映画「明日、君がいない」
【 映画のレビュー】
原題は「2:37」
哀しい映画だった。これは柴村仁の小説「プシュケの涙」を想起させる映画だった。
冒頭は運命の日の2時37分のシーンだ。ある高校。放課後かはたまた休み時間か、廊下には数人の生徒がたむろしている。そんな中、ある女の子がドアの向こうの不審な物音に気付く。
―だれかいるの?ねえ返事をして。ドアを開けて
返事はない。不気味な沈黙が彼女を不安にさせた。教師に施錠されている部屋から物音が聞こえた事情を話し、用務員に鍵を開けてもらう。室内を見た教師の顔が、驚愕と恐怖で青ざめ、失望に暮れてゆく。
ネタばれ注意! ↓↓(プシュケの涙・明日、君がいないのストーリーを知りたくない人はここで読むのをストップしてください)
一度目に見たとき、最後まで明白なストーリーは分からない。冒頭のシーンでは核心的な自殺部分に触れられていないからだ。しかし二度目の視聴では胸をえぐられるような痛みを感じ涙さえ滲んだ。その教室の「なか」でどんなことが起こっているのかを知っているからだ。
これは文法でいえば倒置法のようだ。類似しているのは、(自殺ではないが)同級生が夭折する高校時代の物語「プシュケの涙」だ。彼女が亡くなってから―こちらは死んだと明示されるだけに余計つらい―生前の姿が描写される。やはり問題はあるけれど未来に満ちた若者の人生を見せつけられる。この先何が起こるかも分らぬ無垢な表情を見せられる。
「プシュケの涙」はこれを一作めとする三部作となっているが、続編では一作めで死んだ少女に思いを寄せていた少年の成長が描かれる。作者の業績のひとつに、死は一瞬だが親しい人を亡くした者の一生はその後ずっと続いていくという当たり前のことを読者に実感させたことがあると思う。
映画の話に戻ると、作品の最後では絶望に震えて死にゆく高校生の姿が刻銘に描かれている。
お前たち、死ぬというのはこんなに苦しくて痛いことなんだぞ、とでもいうように出血のシーンにかなり時間が割かれている。直視できなかった。
そこから遡って彼女の姿を思い浮かべる。もっとも、一度の視聴で彼女を明白に覚えている人は少ないだろう。端役の彼女は終盤ぎりぎりまで「自分語り」として登場しない。私たちはところどころ差し込まれる、インタビューのシーンに出てくる6人のうちの誰かが自ら命を絶つのだろうと予測する。
実際、紹介文に「6人のうちの誰が自殺するのか」とあるし、彼らはそれぞれシリアスな悩みを抱え持っているから―近親相姦プラスレイプなんて相当ヘビーだと思う―そうなのだと思い込む。しかし違う。
重い悩みを抱える彼らを気にかけてくれる存在が時折登場するが、これが自殺をする少女だ。
名指しで6人のうちの誰かが、と紹介しているからミステリとしては失格かもしれないが、この作品の目指すところが謎解きでないのは明白だ。
若者の抱える将来への不安や鬱屈した不満の最悪の帰結として、自殺を描いているように思った。
作品中で重点的に描かれるのは自殺をしない6人の圧迫された生活だ。
ゲイの少年と身体欠陥のある少年はいじめられ、優等生で通っている少年は父親の叱責におびえた挙句に妹をレイプし、見た目を気にかけすぎる少女は拒食に走り、人気者の少年でさえも悩みを隠し持つ。
学校という閉鎖された環境で弱肉強食の理論を実感し、必死に自分を保つ生徒たち。彼ら6人は時に激昂したり、自分より弱い者を見つけていじめたり、薬物に走ったりする。
そのどれをも実行せず、微笑みと共に優しさを配る陰で圧倒的な孤独に包まれた7人目が、命を絶った。
同級生に殴られた尿道が二つある少年スティーブンにティッシュを分けてあげ、優等生のマーカスとともにピアノを弾いた少女ケリーはもういない。ケリーは誰にも弱みを見せられなかった。孤独感を発露できなかった。
いつも笑って、思いやりに溢れて、という仮面の下でケリー自身はボロボロだったのだろう。
彼女を殺してしまった原因の一つは同級生の心無い言動だろうが、同級生を心無い言動をするほど追い込んだのは親や教師やシステムだった。間接的に、何十人もの人がケリーの死に関わった。
この映画は全く救いのない限りなくノンフィクションに近いフィクションを描くことで、人の心に重い楔を打つことに成功したように思う。私にとってはそうだった。
すべてハッピーエンド、予定調和的でリアルに迫らない映画もいい。娯楽なんだから「死」について「社会と人間」について深く考える必要はない、という意見も一理ある。けれどもこれは、人間を彫刻した映画だ。細部までじっくり観察して美しさも醜さも含めて表現した映画だ。醜さを描くには、おそらく脚本家や監督は己の醜さと向き合わなければならなかっただろうし、それは辛い作業だ。監督と脚本を手掛けた当初19歳の鬼才ムラーリ・K・タルリは辛い思いをしてでも伝えたいことがあったのだろう。それは例えば、こういった言葉かもしれない。
―手遅れになる前に助けろ。会話をしろ。見殺しにしてしまったら君は大事なものを永遠に失うぞ。
一人で死ぬというのがどんなことか見るがいい。こんなに孤独で辛いんだぞ。自殺はしてもさせてもいけない。
(2006年、豪)
哀しい映画だった。これは柴村仁の小説「プシュケの涙」を想起させる映画だった。
冒頭は運命の日の2時37分のシーンだ。ある高校。放課後かはたまた休み時間か、廊下には数人の生徒がたむろしている。そんな中、ある女の子がドアの向こうの不審な物音に気付く。
―だれかいるの?ねえ返事をして。ドアを開けて
返事はない。不気味な沈黙が彼女を不安にさせた。教師に施錠されている部屋から物音が聞こえた事情を話し、用務員に鍵を開けてもらう。室内を見た教師の顔が、驚愕と恐怖で青ざめ、失望に暮れてゆく。
ネタばれ注意! ↓↓(プシュケの涙・明日、君がいないのストーリーを知りたくない人はここで読むのをストップしてください)
一度目に見たとき、最後まで明白なストーリーは分からない。冒頭のシーンでは核心的な自殺部分に触れられていないからだ。しかし二度目の視聴では胸をえぐられるような痛みを感じ涙さえ滲んだ。その教室の「なか」でどんなことが起こっているのかを知っているからだ。
これは文法でいえば倒置法のようだ。類似しているのは、(自殺ではないが)同級生が夭折する高校時代の物語「プシュケの涙」だ。彼女が亡くなってから―こちらは死んだと明示されるだけに余計つらい―生前の姿が描写される。やはり問題はあるけれど未来に満ちた若者の人生を見せつけられる。この先何が起こるかも分らぬ無垢な表情を見せられる。
「プシュケの涙」はこれを一作めとする三部作となっているが、続編では一作めで死んだ少女に思いを寄せていた少年の成長が描かれる。作者の業績のひとつに、死は一瞬だが親しい人を亡くした者の一生はその後ずっと続いていくという当たり前のことを読者に実感させたことがあると思う。
映画の話に戻ると、作品の最後では絶望に震えて死にゆく高校生の姿が刻銘に描かれている。
お前たち、死ぬというのはこんなに苦しくて痛いことなんだぞ、とでもいうように出血のシーンにかなり時間が割かれている。直視できなかった。
そこから遡って彼女の姿を思い浮かべる。もっとも、一度の視聴で彼女を明白に覚えている人は少ないだろう。端役の彼女は終盤ぎりぎりまで「自分語り」として登場しない。私たちはところどころ差し込まれる、インタビューのシーンに出てくる6人のうちの誰かが自ら命を絶つのだろうと予測する。
実際、紹介文に「6人のうちの誰が自殺するのか」とあるし、彼らはそれぞれシリアスな悩みを抱え持っているから―近親相姦プラスレイプなんて相当ヘビーだと思う―そうなのだと思い込む。しかし違う。
重い悩みを抱える彼らを気にかけてくれる存在が時折登場するが、これが自殺をする少女だ。
名指しで6人のうちの誰かが、と紹介しているからミステリとしては失格かもしれないが、この作品の目指すところが謎解きでないのは明白だ。
若者の抱える将来への不安や鬱屈した不満の最悪の帰結として、自殺を描いているように思った。
作品中で重点的に描かれるのは自殺をしない6人の圧迫された生活だ。
ゲイの少年と身体欠陥のある少年はいじめられ、優等生で通っている少年は父親の叱責におびえた挙句に妹をレイプし、見た目を気にかけすぎる少女は拒食に走り、人気者の少年でさえも悩みを隠し持つ。
学校という閉鎖された環境で弱肉強食の理論を実感し、必死に自分を保つ生徒たち。彼ら6人は時に激昂したり、自分より弱い者を見つけていじめたり、薬物に走ったりする。
そのどれをも実行せず、微笑みと共に優しさを配る陰で圧倒的な孤独に包まれた7人目が、命を絶った。
同級生に殴られた尿道が二つある少年スティーブンにティッシュを分けてあげ、優等生のマーカスとともにピアノを弾いた少女ケリーはもういない。ケリーは誰にも弱みを見せられなかった。孤独感を発露できなかった。
いつも笑って、思いやりに溢れて、という仮面の下でケリー自身はボロボロだったのだろう。
彼女を殺してしまった原因の一つは同級生の心無い言動だろうが、同級生を心無い言動をするほど追い込んだのは親や教師やシステムだった。間接的に、何十人もの人がケリーの死に関わった。
この映画は全く救いのない限りなくノンフィクションに近いフィクションを描くことで、人の心に重い楔を打つことに成功したように思う。私にとってはそうだった。
すべてハッピーエンド、予定調和的でリアルに迫らない映画もいい。娯楽なんだから「死」について「社会と人間」について深く考える必要はない、という意見も一理ある。けれどもこれは、人間を彫刻した映画だ。細部までじっくり観察して美しさも醜さも含めて表現した映画だ。醜さを描くには、おそらく脚本家や監督は己の醜さと向き合わなければならなかっただろうし、それは辛い作業だ。監督と脚本を手掛けた当初19歳の鬼才ムラーリ・K・タルリは辛い思いをしてでも伝えたいことがあったのだろう。それは例えば、こういった言葉かもしれない。
―手遅れになる前に助けろ。会話をしろ。見殺しにしてしまったら君は大事なものを永遠に失うぞ。
一人で死ぬというのがどんなことか見るがいい。こんなに孤独で辛いんだぞ。自殺はしてもさせてもいけない。
(2006年、豪)
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