくれないか?」
「チームチームっていいますけど、私、正直チームなんてどうでもいいんですよね」
「な……?」
 金沢は固まった。こちらを見る澤の目は真剣で、どこかしら醒めていた。
「私は榛名さんの球捕るために栄徳に来たんです。チームに入ろうと思ってきたわけじゃありません」
「………本気で言ってるのか?」
「はい」
 金沢はショックで二の句が継げなかった。香坂も、さすがに予想外だったのか、その表情がこわばっている。澤は自分の発言の深刻さになどまるで気付いていないかのように、顔色ひとつ変えずに続けた。
「それに、香坂先輩とはすでに打ち合わせが終わっています。先輩はパフォーマンスが安定しているし、特にフォームをいじるようなこともしてないから、このまま試合に突入しても大丈夫だと思います。ね、先輩?」
「あ、ああ……」
 香坂は気後れしたように頷いた。
「こっちのことはもういいんで、金沢先輩も早く打撃練習に戻ってください。こっちはこっちでやってますから」
「勝手言ってんじゃねえよ!」
 澤の雰囲気にのまれて一時的に声を失っていた金沢は、榛名の大声で一気に正気に戻った。
「チームなんてどうでもいい? ふざけんな! そんな奴うちのチームにはいらねえよ。自分のことしか考えられないなら今すぐ退部届出して来い!」
「は、榛名さん、そんな……」
 榛名の怒りに、ここまで平静だった澤がはじめてそれと分かるほど動揺した。
「おれは、一緒に戦ってる仲間のことも考えられないようなやつに今後球を投げてやる気はねえからなっ!!」
「そ、そんな、そんなこと言わないで」
 榛名は哀れっぽい声を出す澤に詰め寄った。
「いいか?おれは今日は石神に投げる。お前は香坂さんの球を受けろ」
「で、でも……」
「でももクソもない。これは決定事項だ。それから――」
 榛名はここで幾分か口調を和らげた。
「夕食を食べたらおれの部屋に来て。三○三号室な。江波北の守備位置でちょっと気になるとこあったからさ」
 榛名の言葉に、澤の表情が明るくなった。彼女は先ほどとは打って変わって弾んだ声で聞いた。
「わかった! 明日は捕ってもいい?」
「……ああ」
 それで一応決着がついたようだった。満足そうに隣のベースに移動する澤に、榛名はほっとしたように溜息をつき、香坂のところに寄っていって頭を下げた。
「澤がわがまま言ってすみません」
「いいよ、いつものことだし」
 香坂は大して気にした様子もなく言って球を投げ始めた。榛名はもう一度礼をしてから踵を返し、金沢のところにもやってきた。そして、練習のお邪魔して済みませんでした、と謝った。
「いや、大丈夫。とりあえず解決したみたいでよかったよ。だけど―――澤っていつもあんな感じだっけ?」
「そうっすね。基本練習場ではごねます。おれの球に執着してるらしくてとりたがるんです」
 榛名は、石神が定位置に戻っていくのを横目で見ながら答えた。
「大変だな」
「みんなおれが澤をいじめてると思ってますけどね。………まあ昔からだから悪役には慣れましたけど」
「榛名……前から思ってたんだが、お前、澤と合わないだろ。それなのになんで……」
「それは――」
 榛名はいいかけて、香坂と澤が投球練習をする右側のベースのむこうでこちらの様子をうかがっている石神のほうをちらりと見た。金沢と榛名がいる位置からは距離にして二十メートルあまり。こちらの会話が聞かれる可能性が全くないとは言えない距離だった。
「イシ! ちょっと水分とるな」
 榛名はそう叫んで金沢に目で合図をし、練習場の隅の荷物置き場に歩いて行った。あとについていくと、彼女はかがんで地面に置いてあった飲み物を手に取りつつ、口を開いた。
「こんなとこでするような話でもないんですけど、これ逃したら後言えなそうなんで、澤とおれのこと話します」
「お前と澤の……」
「はい。先輩気になるんでしょ、おれたちの関係」
 榛名は立ち上がって飲み物を一口口に含み、自分より上背がある金沢を見上げて言った。
「ああ。初めは単にお前が澤のことを……その、なんというか、あまり好いていないだけかと思ったんだが……そうでもないんだろう?」
「正直、澤みたいな人間は嫌いです。……金沢さんも好きではないですよね?」
「……いや、そんなことはない」
 一応、後輩全員に対して中立的でありたいと思っている金沢は否定したが、榛名はくちびるの端をあげた。
「本当のこと言っていいっすよ。誰にも言わないから。……おれ、小学校三年の時からあいつと野球やってるんです。知り合ったのはもっと前。家が近かったから家族ぐるみで付き合ってました」
 榛名の表情が陰りを帯びた。いつも強い意思の光を宿しているその瞳が今は不安定に揺れていた。
「澤にはきょうだいがいたけど、おれは一人っ子だったから、彼らとはきょうだいみたいに育ちました」
「そのころから今みたいな態度だったわけじゃないだろう?」
「たぶんね」
 榛名が苦笑した。
「今ほどはひどくなかったと思います。とにかく、おれたちはいわゆる幼馴染だったんです。で、クリスマスとか、芋煮会とか、誕生パーティなんかの家庭行事も合同でやってました。お互い親が夜遅い日は、相手の家で夕飯をごちそうになったり、よく行き来もしてました。
 で、小学四年生の時も、やっぱりいつもみたいに家に集まっておれの誕生日を祝ってました。その日は休日だったけど、澤のお姉さんは東京にピアノのレッスンを受けに行くとかでいなくて、澤だけが来てました。パーティの半ばで澤がジュース飲みたいと言い出して、おれの母親と近くの自販機に買いに行きました。―――で、母親はそのまま帰ってこなかった」
 金沢は息をのんで、再び水分を口に含む後輩ピッチャーの手元を見た。榛名が母親を早くに亡くしていることは、何となく耳にしたことがあったが、実際に本人からその詳細を聞くと、またショックが大きかった。自分の誕生日に母親が死んだという、衝撃的な事実を淡々と話す相手に、何と声をかければよいのか分からなかった。
「榛名、おれは、なんといっていいか……」
「気ィ遣ってもらわなくても大丈夫です。もう七年も前のことだし」
 榛名は感情をにじませぬ口調でそう言ったが、決して金沢の目を見ようとしなかった。
「で、話を戻すと、そのジュースの要求のためにおれの母親が死んだと思いこんだ澤は、その日から罪の意識を感じるようになっちゃったらしい。らしいってのは、おれにもそのあたりよくわかんないからです。あいつがあの日を境におかしくなったのは確かだけど、どうしてそこまで思いつめるのかおれにはわからないんです。澤が轢いたわけでもないのに、なんであそこまで気にするんだか……。その後、せっかくやってた野球も辞めるとか言いやがるし、ホント、あれからおかしくなっちゃって」
 榛名はスポーツドリンクが入った容器を床に置いた。そして、しゃがみこんだままつぶやいた。
「だから、澤のこと、無碍にはできんのですよ。バカバカしいと思うかもしれないけど、おれがあいつの呼びかけに応答するのをやめたら、あいつはどこかに行っちゃう気がするんです。どこか、誰の手も届かないところに消えてっちゃう気がして仕方ないんです……」
 金沢は振り向いて、向こう側でしゃがみこむ澤を見た。すると、すでにこちらを見ていた澤と目が合う。
 金沢は思わず息をのんだ。彼女の目は、錐で開けた穴みたいにがらんどうだった。
 金沢はさりげなく澤から視線をはずし、榛名のほうへ向きなおった。
「余計な世話かもしれないが、澤がもしそれほどのショックをまだ引きずっているのなら、そういうのは専門家に任せたほうがいいんじゃないか? もしくは、監督に話してみるとか―――」
 その言葉に、榛名は急に顔色を変えた。
「監督には言わないでください。コーチにも、選手にも、部内の誰にも言わないでください。―――だって、もし澤が、その―――不安定だってことが知れたら、試合に出られなくなる………先輩も監督の性格を知ってるでしょ? ゼッタイダメです。お願いします、何でもしますから………」
 そう言って、なりふり構わず懇願してくる後輩にイヤとは言えなかった。将来を見通し、最も相手のためになること―――今辛い思いをさせようとも―――を冷静に見抜くだけの力が、彼女にはまだ備わっていなかった。
 金沢はすがりつくような眼でこちらを見る相手に曖昧に頷き、承諾の意を示した。榛名はあからさまにホッとしたように表情を緩めた。
「病院の方も何度か行かせようとはしたんですけど………澤の親はなんていうか……古い考えの人たちだから、心の病については理解がなくて――。何回かそれとなく言ってはみたんですけど、聞いてくれなくて。……それに心療内科もピンキリだから薬づけにされるのも怖いし。澤もあの通りで行こうとしないし……。
って、全部言い訳なんですけどね」
 榛名は立ち上がった。
「全部行動しないための言い訳です。………情けないですよね、おれ」
「――そんなことはない。お前の立場に置かれたら、おれだってどうしていいかわからないだろうと思う。おれだったら澤を支えることさえできなかっただろう。……榛名はよくやってるよ」
 金沢は不意に眩暈を感じ、目をつぶった。そのまま目を開けていたら、バランスを崩しそうだったからだ。数十秒間、そうやって耐えていると、波は次第に引いていった。
 彼女は平静を装って榛名の肩に手をかけた。
「話してくれてありがとう。この話は誰の耳にも入れないようにする」
「そうしてもらえると助かります。正捕手が精神病なんて体裁わりーし」
 榛名はそう言って笑った。
「ずっと先輩には話したいと思ってたので話せてよかったです。聞いてもらったらなんかすっきりしました」
「じゃあそろそろ行ってやれ。石神、待ってるぞ」
 金沢は所在なさげに立ちつくす石神を見ながら言って、榛名の背中を力任せに叩いて送りだした。
 彼女は石神のもとにかけてゆく榛名と、榛名を目で追う澤をもう一度見てから練習場を後にした。

 金沢はその日から一週間、榛名の母親が死んだ経緯が頭から離れず、眠れぬ日々を過ごした。
 澤が榛名の母親の事故現場に居合わせてしまったことを知って、彼女に対する金沢の見方は変わった。澤が榛名にこだわる理由がなんとなくわかったからだ。
 親しい者の死、それも予告されぬ突然の死の現場にたかだか十歳で居合わせてしまったら、一生その場面を忘れられないだろう。そればかりか、彼女の死に少しでも自分に責任があったのではないか、と思ってしまうだろう。金沢は、もし自分が澤の立場に置かれていたら、彼女と同じような行動をとるような気がした。罪滅ぼしのために相手に尽くすだろう、と思った。
 榛名と澤の確執を知った金沢は、それ以後、二人に関係改善を促すことをやめた。そんなことを要求するのはあまりに無責任で残酷だと思ったからだ。
 
 金沢はふと回想から浮上して、廊下の壁から身を起こし、辺りを見回した。いまだ二人がトイレから出てくる気配はない。彼女は踵を返し、ベンチへ向かって歩き出した。

                                       *

 榛名は澤をなだめながら内心ため息をついた。最近忙しくてあまり相手をしてやれなかったのがいけなかったか、と自分の肩に顔をうずめて嗚咽を漏らす相手を見る。
 ここ一週間、何となく様子がおかしいのは気付いていたが、定期テストの準備で手一杯で彼女のフォローができなかった。時折すがるような眼でこちらを見る彼女が何かに追い詰められているのに気付きながら、放置してしまった。
 そしてなにより、榛名が犯した決定的な過ちは、昨晩、澤に謝罪してしまったことだった。どういう思考回路をしているのかは不明だが、彼女は、榛名が殊勝な態度を見せた途端に過去のことを思い出して泣き始めた。
 昨晩は眠れなかったのだろう、と榛名は澤を見ながら思った。一人でさっさと先に寝てしまったことが悔やまれた。昨日の夜は起きているべきだった。
 こうなるともう泣かせておくしかないことを榛名は経験上わかっていた。こういう状態になってしまった澤には何を言っても何をやっても無駄だ。
榛名は暑苦しいのを我慢してぼんやりと向かい側の壁を見た。澤が落ち着くのにはどのくらい時間を要するだろうか? 十分? 二十分? 三十分?………それとも一時間?試合の決着がつく前にベンチに戻れるだろうか?
 それに、監督やチームメイトには澤の状態をなんて説明したらよいのだろうか……?
 答えのない問いが頭の中をぐるぐる回り、榛名は暫時パニックになった。
 試合中に澤がこれほど大きな発作を起こしたのは初めてだった。明らかにチームメイトたちにもわかるような崩れ方をした彼女の状態をどのように取り繕おうか、榛名は必死に考えを巡らせた。
「なあ一樹、今日はもう無理かな? この試合、一応高校球児としては〝本番″なわけだし、一回でもマウンドに上がりたいんだけど」
「は、榛名さん、行ってきて……いいよ。私、ホント、ごめん……うっ、はるっ、なさんの、じゃまばっっかっして……うぅっ」
「行ってきていいよ、じゃねえよ。一人で投げられるかよ。一樹も来るんだ」
 榛名は澤を自分の体から引きはがして、その泣きぬれた顔を見た。
「い、石神が、いるよ。私、なんか、ヒクッ、いなくても」
「おれは! お前がいいの」
 榛名はちょっと顔を赤くしながら言った。
「ほ、ほんとう?」
「本当だよ。大体、投球練習ほとんどお前としかやってねんだから、お前がいないと困る。試合まで責任持っておれの球受けてくれよ」
 おずおずとこちらを窺う相手に、ようやく顔を上げたか、と榛名は内心ホッとした。〝発作〟は落ち着いてくれたらしい。先ほどのとりみだしようにはこっちが発作を起こしそうになったが、今回は比較的軽かったようだ。
 彼女は洗面台の上の台に置いてあったトイレットペーパーをちぎって澤に差し出した。
「ほら、一回鼻噛んで顔洗え。そんな顔じゃ試合に出してもらえないぞ」
 澤はうなずいてありがとう、とトイレットペーパーを受け取り、鼻をかんだ。
 榛名は洗面台の前で腰を折る澤を見つめながら、ぼんやりと、でかくなったな、と思った。中学一年までは確実に自分のほうが見下ろしていたのに、三年間でいつの間にか追い越され、今では澤の方が頭半分大きかった。横幅も自分よりがっちりしていて、いかにも投手向きの体格だった。同じような体型の澤の両親を思い浮かべ、遺伝子には勝てないな、と思う。
 榛名が彼女を見るともなく見ていると、澤はやがて蛇口を締め、顔を上げた。 
水にぬれ光るその顔に、榛名は自分の心臓が一度強く拍動するのを感じた。目の下にクマを作り、憔悴し切った表情の彼女があまりにやつれて見えたからだ。その眼には力がなく、今にも存在が薄れて、空気に溶けて消えてしまいそうだった。
 榛名は思わずポケットからハンカチを取り出し、澤に近寄ってぬれた顔を拭いた。おとがいを伝って首元まで垂れていた水滴まで拭くと、なめらかな頬に手を当て、わずかに見える涙の残滓を親指の腹でこすった。しっかりした手ごたえを求めて、榛名は何度も執拗に澤の頬をこすった。そうやって存在を確認していなければ、彼女がいつの間にかいなくなってしまいそうだったからだ。
 澤はしばらくされるがままになっていたが、やがてやんわりと榛名の手首を掴んで自分の顔から外した。そして、榛名を見つめて言った。
「戻ろう」
 榛名は黙って頷き、澤の後についてトイレを出た。

 二人がベンチに戻ったとき、試合は七回の表まで進んでいた。マウンドには丹波が立ち、気後れした様子もなく投げている。
 レギュラーメンバーが出払って閑散としたダグアウトの前の方に立つ監督は、戻ってきた二人を認め、自分の方へ来るよう手招きをした。榛名は澤とともに彼女のそばに歩いていって、桃井の鋭い目を見た。彼女は、その眼光に呑まれないよう、無意識に腹に力を込めながら、目の前の人物について思いを巡らせた。
 栄徳高校の監督である桃井周子は、中学時代の監督と違い、基本的に選手の私生活に干渉してこない人だった。部内で明らかにもめ事が起こったときに苦言を呈したりすることはあるが、たとえば生活態度など、野球に関係ないことについて説教することはほとんどなかった。
 食生活やオーバーユースについての注意はするが、それ以外については口をはさまない。彼女は自分を純粋に野球の指導者として位置付けているようだった。
 だから、榛名と澤の確執について感づいているようだったが、それについて口を出してきたことは数えるほどしかなかった。彼女よりも、金沢や羽生のほうがいろいろ言ってくるほどだ。
 榛名は彼女の無関心さに、中学時代の監督とのギャップを感じながらも、ありがたく思っていた。澤と仲良くしろ、と言われるほど苦痛なことはなかったからだ。
 一方が他方に大きな負い目を抱くような自分たちの関係は、そう簡単には修復できない。――澤は榛名と対等な友人同士になりたいなどとは思っていない。その証拠に、昨晩榛名がいままで横暴の数々を謝罪したら酷くとり乱した。
 澤はいつもそうだ。榛名が普通に接しようとしても応えてくれない。彼女は榛名の黒子であることを望み、彼女に従うことを好む。
 だから榛名は、望むと望まざるとにかかわらず、長らく澤に求められた役割を演じてきた――すなわち、暴君として彼女を支配してきたのだ。もちろん、私情が一片も介在していなかったとはいわない。榛名が長らく澤に引け目を感じてきた、ということもまた事実だ。
 しかし、榛名は本来、苦手な、あるいは好きではない相手に構うほどヒマな性格はしていなかった。嫌な相手はとことん無視、というのが榛名の通常の行動パターンだ。だから、澤が求めてこなければ、二人の関係はチームメイト以上でも以下でもない、もっとあっさりしたものになっていたはずだった。
 しかし、澤はそれを許してくれない。
 榛名は隣に立つ幼馴染を横目で見て、内心ため息をついた。桃井が口出ししてこないのは、パフォーマンスに影響がなかったからだ。榛名と澤にしきりにいい関係を築かせようとした前の監督とは違い、桃井は結果が出せる限り文句を言ってこなかった。
 だが、今後は違うだろう、と榛名は汗ばんだ掌を握りしめる。彼女は試合中、チームメイトの面前で澤が〝発作〟を起こしたことを重く受け止めるだろう。澤の問題点は何なのか聞いてきて、それが解決されることを要求するだろう。
 さて、どう言い訳するべきか、と榛名は、監督と澤を交互に見ながら頭をフル回転させて解決策を模索した。桃井はそんな榛名をちらりと一瞥してから、目を赤く潤ませて彼女の影に隠れるように立つその相棒に目を向けた。
「澤、大丈夫? 具合がよくなさそうだったけど」
「――はい」
「次の回から行けるかな?」
「はい」
 澤は驚いたように目を見開いた。〝発作〟への追及がなかったことに意表を突かれたらしい。しかし榛名は、試合が終わったら監督に呼び出されることは確実だろう、と予想していたので、素直に喜べなかった。
「榛名、澤は落ち着いたんだよね?」
「――はい」
「分かった。………それと、榛名には申し訳ないんだけど、丹波が好投しているので続投させるね」
「え――?」
 榛名は思わずスコアボードを見た。六回表、丹波が投げた回は無失点だった。監督は少し申し訳なさそうにそう言った。
「丹波は、力押しで来る将元の打線と相性が良いようなんだよね。上位打線だったからどうなる事かと思ったけどきっちり抑えてくれたし。せっかく準備しておいてくれたのにごめんね……」
「大丈夫です」
 榛名は何か言いかける澤の腕をつかんで制し、素早く答えた。
「うん。じゃあ頼むよ、澤」
 榛名は桃井に一礼して、その場から動こうとしない澤をぐいぐい引っ張ってベンチの奥に下がった。澤は監督の言葉に榛名以上にショックを受けているようだった。
「私……丹波……榛名さん……」
 ぼんやり突っ立っている相方を殴りつけたいのをこらえて、榛名は彼女を座らせた。
「おれのために勝ってきてくれ。おれが次の試合で投げられるように将元に勝ってくれ」
「私…………わかった!」
 榛名のセリフはいたく澤の心を動かしたようだった。彼女は、顔から火が出そうなのを我慢して言った甲斐があったな、と思った。
 相手を三振に打ち取った丹波が笑顔で、しかし、五回に〝発作〟を起こした先輩を案ずるような表情でダグアウトに駆けてくるのを見ながら、彼女は何だってあんな言葉で尻に火がつくんだろう、と榛名は首をかしげた。もし榛名が逆の立場だったら、自分のために勝ってこいなんて言われてもうれしくない。むしろ不愉快だ。お前は何さまだ、一人で試合してるつもりか、と言いたくなるところだ。榛名にとって澤の行動原理はなぞだった。
 しかし、澤がヘコんでいるときにかけると喜ぶ言葉は経験則から知っていたので、彼女はほとんど無意識のうちに相手を鼓舞することができた。
 榛名は、戻ってきた石神の近くに腰掛けて言った。
「迷惑かけてすまなかった」
「大丈夫だよ。そういうときの控えだし」
 石神は全く気にしていない様子だ。
「練習でも散々迷惑かけてるのに、試合まで悪いな」
「私のほうはいいよ。――それより澤は大丈夫なの?」
 石神の言葉に、榛名は息を吐き出した。
「少し前から様子がおかしいのには気づいてたんだが――今回はしくじっちゃった。もっと早く対応するべきだった」
 石神は澤の〝発作〟を知る数少ない二年生の一人だった。他に知るのは、榛名と同じ中学出身の月島絵梨奈、そして、三年生の中では、唯一、副主将の金沢悠木だけだった。

 榛名は澤が〝発作″を起こすようになったころ―――中学生になった当初―――から、〝発作″が周囲にバレないよう細心の注意を払ってきた。爆発の前兆があれば早めに話を聞いてやるようにし、練習中、あるいは授業中に〝発作〟が起きるリスクがあると判断すれば、仮病で休ませた。澤の両親は成績については高い要求を持っていたが、出席日数はあまり気にしないほうだったので、彼女が欠席してもあまり問題視されなかった。
 もっとも、彼らは寛容というよりも、無関心だった、と言ったほうがより真実に近いかもしれない。親の期待を一身に背負う姉の影に隠れがちだった澤に、彼らの目が向くことはほとんどなかった。
 幼いころから澤家と食卓を囲むことが多かった榛名はそのことをよく知っていた。澤家で話題にされるのは音楽に関することばかりで、彼女の両親の頭には野球の〝や〟の字もないようだった。
 小中高を通して、彼らが試合の応援に来たことは数えるほどしかない。むしろ姉の六佳の方がその回数は多かったといえるだろう。
 榛名は、澤の両親を悪い人たちだとは思っていなかったが、彼女に対する冷淡さは理解できなかった。きょうだいがいないから、実際のところはわからないが、一方の子供だけをひいきする意味が分からなかった。
 榛名は澤を見るにつけ、〝発作〟の原因が必ずしもあの〝事故〟だけではないのではないか、と言う疑念に駆られた。たとえあの〝事故〟がなかったとしても、彼女はいずれ心身に変調をきたすようになったのではないか、と思ったことも、一度や二度ではない。人に関心がない榛名にそう思わしめるほど、澤とその両親は疎遠だった。
 そういう家庭でその存在を否定され続けてきた幼馴染のサポートをするのに、一人では荷が重すぎると感じ始めたのは中学一年生の時だった。〝時間が一番の薬〟とよく言うように、事故から年月がたてば罪の意識も薄れ、澤は徐々に元に戻っていくだろうという榛名の楽観的な見方に反し、彼女はなかなか立ち直らなかった。
 彼女はその〝事故〟が起こった日を境に、完全に別の人間になってしまったかのようだった。頑固で、自信過多気味で、姉や榛名のやることは何でも真似したがり、気に入らなければ突っかかってくる勝ち気な子供は消え、まるで人生に疲れた老婆のようにただ毎日をこなすだけの抜け殻が残った。
 榛名は子供心に、自分は母を亡くした日に、澤のことも失ったのだと悟った。母は黄泉の世界に行くときに、澤の魂をも持って行ってしまったのだ。だからその咎は娘である自分が負うべきなのだ、と榛名は思っていた。澤の、もはや機能しなくなった、錆ついた関節に油をさし、燃料を入れ、歩き続けさせることが榛名の義務だった。
 だが一人では限界がある。だから榛名は、石神が味方になってくれることを非常に心強く思っていた。
 榛名は、隣で試合経過を見守る石神の真剣な表情をちらりと見てから、グラウンドに目を戻した。七回裏・栄徳の攻撃回が終わり、間もなく八回が始まった。
「丹波、好投だな」
 榛名の言葉に、石神がマウンドに目を戻して曖昧に頷いた。
「そうだね……でもコントロールはまだはるちゃんには及ばないよ。球種も少ないし――」
「気ィ遣わなくてもいいって。あいつ本当うまいよな。どうやったらあんな速い球投げられるんだろ。おれには逆立ちしたって無理だ。……来年のエースは丹波かもな」
「はるちゃん! 冗談でもそんなこと……」
 少し怒った様子の石神に、榛名は淡々と返した。
「でも実際そうだろ。どんなに変化球投げられても速球には敵わない。野球ってなんだかんだ言って結局体力勝負みたいなとこあるし………それに、今日みたいなことがまた起こるようだったら、澤は間違いなく降ろされる。そうなったら出番だぞ、イシ。――丹波と仲良くしといたほうがいい」
「もう、はるちゃんはさ!それ本気で言ってるの? そんな簡単にエースとられそう、とか言わないでよ。それに、私は、澤が具合悪いからってレギュラーもらうのはいやだよ。ちゃんと勝負して勝ちとりたいよ。だからはるちゃんも丹波に負けないようにしないとだめだよ。弱気になるなんて、はるちゃんらしくもない……」
「………でもおれ、正直言うとさ―――」
 榛名は声を落とし、顔を真っ赤にして自分を叱咤する石神に向かって言った。
「不安要素あるあいつより、イシがレギュラーのほうがチームにとってはいいと思うよ………まあ、あいつの不調が周りに知られないように手をまわしてるおれがいえたセリフじゃないけどさ」
「だけど、最近は落ち着いてたし、今日だって乗り切れた。大丈夫だよ」
 石神は相手にというより、自分に言い聞かせるように言った。
「でも続いたら?」
 榛名の問いかけに、彼女は黙り込んだ。
「監督のカンの良さはお前だって知ってるだろ? これまでは何とか誤魔化せてたけど、今後はもう通用しない。今日のことでバレたと思う。あとで説明を求められるだろう。……彼女は基本的に選手に干渉してくる人じゃないけど、試合に出られないほど崩れたとなれば別だ。今日は出してもらえてるけど、四回戦以降はレギュラーをはずされる可能性の方が大きい」
「………」
「イシ、準備しとけよ。これから先のキャッチャーはお前かもしれないんだから」
 石神は黙り込んで、まるで榛名の顔になにかしらの答えが書いてあるかのように凝視した。
「そうなったらおれたち、もうちょっと詰めて打ち合わせしないとな」
 そう榛名が言い終わるのとほとんど同時に丹波が三つ目のアウトを取った。チームメイトが次々とベンチに帰ってきて、榛名におかえり、と言ってくれた。
榛名は彼女らに応じつつ、自分のもとへ一直線に飛んでくる澤の表情を見た。相変わらず顔色は優れなかったが、目に光が戻っていた。榛名はそれを見て安堵しつつ、お疲れ、と声をかけ、防具を外すのを手伝った。
 彼女はそれから後輩に視線を移した。自分の代わりとしてリリーフした丹波は、未だ一点も取られていなかった。
 榛名は、追ってくる足音が確実に大きくなりつつあるのを努めて意識しないようにしながら、上級生に労われている丹波から目をそらした。

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